那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

赤い靴の女(相当昔に書いたエッセー)

2010年12月24日 | エッセー
学生の頃、朝10時ぐらいの東西線に乗って早稲田から高田馬場まで座っていた。酒に疲れた頭でぼんやりと向かいの席に並んだ乗客の足元を見ていると、正面に真っ赤なパンプスが目に止まった。
 その赤いパンプスはひどく赤土に汚れていた。前夜雨が降っていたわけではないのに、なぜ赤土がついているのだろう、と不思議に思って視線を上げた。
 視線の先に完璧な顔の美人がうつむいて文庫本を読んでいた。まるでゴミ置き場に真っ赤なバラが一輪咲いているかのようで、混雑した電車の中では一際目立ってその女の体の周りが白く輝いていた。
 俺はその女の顔をうっとりと見つめた。東京にはこんな綺麗な女性がいるんだ、と胸をときめかした。すると、女性は顔を上げ、アーモンド色の瞳をきらりと輝かせて私の目を直視し、にっこりと微笑した。俺は胸がどきどきして慌てて視線をそらせた。

高田馬場駅でその女は降りた。後を追いかけたかったが、人ごみにその人は消えてしまった。
 その女性の美貌、微笑した瞳の美しさ、赤土の付いた赤い靴、俺は一目ぼれした。
しばらくは探偵のように、靴に付いた赤土の原因を推理してみた。本当に不思議だ。雨も降っていないのになぜ赤土に汚れたのか。また、東京の土は関東ローム層が堆積しているから黒いのが普通である。赤土があるとすれば特殊な工事現場ぐらいだが、一体彼女は、どこを歩いていたのか。
 なぜか頭の中に、横浜の港の近くで泣きながら泥道を歩いているあの女の姿が映画の一場面のように映った。ちょうど、男と別れてきたんだろう。だから半ばヤケになって、男と視線が合ったときに微笑を返したのではないか、とも考えた。
 あんな綺麗な瞳で赤の他人に目線を合わせて微笑むような、そんな澄んだ心の人間が、この世にいるとは思えない。一体どんな人なんだろう。俺の頭の中は、その女のことで一杯になった。もう二度と会えるはずがないだけに、その恋心は強く、つらかった。

ところが、会うはずがない相手に再会したのだ。
 人でごった返している高田馬場駅の前をぼんやりと歩いていたら、その女が目の前で自転車から降りて、坂の向こうへ歩いていった。その歩く姿を見て愕然とした。彼女は小児麻痺の後遺症でもあるらしく、腰が少し片側に突き出て、足を引きずって歩いていったのである。彼女は身体障害者だったのだ。
 
俺はその姿を見て、胸が苦しくなった。哀れんだのではない。ますます彼女に心を奪われてしまったのである。
 美というものはどこか捩れているほうがいい、と俺は常々思っていた。風呂屋の壁に描かれたペンキ絵の富士山のように完全なプロポーションのものは平板でつまらない。美は乱調にある。あんな美人が身体障害者だというのは、俺にとってはますます魅力的で、更にいえばより性的な存在に思えた。
 それから、人格形成の面から見ても、なに不自由なく育った美人よりも、自分の身体に劣等感を抱いて育った美人のほうが、人生の悲哀を知っている分ずっと人に親切にできるに違いない。最初に会ったとき、俺の目を直視して微笑んだのは、彼女がああいう体に生まれたからではないか。そう思った。
 
注意してみていると、彼女は毎日同じ場所に自転車を止めていた。どこかに勤めに出ているのだろう。ハンドルの前に籐のカゴの付いた特徴のある自転車を見るたびに俺の心は熱くなった。
 そしてついにラブレターを書いた。「あなたに一目ぼれしました。少しの時間でいいから話してください」といった内容の手紙を書いて、いつもの自転車のカゴに入れようとしたのだが、胸がどきどきしてどうしても手紙を入れることが出来なかった。
 俺は自分の小心さに腹立たしさを覚えながら、その人のことを諦めようと努力した。

夜、酔っ払って高田馬場の住宅街を歩いていると、狭い上り坂の途中に洋館風のアパートがあった。そのアパートの前には大きなカリンの木が植えてあって、家の前を通り過ぎると高貴な香りが鼻をなで、何故か俺は、あんな美人はこんな家に住んでいるに違いないと思ったものだ。

赤いパンプスに泥をつけた、美しい障害者。カリンのあるアパートで暮らしている。なんていいんだろう。俺は現実と空想をごちゃまぜにして、その女性のイメージを膨らませ、苦しい胸に自分勝手な絵を描いた。もうこの人とは一生、一言も話すことなくお互いにこの世から消えてしまう。そのはかなく辛い現実の前で、俺は女のようによろめき、胸を押さえて、立ち止まっていた。

それから何年たったことだろう。高田馬場にある公立の図書館に用事があって、広い図書館の中を歩き回っていたときに、視聴覚ライブラリーの受付にあの女が座っていたのである。彼女はそこに勤める職員で、だから毎日駅前に自転車を置いて通っていたのだ。

しかし、俺はそのときもう胸をふるわせることはなかった。そのとき俺は、美人で金持ちで高慢で鼻持ちならない韓国の留学生と同棲していて、肉欲の虜になっていたからである。風呂屋に描かれたペンキ絵の富士山を愛撫しているうちに、俺は赤い靴の女の特別な美しさを忘れてしまっていたのだ。

今、つくづく後悔している。下らぬ肉欲に溺れていた俺の心から、あの赤い靴の女の面影が消えてしまったことを。なぜあの時、受付にいる女性に声をかける気持ちになれなかったのか。肉欲は罪である。臆病は罪である。

本当にもう一生会うことが出来ないあの女。今はどんなくらしをしているだろう。
あなたは、なぜあの時赤いパンプスに赤土をつけていたのですか?
なぜ俺を見て、にっこり微笑んだのですか?
あなたの声を聞かせてください。

(もうこの美女も50代でしょう。光陰矢のごとし)


自動車事故教習所を作ってみたら

2010年12月23日 | 雑談
私は凝り性だ。何かに懲りだすと、最低3ヶ月、大抵は3年間夢中になる。
山菜採集も、釣りも、日曜大工も、3年間は熱病患者のように集中した。
 
自動車の運転もそうだ。免許を取って、最初の一年間は「毎日100キロ走る」ことを実践した。
だから、愛媛県の西南部では、大げさに言えば、「走らなかった道はない」といっていいほど走りまくった。遠くの町のブラインドカーブの角度まで全て覚えていたものである。

ところで、自動車教習所では、法定速度をきちんと守り、絶対に事故が起こらない状況で実技運転をする。だが、実際の道路に出てみると、法定速度で走っていたら、あおられ、追い抜かれ、逆に危険だ。教習所で習っていない状況に晒されるのである。「ウソ、そんなことあり?」と悲鳴を上げる現場ばかりなのである。

だから、私は最初の愛車は「車検2年付き、20万円」のスプリンターを買って、最初の3年間は徹底的に危険な運転を試した。例えば、山岳地帯で、ガードレールの外は谷底の道で、「どこまで左に寄ったらガードレールにぶつかるか」を何度も試した。
 狭い道で対向車と出会い離合するときに、どこまで左に寄ればガードレールにぶつかるか、などという訓練は、教習所では教えない。だから、私は、ガードレールを擦っては離れ、擦っては離れる練習をつんで、車体の左側面の車幅感覚を鍛えたのだ。なかなか擦れないものだ。勇気が必要だよ。
 そうだ。小学校のグランドに女房を立たせて、手を横に伸ばさせ、その手の先にフェンダーミラーを擦らせる、という練習も繰り返し行った。
 自分の身体の延長として車が運転できるようになるための訓練である。

あと、きついカーブの連続する山岳地帯を「左手一本で運転する」練習にも熱中した。これは突然右手が使えなくなったときのための練習である。また、右でも左でも自在に車を動かせるようにするための訓練でもあった。
 おかげで愛媛県の小京都と言われる「内子町」の路地を走るときに大いに役立った。内子の路地は非常に狭く、おまけに車や自転車や人でごった返しているのだ。そういう狭隘な道を右に左にハンドルを切って走る抜けるには、両手で運転するよりも、むしろハンドルの真上を片手で握って走るほうが、とっさの対応に対処できる。ついでにギアはセカンドに入れておくのがいい。急ブレーキや急アクセルが利きやすいからだ。所謂、ドラバビリティーが高くなるんだね。同乗した親戚のおばちゃんが、「お前、運転うまいね。うちの息子はこの道は怖くて入らないよ」と言ってくれたときは嬉しかった。

さて、頭の中で四角い枠組みをイメージして欲しい。その枠組みの中に丸い円がある。その丸い円は四角い枠に接していない。四角い枠の線の上は、事故死に出会う可能性の高い線である。
 丸い円の外と四角い枠組みの間が、危険ゾーンで、丸い枠組みが安全ゾーンだ。自動車教習所では、この丸い円の中だけの運転しか教えていないんだね。だから、丸い円の外側のグレーゾーンを教える「自動車事故教習所」を作るべきだと思っているんだよ。

例えば、ガードレールを擦る練習。それから、オカマを掘る練習。どれぐらいの車間距離をとっていないと危険か、これで教えるわけだ。それから壁に激突する練習。何キロで激突すればどれぐらいの衝撃が襲ってくるのか、体で覚えさせるわけ。
 それから、あえて危険な状況を作ってわざと事故を体験させる練習。例えば「サンキュウ事故」のシチュエーションを生徒には秘密で作っておく。まず100%事故を起こすだろう。そういうありとあらゆる危険な設定を体感させてやれば、普通の教習所を出た人間より、何倍も「安全運転」が身に付くに違いない。
 冗談じゃないんだよ。本気でそういう「自動車事故教習所」があったら、どれだけ事故の数が減ることだろうと思ってる。

こんな発想を抱いたのは、私が実験映画ファンだから、ということと大いに関係している。
実験映画というのは、普通の撮影マニュアルや編集方法からみたら、「事故」みたいなNGカットをいかに修辞法の一つとして応用するか、という世界なんだ。
 例えば、普通は適正露出を決めて、被写体をラチチュードの幅の間において明暗のグラデーションを生み出す。でも実験映画だと、わざと露出オーバーにしたりアンダーにして、目に「交通事故」を味あわせる。
 パンニングだってそうだね。ある一定の速さを超えると人間の目にはチカチカして不快なんだが、実験映像作家はわざとスラッシュパンを多用して、「スピード違反」を繰り返すからね。
 安全な丸い円の外側にあるグレーゾーンの中に表現の可能性を見つけるのが実験映画だ。
自動車事故教習所も同じだね。交通事故ゾーンぎりぎりの運転を知っている運転者は、普通の運転者より遥かにテクニシャンだ。実験映像作家もテクニシャンが揃っているからね

それにしても、日本の交通死亡事故を「一発で半分に減らす方法」があるのに、政府はなぜかそれをやらない。ご存知かな?
 簡単ですよ。「100キロ以上のスピードが出ないようにリミッターをつける」。これだけで死亡事故は半分以上減ります。
 みんなそれを分かっているのに、なぜか実行しない。噂では、政権与党が自動車産業から莫大な寄付をもらっているかららしい。また一説には、「事故回避」のために100キロ以上のスピードがでるように車を作っている、という自動車産業の主張に沿っている、と言われているが、こんなのは嘘っぱちだよ。私は以前毎日のように中央高速を走っていたが、ブレーキを踏んで事故を回避する場面はあっても、アクセルを踏んで事故を回避する場面なんて絶対にないからね。万一あるとすれば、元々スピードオーバーで二台の車が走りあっている時だ。

父の思い出

2010年12月21日 | 雑談
明治元年、紀州和歌山から有馬福三郎(もとは八三郎との説あり)という武士が愛媛県と高知県の県境に妻子を連れて逃げてきた。戊辰戦争において戦略上の諍いから命を狙われ、四国の寺寺を転々と飛び石伝いに渡り、現在の愛媛県東宇和郡野村町惣川小松、という地に居を構えた。寺寺を伝わってやってきたということは、そこは寺社奉行の管轄だから役人が手が出せないことを意味する。明治維新の激動の時代にはそういう危急の事態があちこちでおこったのだろう。ちなみに有馬は森家の長男だったが事情があって有馬家の養子となった。森家は南朝の後村上天皇に使えた地頭(守護大名)で、本能寺の変を起こした明智光秀の最期の書簡を有しており(無敵の鉄砲隊雑賀衆を貸してくれというもの)、徳川家康の小牧の戦いの36人衆に名を連ね、江戸時代になってからは代官を勤めた。これは全て海南市が発行している歴史書の中に記されており、私はそのコピーを手元に持っている。徳川御三家の旗本などと言うものは、勝小吉の手記を読めばわかるが、酒と武道と博打が仕事だったといって過言ではない。
ともかく、有馬は妻と娘を連れていた。娘の名前をお梅という。

福三郎は学問も才覚もあったために地元の有力者に気に入られ、今で言う行政書士のような仕事に就いた。平民に苗字がついたのが明治3年だから、当時有馬という姓を名乗るだけで珍しい存在だった。地元の郷土史を読むと、当時姓を持っていたのは庄屋と神官ら5名のみで、有馬福三郎の記述は漏れている。
 また、それが紀州武士(旗本)の癖というものだろう、夜になると自宅を博打場にして地元の人間相手にさいころ賭博をしていたらしい。役人に見つからないように、福三郎の妻は庭の生垣に糸を張り巡らせて、その端を片手でつまんで、糸がピンと張られると、役人が来た、と告げるのである。すると、福三郎はさいころと壷を家の前の川に放り投げ、突然演説をし始める。まるで地元民を前に学問の講義している振りをしてごまかした、という逸話が残っている。不思議な話ではない。江戸時代の公家たちも賭場を開いてそれを副業としていたものだ。それに加えて、旧幕臣にとって明治の役人は敵である。新参の役人が、何を生意気に、という反発もあったのだろう。勘の鋭い人だったので、博打がばれたことは一度もなく、昼間は名士として村で尊敬されていた。
 いかさまをやっていたのかどうか知らないが、福三郎は非常に博打が強く、ある意味伝説的な人物となった。彼の墓石は博打好きの人々によって削り取られ縁が丸くなっているのを私は実際に見ている。

娘お梅は長じて、山本覚治という男と結婚した。不思議なことに、有馬と山本とが結婚して「那田」という姓を名乗ることになった。その理由について私はかなり調べたが未だに謎である。

お梅は4人の男の子を産んだ。その3番目が私の父親、那田和三郎である。父は兄弟の中で飛びぬけて頭が良かったらしい。当時、「人買い」という者が存在しており、その人買いがやってきて、この子は神童だ、ぜひ売って欲しいとせがんだという。

夫は何でも妻に従う鷹揚な人柄で金には無頓着の人だったらしいが、お梅は一頭の牛を飼い、それを徐々に増やして財を成し、4人の子供全てに家と山を与えてしすえた。他の兄弟は主に農民になったが、父親は教員になることを目指して、高知の旧制中学に進んだ。当時、校長になるには師範学校出身者でなければいけなかったが、もう一つの稀な方法として、検定試験制度というのがあった。学費が足りなかった父は後者を選び、八度連続して合格した。最後まで合格して残ったのは愛媛県で3人だけだったという。

父は30そこそこで小学校校長となった。
 初めて校長として赴任するとき、学校への行き道を通りすがりの老人に尋ねた。学校にたどり着くと、その老人がいて「さっきの坊よ、何しにきた」と声をかけた。老人は学校の用務員であった。それほど若くして校長になった。
 父は毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に登校するので、村人は父が家の前を通る時間に合わせて時計の針を合わせたらしい。これと同じ話はカントの自伝にでてくるが、私はある農婦から直接聞いたので嘘ではない。
 また、こんな逸話も残っている。父が登校したとき、背広の襟元から値段の付いたタグが飛び出ていた。そこで女教師がそのことを告げて切り取ろうとすると、「わざと出しているんだから、切らずにいてくれ」と言った。実は、その背広は非常な安物で、ひらの教師たちは大概父より10倍も高い背広を着ていた。そこで父が安物をこれ見よがしに着て見せるものだから、校長より高い背広は着れない、ということで校内の華美な風潮が治まった、という。
 また、あるとき大きな地震があった。父以外の家中の者は驚いて家の外に飛び出し、地震が収まったのを見て戻ってくると、父は笑いながら「外に出たら揺れない場所があったか?」と尋ねたという。父は胆力の座ったユーモリストであった。

父は大病に何度もかかった。一度は胃潰瘍で、洗面器一杯の血を吐いた。しかし医者にいかず、というよりも非常な山岳地帯であったため、近くに医者がなかったのだが、絶食療法を選んで自力で潰瘍を治した。
 また肺水腫にも罹った。これは自然呼吸が出来なくなる難病だが、これも何日も眠らず自力呼吸することで医者にかからず治した。
 父は、のちに私に「多少の病気は腹式呼吸をすれば治る」と教えた。

このころ、一人の乞食坊主が家を訪ねてきた。家人が嫌がるにもかかわらず、父は家に上げ、風呂に入れて食事をもてなし、一晩泊まらせている。これは父の最初の妻の日記に書かれている事実である。父は、このお坊さんは立派な人だから丁寧に扱うように、と妻に告げた。私の推測ではその乞食坊主は、四国を旅していた山頭火ではないか、と思うのだが、確証はない。

父は小学校校長を務めた後、農協長、村会議長、収入役、助役など、町の要職は全て勤めた。村議立候補は自ら望んだことでなく、村民の要請に答えたものだった。父は一円も使わず、全て村民が手弁当でトップ当選した。現在は対抗馬がなくても飲み食いのために、町議レベルで2000万はかかるらしい。父の理想的な選挙の様子は神代の昔の物語のようで、なるほど明治の人はそういう気風であったから、世界中から日本人は尊敬されていたのだろう。

第二次大戦のときは「大尉相当官」として村民に軍事訓話をし、敗戦後も父親はしばらく陸軍の軍服を着ることを好んだ。明治生まれの人間らしく父は天皇を敬愛していた。「小豆色の車に乗った陛下の姿が見えると、思わず涙がこぼれるのが日本人だ」と言っていた。が、私は面白い父の文章を読んだことがある。父が70代に退職公務員用の文集に書いた文章だ。父が天皇を当地にお迎えしたときの思い出話をしているのだが、夏目漱石のような簡潔な文体で、父の目の前を天皇が通り過ぎるとき、一発放屁された、と書いているのである。この辺り、父はやはりユーモリストであって、盲目的なロイヤリストとは一線を画している。

戦後は楽隠居の身分で、同じく再婚の母と結ばれ、私が生まれた。このとき父親は63歳である。私が生まれる前後に二人流産している。私と違って精は強かったようだ。

母は事業家肌で、戦後は料亭と芸者置屋を経営し相当に儲けていたが、私の将来の教育のためにならないと父親が意見して、一時期質屋を営んだのちに、衣料店に落ち着いた。
 父は資金を出しただけで経営には一切タッチしなかったが、母が不在のときに留守番ぐらいはした。たまたまそのときに客が来た。客の女性は上着を欲しがった。ところが父親は「その上着はまだまだ着られます。着られなくなってから買えばいいのでは」と言って、その女を追い返してしまった。嘘ではない。母はその客から事実を聞かされて、ものすごい剣幕で父親をなじった。全く商売には向かない人間であった。

私は完全な父親っ子で、子供のころから、なんと、高校2年生まで父の布団に一緒に寝ていた。小学生のころ、私は寝物語に、俳句や短歌の作り方を父から習ったものである。
 小学4年のとき盲腸で一週間余り学校を休んだとき、学習の遅れたぶんを父親が教えてくれた。その指導法は独特のもので、学校で習っていた方法と全く違っていた。数字で計算するところを図形を使って理解するやりかたで、父に習うと難しい内容がゲームのように楽しくなるのである。久々に学校に行くとちょうどテストだったが私一人だけが満点を取ることが出来た。教師が、「習ってないところなのによく解けたね」と褒めてくれた。私は誇らしく、父が教えてくれたことを告げた。
 高校1、2年のころ喫煙が父にばれたとき、「そういえばどうも最近一緒に寝ているとタバコ臭いと思っていた」と言われた記憶がある。そんな不良高校生になってまで父親と寝ていたのである。それほど父が好きだった。
 高校時代の私は勉強は出来るが問題児童であり、教師をつるし上げてその教師を登校拒否にしたことがあるぐらいの、教員にとっては実に扱いにくいワルだった。当時、私の通っていた高校では、男子生徒は後ろの髪の毛を制服のカラー以上に伸ばしてはいけない、という規則があった。私は教員たちに「生徒は自分の肉体まで教員に預けているのではない。他人の髪の毛を切る権利など教員にはない。お前らは勉強だけ教えておけばいい」と言い放って問題になった。担任が困り果て、自宅に訪れて父親に私の言動を伝えたところ、父は「それは息子の言い分が正しい」と答えた。教員は二の句が継げなかったという。この逸話は、父が死んでから母から聞いた。そんな父親だったから、私は高校二年まで父の布団で寝たのである。

私は文学者になりたかったが、人間の資質を見抜くスペシャリストである父は、しばしば「お前は弁護士に向いているから、法学部を受けなさい」とアドバイスした。当時は馬耳東風で気にも留めなかったものの、さすがに父は良く見ていたものだと、後々分かった。私は普段理屈を言うのはキライだが、言い出すと鬼のようなところがあり、ギリギリと錐で揉みこむような議論が好きだ。もしそちらのほうへ進んでいたら名弁護士になっていたに違いない。

私が早稲田大学一年生の夏、父は83歳で大往生を遂げた。日蓮の遺文に成仏の相として「色白く、身は鳥の羽毛のように軽く、柔らかになる」とあるが、まさに父は成仏の相だった。顔は上品に白く、死後2日立っても手足は柔らかく動き、大柄の人間だったにもかかわらず、四人で遺体の入った棺桶を持ち上げるとふわっと頭の上まで持ち上がった。まるで超常現象のようだった。
 火葬場で骨を拾うときに、喉仏が綺麗に残り、その姿がまるで僧が合掌している姿に見え(だから喉仏というのだが)、参列者全員も思わず合掌した。おんぼやき(火葬場職員)も、こんな綺麗な骨は見たことがありません、と褒めてくれた。もっともオンボヤキというものは誰に対してでも骨を褒めるのが仕事である。それにしても美しい喉仏だった。

どう思い出しても、私は父親が胡坐をかいているのを見たことがなかった。常に古武士らしいたたずまいで正座していた。80を過ぎて膝を悪くした後も、一人椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしている姿しか記憶にない。母に聞いたところ、母も父が胡坐をかいている姿は見たことがないという。20年の結婚生活の間に一度も胡坐をかかなかったというのは、かなり異常なことである。武士の娘に育てられた明治男の、それが美学というものなのだろうか。この逸話ひとつだけでも父の異様な、しかし自然体の気迫というものが伺われる。

時々母と死んだ父の話をする。私は幽霊でもいいから父と再会したいと思うのだが、夢にさえ出てこない。母の夢にも出ないという。一生を自分の意思のままに生きた父のような人間は、もうこの世に未練はないのであろう。
 もし霊というものがあるとすれば、父は今の私をどう思っているだろう。不甲斐ない息子と思っているだろうか。笑って許してくれるだろうか。それがいつも気にかかる。仏教では輪廻転生を説く。私がもう一度生まれ変わるとしたら、私は同じ父母の元に生まれたい。そして今度は高校2年生でやめず、父が亡くなるまで一生父の布団で一緒に眠りたいと思う。


こういう買い方をすればいいのよ

2010年12月15日 | 達人の競馬教室
昨日買った競馬新聞誌に今日の阪神ジュベナイルフィーユの情報があったから、2時半からジックリ考えて、投票しようとしたら、その瞬間電話がかかって、nttのリモートサポート。午前中に電話したら混んでて、あとで向こうがかけるようにしておいたわけ。それで、サポーターの接続を待っている間に、投票しました。
_____________________
IPAT 当日投票内容照会結果
投票メニュー 照会メニュー 受付番号照会 終了

受付番号:0002 受付時刻:15:25 受付ベット数:10
受付内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額 的中
(1) 阪神(日) 11R 馬 連 BOX 01,04,11,14,18 各100円(計1,000円) 的中
購入金額 1,000円 払戻金額 1,260円

68912593
Copyright (C) Japan Racing Association.
_________________________________
11R 第62回 阪神ジュベナイルフィリーズ(GI)


サラ系2歳 1600m 芝・右 外
(国際)牝(指定) オープン 馬齢
本 賞 金 : 6500 、 2600 、 1600 、 980 、 650 万円
付加賞金 : 133 、 38 、 19 万円
発走 15:40
天候:晴   芝:良

着順 枠 馬番 馬名 性齢 負担
重量 騎手 タイム 着差 推定
上り 馬体重 調教師 単勝人気
1 11 レーヴディソール 牝2 54.0 福永祐一 1:35.7   33.9 450 -2 松田博資 1
2 4 ホエールキャプチャ 牝2 54.0 池添謙一 1:35.8 1/2 34.1 456 0 田中清隆 4
3 18 ライステラス 牝2 54.0 M.デムーロ 1:36.0 1 34.5 452 +4 和田正道 8
4 1 アヴェンチュラ 牝2 54.0 和田竜二 1:36.1 3/4 34.1 462 -12 角居勝彦 3
5 12 ツルマルワンピース 牝2 54.0 安藤勝己 1:36.1 クビ 34.7 488 0 橋口弘次郎 11
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ね、ちゃんと8番人気の⑱抑えてるでしょ?
阪神の外回りは最後の直線が長いので最後に差されたけど、デムーロが乗ったら6馬身は違うね。
コッチがきていたら40倍ぐらいあったかな。
④⑱で決まってたらすごいでしょう?

こういう風に買えば競馬は副業になります。(僕は一日に1レースか、せいぜい2レースしか買いません)

ちなみに、即パットの画面は5時に消えるからコピーできなかったけど、3着まで粘った⑱の馬からも流しました。
8番人気に良く落とすなぁ。調教も抜群でした。
1着から0.3秒差ですよ。
ま、そんな感じです。

軽く馬連530倍

2010年12月15日 | 達人の競馬教室
IPAT 最新投票内容照会結果
投票メニュー 照会メニュー 終了

受付番号:0001 受付時刻:16:18 受付ベット数:12
受付内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額 的中
(1) 阪神(土) 12R 馬 連 ながし 軸馬:09
相手:01,02,03,04,05,06,07,08,10,11,12,13 各100円(計1,200円) 的中
購入金額 1,200円 払戻金額 53,460円

82014366
Copyright (C) Japan Racing Association
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はい、100円的中して、5万3千円になりました。

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着順 枠 馬番 馬名 性齢 負担
重量 騎手 タイム 着差 推定
上り 馬体重 調教師 単勝人気
1 9 ベルモントサーガ 牡4 57.0 浜中俊 1:53.4   534 -4 矢作芳人8
2 3 ライジングバイオ牡5 54.0 ▲ 川須栄彦 1:53.4ハナ472 +2 坪憲章11
3 2 サンレイハスラー牡4 57.0 後藤浩輝 1:53.6 1 506 +4 西橋豊治 5
4 5 スエズ せん5 57.0 佐藤哲三 1:53.6 ハナ 514 +2 吉田直弘 2
5 7 サンマルボス 牡3 56.0 和田竜二 1:53.6 クビ478 0 大根田裕之1
************************
8番人気と11番人気で決まったわけです。

それで、傑作なのが、投票するまでいろんな人にメールを送ったり、印刷したりして、フト気づくと阪神12レースの締め切り5分前だった。それでログインをしたり様々なプロセスを経て、時間を見たら残り1分でした。
で、典型的な逃げ馬がいないから前残りと予想して(阪神ダート良馬場は先行有利)、先行勢で調教が抜群だったとコメントのある⑨番から、時間がないので総流ししたわけです。総流しは一瞬で出来るわけね。つまりワンクリックでいい。
で、ノイズの多いラジオで聞いていたら案の定3番手につけていた⑨が突っ込んできた。

よし、勝った、と思って改めて新聞を見たら全くの無印。
で、今夜は外飲みしません。行きつけの居酒屋の若者たちが、那田さんは競馬預金に手をつけなければ相当溜まってますよ、とアドバイスしてくれたからね。節約質素に生きましょう。巧い具合にロータスの広告費、広告代理店の人と話し合って5万必要だったので、これをまわしましょう。世の中って巧くできてるね。

teacupが今日はまる一日メインテナンスなので冗談を

2010年12月11日 | 歴史
2.26事件のとき。

蔵相の高橋是清は、女と裸で寝ていた。
反乱軍の将校は、高橋を起こして寝巻きを渡し「高橋コレキヨ」と言った。

反乱聞かれた天皇陛下は、ふらつかれた。「朕はジュウシンを失った」(重臣=重心)

こういう冗談を庶民が考え出したんだから、なんという才能なのだろうと思う。

大西マジックの思い出

2010年12月07日 | スポーツ、武道、格闘技など
それにしても、楽しかったこと二つ。
①ハンカチ王子は、高校野球で優勝したときに巨人に3億詰まれたけど、無視して、私が早大に入って、六大学の黄金時代を作りますと宣言し実行した。で、技巧派だったけど150キロ超える豪腕になり、条件も出さず北海道に行ったよ。
 水由さん、北海道の人は善良だから行くのが楽しみだって。日ハムですか、あんなマイナー球団にね。さすが群馬県の郷士の出身でした!

②さっき見ていたら、今日早稲田と明治のラグビーの試合があって、早稲田の楽勝でした。私はラッキーにも日本ラグビー理論の大成者大西鐵之祐の授業を受け、北島監督率いる黄金時代の明治との一戦を見ました。大西監督は70を超えていたけど特別臨時監督となって登場した。

明治は相変わらず重量フォアードで、パントしては前進、サインが3つしかない。大西監督は、学生の自主練習に任せ、サインが30前後あった。99対1ぐらいでスポーツ新聞jは明治有利と書いていた。大西先生は部下たちに「君たちはマスコミを信じるか。私を信じるか。必ず早稲田が勝つ」と言って、ユニフォームを渡すときに塩を撒いた。つまりグラウンドで死ね、と言う意味。
 で、見事に早稲田が勝った。大西マジックと言われたね。覚えてるだろK君。

で、今日のニュースで明治の監督が、涙目で「とにかく早稲田に勝て」とハッパをかけていた。僕は、ああ、明治の負けだな、とわかりました。勝て、倒せ、攻めろ、というのは敵に対する怨念と劣等感です。まるで朝鮮だ。指導者がこれではいけない。早稲田は伝統的に、相手に対する憎しみや勝ち負けは度外視して、黙々と稽古をする。体重が20キロ違っても、必殺のタックルを研究する。そして大西監督の世界一のラグビー理論、接近、展開、連続(展開、接近、連続だったかも)で、オープンに回し、小柄が大男に知恵で勝つ。
敵に勝つのではなく、自分に勝んだよ。だから試合が終わればside off 両者礼。敵も味方もない、でドロドロのユニフォームを交換する。

では大西先生の写真をアップ。もうこんな名物教授は早稲田にはいないだろうな。


こういう風に馬券を買うと損しない方法を教えます

2010年12月07日 | 達人の競馬教室
まずは当たった馬券からね。何度も言うように、私は馬連しか買いません。
12月4日土曜、JCダートの前日です。

受付番号:0001 受付時刻:14:43 受付ベット数:10
受付内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額 的中
(1) 中山(土) 10R 馬 連 ながし 軸馬:07
相手:01,02,03,04,05,08,09,11,12,14 各100円(計1,000円) 的中
購入金額 1,000円 払戻金額 6,910円

75831565
Copyright (C) Japan Racing Association.
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10R 葉牡丹賞

サラ系2歳 2000m 芝・右
(混合)(特指) 2歳500万円以下 馬齢

着順 枠 馬番 馬名 性齢 負担
重量 騎手 タイム 着差 推定
上り 馬体重 調教師 単勝 人気
1 4 ショウナンパルフェ 牡2 55.0 内田博幸 2:01.1   35.7 490 +4 二ノ宮敬宇 2
2 7 マイネルメダリスト 牡2 55.0 A.クラストゥス 2:01.1 ハナ 35.7 462 0 田中清隆 10
3 8 トーセンケイトゥー 牡2 55.0 柴田善臣 2:01.2 クビ 35.2 462 +4 角居勝彦 4
4 1 ピュアブリーゼ 牝2 54.0 北村宏司 2:01.3 1/2 36.0 436 +2 古賀慎明 7
5 14 マイネジャンヌ 牝2 54.0 三浦皇成 2:01.4 3/4 35.7 452 0 清水久詞 11
6 11 ヴァルナビスティー 牡2 55.0 勝浦正樹 2:01.6 1 1/4 36.0 492 -4 尾形充弘 12
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ちょっと解説。一番最後の数字が人気です。
つまり私が軸にした⑦番のウマは10番人気です。10番人気→2番人気と決まったわけ。
で、4,5,6着に7番人気、11番人気、12番人気が来ていて、一着との差は、0.5秒です。
 0.5秒ですよ。もし10番人気と12番人気で決まったら軽く100円が10万円にはなったでしょう。ご覧下さい、当然抑えています。

 3連単をするのは競馬がわかってない証拠。馬連で過去、100円が350万円になったことがあります。
 そういうのを静かに狙ってるわけ。

さ、明日の軍資金が出来た。が、これはもう趣味道楽じゃない。頭がフラフラする。ああ、疲れた。

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外れ馬券も見せましょう受付番号:0004 受付時刻:14:57 受付ベット数:12
受付内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額 的中
(1) 阪神(日) 11R 馬 連 ながし 軸馬:02
相手:01,03,05,06,07,08,10,12,13,14,15,16 各100円(計1,200円)
購入金額 1,200円 払戻金額 0円
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一番人気③の逃げ切りはないだろう、と思って②から流しましたが、素人予想の通り逃げ切った。負けたあとの反省が大事なので考えてみる。まだJRAの上がりタイムが表示されていないが、今日のようにヤヤ重のダートコースでは、芝適正のある馬が強い(芝よりダートの濡れた馬場のほうが早いラップが出る)。それで②を軸にしたのだが、③もそれなりに芝適性はあった。
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11R 第11回 ジャパンカップダート(GI)


サラ系3歳以上 1800m ダート・右
(国際)(指定) オープン 定量
本 賞 金 : 13000 、 5200 、 3300 、 2000 、 1300 万円
付加賞金 : 348.6 、 99.6 、 49.8 万円
発走 15:40
天候:晴   ダート:稍重

着順 枠 馬番 馬名 性齢 負担
重量 騎手 タイム 着差 推定
上り 馬体重 調教師 単勝人気

1 3 トランセンド 牡4 57.0 藤田伸二 1:48.9   512 -2 安田隆行 1
2 14 グロリアスノア 牡4 57.0 小林慎一郎 1:48.9 クビ 526 +10 矢作芳人 8
3 12 アドマイヤスバル 牡7 57.0 小牧太 1:49.1 1 1/4 520 +14 中尾秀正 11
4 8 バーディバーディ 牡3 56.0 池添謙一 1:49.1 ハナ 482 +6 池江泰郎 10
5 1 シルクメビウス 牡4 57.0 田中博康 1:49.4 2 496

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8番人気、11番人気、10番人気の2~4着も抑えているが軸が来ないのだから仕方がない。やっぱ日刊ゲンダイだと限界があるね。専門誌買わなきゃ。パドックだけなら②③④⑥⑩が抜群だった。

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いま、JRAの競争成績を見た。
トランセンドのタイムはほとんどレコードと同じ。0.3秒差ですね。
そして、トランセンドの上がり3ハロンが36.6秒。僕が軸にした②の馬は37.7秒。
これじゃ、逃げ馬③をさせるわけがない。
日刊ゲンダイではG1の場合、過去7レースを載せているはずだが、残念ならがらその中に③が過去
阪神や中山に出走してないので上がりタイムが分からなかったことと,やっぱり調教のときの調子です。
調教と言っても、これが至難の技、どの馬場で調教したか、馬也か、強目か、一杯かなどなど
ファクターが無数と言っていいほどある。
 そして、トラックマンなんて実にイイカゲンだから、抜群のラップを出しているのに、「今回は見送り」
などと断定する。馬也で楽に走っているのと、ムチ入れてシゴイたときじゃ違うのよ。

というわけ。競馬専門誌は高いけど、今後は買うことにしましょう。じゃあね。