那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

私のレジェンド

2016年11月30日 | 医療、健康法

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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私にはレジェンドが4つありました。一つは見性体験をしたことです。二つ目は創価学会の第一の標的となったことです。三つめは指導教授に絶縁状を書いて「君を必ず教授にする」と言われていたのに年収1千万の道を自ら閉ざしたことです。4つ目はKというどうしようもないエゴイストによりこのブログが停止されたことです。そこにまた一つのレジェンドが起こりました。97歳の母親が肺に水が溜まり肺炎を起こして救急車で南多摩病院に運ばれたときには退院の可能性は1%と言われましたが、一カ月もかからないうちに今日退院し、今は眠っています。これは主治医の関宏先生、看護師の皆さん、時を斬るブログで有名な伏見顕正さん、私の最も善き助言者である玄侑宗久さん、また春名先生を囲む会の春名先生のおかげです。また私も見舞いに行く度に三浦寛先生から習った操体の方法で施術を行いました。本当に受付掛かりから医師まで私が創価学会批判をしていることを知っているかのように非常に親切にしてくれました。南多摩病院はアンチ創価系の病院かと思ったほどです。

南多摩病院

また初めて見た、と言われたことが私には3回あります。一度目は車の免許を取る時の適正テスト(IQテストのようなもの)で判断力の部分が満点だったので、教官から、10年以上この仕事をしているが満点の人は初めて見た、と言われました。二度目は合気道を習っていた時に中島師範から「あなたのように上達の早い人は初めて見た」と言われました。三度目は伏見顕正さんに私の運勢を占ってもらったところ「パワーラインが一本でも凄いのに六本もある人は初めて見た。常人を超えた方のようです」といわれました。そこにもう一つ「初めて見た」が加わりました。母親が退院するときに主治医の関裕先生が嬉しそうな顔で「96歳で肺炎になりながら退院することが出来た人は初めて見た」と言われました。

私は今年60歳ですが、まだ2つや3つのレジェンドを作りますので楽しみにして下さい。


牧野さんの家の方に

2016年11月29日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。
そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の慈悲によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
 野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。



  この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
そういうわけで奥村氏と指導教授の慈悲のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか、将来は必ず君を教授にするから」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 (牧野守氏が日本映画に関しては日本一と言われる牧野コレクションをコロンビア大学に1億円で売った時の記念文集に載せた文章です)文中にある恩師には絶縁状を出してこの出版計画が白紙に戻ったことを付け加えておきます。


八王子で一番喧嘩の強い男の話

2016年11月28日 | 思い出の記

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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かなり前にこのような話を書いた記憶がありますが、改めて書くことにします。

私が「ボッタクリバーハギワラ(笑)」というギャルズバーの常連だった頃の話です。三崎町で若くしてキャバクラなど3軒も経営していた萩原君(最近は荒れているようですが個人情報なので言いません)が持っていた店で、ネーミングが激しすぎるものだから潰れてしまい、いまは「けむり」という有名な焼き鳥屋になっています。そこのスタッフはほぼ私と同年配で一人は非常に腕のいい板前さんで寝屋川出身のヤクザとも交流のある人物でした。もう一人は高校時代歌舞伎町で番長を張っていたガタイの大きな男です。

その板前さんが一回り下の客に「シゲニイ」だったか「アキニイ」だったか忘れましたが、名前の下に「ニイ」という尊称語を付けるのでその若者がトイレに入った時に板前さんに理由を尋ねると、「那田さん、知らなかったんですが、あの人は八王子で一番喧嘩が強い男ですよ」と答えました。実は八王子にはもう一人一番喧嘩の強い男がいて私はよく知っているのですが、その話はあとにします。八王子には、「八王子のクラプトン」と言われるひとが10人はいるそうなので、この辺りはいい加減でいいと思います。

トイレから帰って来たその男の隣に私は座ることにして「お兄さん、八王子で一番喧嘩が強いらしいね。何勝何敗ぐらいなの?」と聞くと、「20勝20敗ぐらいですが、20敗は負けたと思っていません。もう一度やれば必ず勝ちますから」と答えました。聞くところによれば福生の剣道では全国大会に出場する有名な高校の剣道部の3番目のチームの主将だと聞きました。私も長年剣道をやっていたので剣道の話に花が咲きました。そして、「私ぐらいになると店で絡んで来た相手は喧嘩をせずに、次の店でおごってやります。帰るころには私の子分のようになっていますから」と答えました。彼ぐらいになると戦わずして勝つという方法を知っているのでしょう。

私はギャルズバーや居酒屋で女の子と話しているとよく絡まれ、私も血の気が多い方ですから頭に来て喧嘩をしようと思うのですが、店の人に迷惑をかけると思うと我慢するしかありませんでした。そこでその男にそのような場合にどうすれば店の人に迷惑をかけずに絡んで来た男たちを降参させればいいのか聞いたところ、「いいことを教えて上げます。絡まれたら、直接絡んだ男たちに声をかけるのではなく、店員に、ひょっとして俺、絡まれてる?」と大きな声で聞けばいいんですよ。それでもまだ絡んで来たら表に連れ出して好きなようにすればいいし、普通はそれで静かになります」と答えました。この話は私が作った「集団ストーカーに対する究極の防衛法」に引用しています。

もう一人の八王子で一番喧嘩の強い男は佐藤君と言います。私がこのブログの入っているHPでも宣伝しているチャイナパブで知り合いました。私がモモというママに合気道の連行法を教えていたところ、彼が「先輩、それは合気道ですか?」と聞いて来るので私は彼の隣に座って飲むことにしました。すると彼は柔道も極真空手も黒帯で、ヤクザが3人スナックに入った時に一人で殴り倒し、警察が来た時に(黙っていればいいのに)極真空手の黒帯だと言ったばかりに正当防衛にならなかった話をしました。そして握力は90を超えていて電話帳を敗れる話をしました。そこで私は「佐藤君、握手をしようか?」と言って握手をすることにしました。私は当時握力は65キロぐらいでしたが腕相撲のコツが分かっていたので佐藤君と互角の勝負でした。彼が顔をしかめている時私は「佐藤君、年は幾つ?」と聞いたところ「43歳です」と答えたので「俺は50歳を過ぎた爺だよ。俺と互角でどうするの?」と言ったとたんに、「兄貴と呼ばせて下さい」と言いました。

 

私は当時、微笑禅の会のロゴの入ったジャケットを着て飲んでいたのですが、佐藤君がそれを柔道着の胸に縫い付けたいというので、彼がいない日にチャイナパブに置き、「これを付けて一緒に世直しをしましょう」といったメッセージを付けておきました。町で逢うと佐藤君は大声で「兄貴~、メッセージ有難く頂きました」と声をかけてくれたものです。

2人の八王子で一番喧嘩の強い男はともに内装関係の仕事をしていました。喧嘩と内装の関係があるのかどうかは分かりません。私は還暦を過ぎながらいまだに月に一度程度三崎町で飲みますが、またあの二人と会いたいものだとおもいます。

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全く関係のない話をしますが、今日は用事があって西八王子の中華料理屋でラーメンと餃子を食べてきました。結構美味しい店なので二度目ですが、食事をしている私の目の前で、店主らしい中年の女性中国人が箸を(割りばしではありません。何度も使いまわしの出来るプラスティック製の箸です)20本ほどおしぼりに入れてゴリゴリ回して、それで洗ったつもりなのか箸入れの中に入れていました。もう二度とあの店にはいかないでしょう。知り合いに中国で技術指導者になって研修に行った人物が何人かいますが、例外はあるものの中国人の気質は残業してまで技術を学ぶという熱心さに欠けているので、GNPが世界第2位になっても将来性は無いとのことでした。あの箸の洗い方は今でも目に焼き付いて夢の中に出てきそうです。もっとも、今の日本でもサトリ世代とかユトリ世代の若者は道を究めることより、早く家に帰って遊びたいそうです。日本の未来も明るいとは言えないでしょう。


「春名先生を囲む会」(補筆)&昨夜の民商の望年会での話&石和温泉の遊び方

2016年11月25日 | 雑談

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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前回の「春名先生を囲む会」の報告で書き忘れていたことがあるので補筆します。柔道整復師でデイサービスを経営されている中溝誠吾さんの話によれば戦国時代は刀による殺し合いは最後の最後で、普通は弓矢で攻撃した後、兵隊が槍衾で集団で戦ったとのことでした。刀対刀の戦いは幕末の時が一番多く直刀で戦ったそうです。そこで私は郷里愛媛にいた時に高知城に行って本物の当時の直刀を見たことがあると話しました。基本的には直刀は突きで戦います。それから坂本竜馬を殺したのは今井信郎だと私が話しました。これも郷里愛媛にいた時、私は竜馬研究会に所属していたので徹底的に研究した結果です。会報に寄稿したこともあります。京都見廻り組の今井は免許皆伝の上に自分で「片手打ち」という技を生み出しましたが、余りにも凄い技なので師範から禁止されていました。竜馬の住処が分かったときに今井伸郎は、戸津川村郷士の名刺を出し(戸津川村郷士というのは普段は農民をしていても武士の訓練をしており、徹底的な勤皇派なのでこの名刺を見せると竜馬と中岡慎太郎は油断するからです)、「竜馬先生お久しぶり」と言いました。その時、今井は背中に小刀を隠して相手に見えないようにしていました。すると竜馬が瞬間に今井の方を見ました。その時に今井は龍馬の頭を鉢巻切りにして切り、返す刀で中岡に致命傷を与え、竜馬が慌てて刀を取り出した時には鞘ごと切りつけたために刀身には大きな傷が残っています。そして後は部下たちが無茶苦茶に斬りつけ、今井は謡曲の「安宅の関」を歌いながら悠々として帰って行きました。その様子は中岡慎太郎は翌日まで生きていたので隊員たちに語り残しています。という話をしました。続いて私は坂本竜馬の蝋人形館に行った時に竜馬が乙女姉さんに当てた手紙が長寿のお守りになっている話をしました。それは、世の中には風呂に入ろうとして浴槽の縁に金玉をぶつけて死ぬ人もいるのに、竜馬はこれほど危険な仕事をしながら今まで生きているのは余程の幸運の持ち主である、といった内容の言葉が書いてあるわけですが、その竜馬を殺した今井伸郎は徳川慶喜に付いて静岡県に行き、町長となって天寿を全うしました。ですから生きているうちにぜひその街に行って今井伸郎の記念品を買っておいた方が余程長寿のお守りになるという話もしました。ちなみに今井は海援隊の残党の返り討ちに備えて自宅を忍者屋敷のように改築し、外を歩く時には常に仕込み杖を持っていた、という話をしました。

昨日の民商の望年会では安倍内閣になり貧富の差が激しくなっていると支部長の松岡さんから話がありました。長者番付のトップテンを見せてもらいましたが、在日(ソフトバンク、マルハンなど)と創価系企業(ユニクロなど)ばかりが並んでいました。私はタクシーに乗るたびに景気を聞くのですが(タクシーの運転手は景気と運命共同体なので景気については一番よく知っています)、必ず「最悪です」「この前もスナックが潰れました」と言われることを話しました。また八王子の繁華街(三崎町や中町です)は中国人の租界のようになっている、という話をしました。それから飲み会になったのですが、メンバー5人の中で男は私だけでお酒を飲むのは4人いますが本当の酒飲みがいないせいでしょうか、いつも摘みが足りないのが残念です。最後に生ビールを飲んでいた時に摘みが無くなったので松岡さんに摘みをリクエストしたらなんとオシンコしか出ませんでした。3千円の会費なので仕方ないとしても、これからは焼き鳥や餃子などが出ればいいのですが。それから店のマスターの青春時代の話になり、会員たちはお墓を用意する話や病気の話ばかりになりました。そこで私は支部長の松岡さんに今度の新年会でお墓と病気の話をしたら罰金千円にしましょうと提案しました。その店にはカラオケがあるので、もしも歌わされたら竹内マリアの「人生の扉」を歌おうと思っていましたが、カラオケタイムは無いままで終わってしまいました。私はその店で生ビール2杯と熱燗4合を飲んだのですが、飲み足りないので家に帰りヘルパーさんが作ってくれた野菜炒めとサバの甘辛煮を摘みに月桂冠を3合ほど飲み干して眠りました。

これからは本題の石和温泉の遊び方です。

石和温泉には三種類のコンパニオンがいます。スーパーコンパニオンまたはピンクコンパニオンは最初から本番あり、のコンパニオンのことで、最初からシースルーの姿になり、混浴をするそうです(私はスーパーコンパニオンと遊んだことが無いのでよくは分かりません)。次いで、符丁ですがホテルに「お遊びの出来る子を」と言って置くと隠れて売春をさせるコンパニオンが来ます。しかし、彼女たちは花代を稼ぐためになるべく時間を長くさせようとして中々本番にまでは至りません。そこでお勧めなのはノーマルコンパニオンです。真面目で奇麗な子が多い上に、石和のノーマルコンパニオンはキスや着物の上から胸を撫でる程度は当たり前だからです。私も初めは普通の会話だけで済ませていましたが、そのことをコンパニオンのほうから教えてくれました。ノーマルコンパニオンの口説き方を教えます。(あくまでもお互いが好きなタイプという条件です)。普通はコンパニオンはお客の食事を食べないのですが、私は好きなものを食べさせます。それからそのコンパニオンの好きなアルコールを注文します。今は引退しましたが、三咲ちゃんという石和で一番人気のあるコンパニオンさんと私は長い間付き合っていました。三咲ちゃんはワインのロゼが好きなのでそれをホテルに注文して飲ませます。御互いに酒に飲んでキスをすれば、当然(お互いがタイプであれば)その気になります。その時に「お金を払うと売春になるから、お金は払わないけど時々指名に来るからね」と言ってことに及ぶわけです。これは合法的であり、ただの恋愛ですから犯罪ではありません。石和は警察でさえ忘年会にはコンパニオンを呼んで遊ぶそうですから、売春が主幹産業の街であり、男にとってはパラダイスです。また多分今もそうだと思いますが石和は路上喫煙が許されています。

ところが映像作家の金井勝は「俺にとってお前はメインマンだ(レインマンのもじりで最も理解し合う相手という意味です)」とか、「俺の映像を理解しているのはお前だけだ」などと言っていました。私は金井作品にどうしても解けない謎が3つあるので金井氏本人にそれを指摘したところ金井氏は驚いて「流石那田ちゃんだけある。あの3か所はわざと誰にも分らないように謎を入れていた。当時は難解な映像が流行ったので批評家が分からない場面を入れる必要があったからだ」と私のことを非常に高く買っていました。にも拘わらず。「お前さんは右翼だから俺のためにならないので暫く距離を置く」とか(私は呉竹会の会員なので確かに右翼かもしれませんが私が右翼ならfacebookで投稿している日本人の大半は極右でしょう)、「お前は授業中にキャバクラの話しかしないからクビになると教え子が云っていたぞ」とか(その話は私に私怨をもつ一人の女子学生のデマであることは東京工芸大学の学生の評価を紹介してこのブログで何度も論破しました)、「八王子で芸者と遊んだなどとブログに書くような人間はロクなものではない」(八王子市の観光協会は八王子芸者を残すために予算を組んでいます。芸者と遊ぶのはお大尽遊びと言って憧れの対象であり別紙の対象ではありません)、と言って絶縁状態になりました。

しかし芸術家(私はこの言葉を使うと反吐が出そうになりますが)は公務員ではないのですから大いに遊ぶべきだと思います。今は優れた表現者が皆無の時代になってしまいました。もし経済状態が許すなら私は死ぬまで遊びたいと思っています。最後にいい言葉を教えましょう。「人間は年を取るから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年を取るのだ」。


昭和天皇崩御の日の思い出

2016年11月24日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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確か私が浪人中の時だと思う。「チャコの店」といった感じの変わった名前の小さな居酒屋があった。友人に誘われて行ったのだがママがお喋りが上手いので時々通うようになった。

古い店なのでトイレの鍵がバカになっていたために、トイレの中に閉じ込められたこともある。また、母親がサバに当たって呼吸困難になったために、「サバの生き腐り」といって絶対にサバは食べないように言われていたが、その店で生まれて初めてシメサバを食べたところ、私は特に症状が出なかったので現在は好物になっている。シメサバだけでなく、新鮮なら生の刺身も大好きになった。

その店ですっかり酔いが回り外に出ると、雪がシンシンと降っていた。月明りの中でその雪の降り方は幻想的で心を撃った。直観的に昭和天皇が亡くなられたので、と思い、家に帰ってテレビを見るとその通りだった。

昭和天皇程の偉人は(日本一国で米英と闘いもう少しで勝ちそうになった稀に見る国家の最高責任者である)、天地がその崩御に対して悲しみの雪を降らせたのだろう。


様々な神経症の話(補筆)

2016年11月23日 | 思い出の記

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対人恐怖症の件ですが、その後私は理工学部で400人の学生を前に講義をしたり、何度もテレビで話すなど全く気にならなくなりました。わずか20人の前で対人恐怖症だったときと比べれば驚くべき変化です。

ウッドストックコンサートの時に土地を貸した農夫が50万人の若者を前に「生まれて初めて50万人の前で演説をした」と感動して話していた記憶がありますが、私も50万人の前で冗談を言いながら話せることでしょう。これは植田カウンセラーの助言と同時に私が見性体験をしたおかげだと思っています。明日は民主商工会の忘年会があるので、その場で面白い話が出たら報告することにします(多分酔っぱらって覚えていないでしょうが)

 ウッドストックコンサートの様子


様々な神経症の話

2016年11月22日 | 思い出の記

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今日は神経症の話をします。私は幼稚園に入る前に母親にせがんで幼稚園の様子を見に行かせてもらい、早く幼稚園に入りたいと駄々をこねたものでした。ところがどういうわけか小学校一年生になると対人恐怖症に襲われるようになりました。先生に当てられると心臓が止まりそうになり胸が苦しくて最初の一言が云えなくなるのです。次第に友達が増え、一年から六年生まで学級委員をしているうちに慣れてきましたが、対人恐怖症は、このブログでも紹介したことのある隣町宇和町のユング派のカウンセラー・植田先生により行動療法で収まっていきました。私の場合は20人以上の人がいると対人恐怖症になり、大学院を出て那田塾を経営していた時にも中高生が20人以上になると声を出すのが苦しかった記憶があります。そこで植田先生が20人が怖いなら30人40人と少しずつ相手を増やして話す練習をするようにと助言してくれました。知り合いに宇和島市で映画で町興しをしている田部司という老舗の眼鏡店の社長が松本俊夫の「薔薇の葬列」を上映した時に30人ほどの観客の前で解説をしたことを思い出します。また九州産業大学で日本映像学会が催されたときに私は「小型映画の歴史と意義」について講演をしたのですが、その時は私よりも年上の教授たちが数十人集まったので、最初の一言を語ろうとすると胸が詰まり困りました。咳払いをしてからどうにか講演をすることが出来るようになりました。

対人恐怖症は、完全主義の自分の性格が相手に投影されて、私が少しでもミスをすると相手がそのミスに気付くのではないか、という心のメカニズムから生まれたものです。

郷里愛媛にいた時には狂気恐怖という神経症も現れました。これは自分がキチガイになるのではないかという恐怖感です。これは自然に収まりました。

私は中学生のころから飛行機には何十回も乗ったのですが、空中を飛んでいると床が透明になり、自分一人が空の上を物凄いスピードで飛んでいる感覚がして、安定剤を飲んで飛行機に乗っても脂汗が出て苦しくなりスチュアーデスを呼んで冷たいおしぼりで首を拭いてもらったものです。これは高所恐怖症という神経症です。私が早稲田小町という美少女と早稲田大学の学生の時にデートした時に、後楽園の観覧車に一緒に載りました。頂上に上がったところで早稲田小町にキスをしてやろうと企んだのですが、観覧車が90度になったあたりから「もしあのボルトが壊れたら観覧車ごと落下する」という恐怖に駆られキスどころか床にしゃがみこみこの計画は座絶しました。私は八王子に住むようになってから17年ほど経ちますが一度も郷里愛媛に帰ったことが無いのは、経済的理由もありますが、未だに高所恐怖症が残っているからです。

ところで先日このブログで触れたことですが、電車に乗れない神経症の話をすることにします。現在は退会していますがパウロこと廣瀬一郎と、鈴木正道と私の3人は、揃って電車に乗ることが出来ませんでした。それは電車に乗っている人々の悪い気を感じ取ってしまうからです。柔道整復師でデイサービスを経営し、来月の春名先生を囲む会で講師をしてくれる中溝誠吾氏によれば電車のモーターからは強烈な電磁波が出ているせいだ、と解説されましたが、それも確かにあるでしょうが、ラジオに例えると感度が強すぎるために他人の悪いノイズを拾ってしまうからだと思います。

見性体験をした後も私は電車に乗るのが苦手で、八王子からたった3駅、時間にして10分の立川駅に行く時も、ワンカップ大関と缶酎ハイを飲みながらでないと電車に乗れませんでした。電車でそのように酒を飲んで立っていると、乗客の男たちと目線があった時、みんなが顔をそむけるので後ろを見ると誰もいませんでした。また満員電車に乗った時も両側の席が空いているのに誰も座らないなど不思議なことが起こりました。要するに私はヤクザのように見えたのでしょう。当時は特注のアクリル製のケースに入れた不動明王の頭を叩いて「コラ、ちゃんと仕事をしろ」と怒鳴りつけていたものです。

しかし現在は電車に乗るのが怖くなくなりました。今月と来月は新宿に行くのですが、少しも怖くありません。それは電車の中で数息観をすることを覚えたからです。つまり、電車の前に立っている人の洋服の一点や、電車に座った場合は床の一点を見つめて数息観(心の中で数を数え無念無想になる訓練)をするわけです。このブログの中に電車に乗ることの出来ないひとはぜひ微笑禅の会に入ってください。私が数息観、髄息観、そして密息の方法を教えます。


昨日開かれた「春名先生を囲む会」の内容

2016年11月19日 | 春名先生を囲む会

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 昨日は春名先生と柔道整復師でデイサービスを経営されている中溝誠吾氏とデイサービスの利用者と私の4人で春名先生を囲む会が開かれました。今回は春名先生の施術(拘縮コンディショニング)は行われませんでした。そこで話が談論風発的で一貫性が無いことを先にお断りしておきます。

春名先生は理系の文系、私は文系の理系ですが、新に参加された柔道整復師の方は私の文系的な側面と気が合ったらしく、ほとんど私と柔整の方の会話で終わりました。今の政策では小さなデイサービスが潰れるとのことでした。私が次回の話題にしようと思っていることですが、微笑禅の会員の数人は電車に乗ると頭のおかしな人の気をもらってしまうので電車に乗れない話をしたところ、電車のモーターからは高い電磁波が出ているために電車の運転手には心臓病が多いとの話でした。

それからユリゲラーの話になり、彼が曲げたスプーンの断面図は手で折ったものでは無く本物の力があり、彼は瞑想によりニュートラルな状態で不思議な力を発揮するとのことでした。

 

また電磁波の話になり、分杭峠ではゼロ磁場になる話をされました。私もテレビでその場所で取材しているのを見たことがあると答えました。さらにモーツアルトの音楽を聞かせるとバラの花が大きくなったり、乳牛の乳の量が増えるという話になり、それもF分の1の波動が効いていると春名先生が教えてくれました。またパワープレートという振動するマシンにスポーツ選手が足を乗せただけで体が暖かくなるとのことでした。私はFT(フィンガーテスト)という不思議な施術の話をして腸が冷えると癌にかかりやすいと教えました。

ドイツとブラジルではYNSA(山本式頭針学会)というものがあり保険が適用されているそうです。それは頭に鍼を刺すもので、中国の少林寺拳法と同じだという話になりました。

話は飛んでキリスト、弘法大師、日蓮の話を私がして、日蓮だけが奇跡を起こした事を直筆で残していたことを教えました。

また喫煙と肺がんの間には比例制が無いことは常識になっているのに春名先生に聞いたところ比例制はあるが、因子によるとのことでした。春名先生の家系には癌が多いので自分も癌にならないように予防医学に気を付けているとのはなしでした。私は最近ニコチン中毒気味ですが、私は父母の家系とも癌が一人もいないので、因子的に大丈夫です、という話になりました。

柔整の先生は居合をされており香取神道流の使い手とのことでした。そこで黒澤明監督の「椿三十郎」のラストシーンで三船敏郎がどのような技で勝ったのかわからないとのことでしたので、あれはお互い居合で闘ったが、三船は左手で剣を抜いて相手の右側に抜ける瞬間にしたから相手の胸を斬った、と話したところ長年の謎が解けたとのことでした。その後は映画の様々なエピソードについて私が語りました。

柔整の先生は本来は左翼思想の持ち主だったが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで右側に振り戻した、と話されました。

私は郷里愛媛で竜馬研究会に属していたことから、竜馬を斬った男の話をかなり具体的に話しました。また愛媛は日本海海戦の時の名参謀・秋山真之が出ていることから歴史の話になり、最終的には神秘的な現象はそのまま現象として認め、学者が後からそれを理論づけすればいいという話で終わりました、。


私が八王子市に提出した訂正要求の後半部分を公開します

2016年11月18日 | 法律

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今日「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 次に私に開示された個人情報における事実の過ちを示すことにする。既に論証した通り、客観的数量的なものでなくても評価やその原因となる判断も事実と異なる以上は訂正(削除)請求の証拠になることを前もって述べておくことにする。

 

 先ず第一に私に開示された個人情報を見るとあちこちに私が酒を飲んでいることを鬼の首でも取ったように非難しているが、これはかつては愚行権といい現在は幸福追求権として憲法で許されていることである(甲第1号証参照のこと)。また元市議の伊藤先生が証言されている通りアルコール依存症かどうかは医者にしか分からないのだから高齢者福祉課が決めつけるのは誤りである。6頁には「アルコール依存症や精神病などの判断は行政や個人がするものではなく、医師が診断する者であると思います。もし、公文に記されているとしたら、適当でないと思います。訂正が必要と考えます」と述べられている。

 

従って「アルコール依存症」並びに「精神病」と書かれた部分は全て削除を要請する。

 

更に伊藤先生は謙虚な回答をしているが、伊藤先生が母親を引き取った後に後援会連絡所の看板を外されて傷だらけにされたり、ヤクザ風の男たちが看板に小便を掛けて逃げたり、送迎の車が淡だらけになっているのは、母の保護措置が組織的な陰謀であったことを示すものである。更にフロイトなど自我心理学では「人間の性格は変わらないただ繰り返すのみ」と主張するが3頁には「平成22年5月21日以降現在まで満留様よりDV等の訴えはありません」と書かれている。(甲第2号証参照のこと)。

 

当時の私は妻子が突然失踪し、それを知った母が私を介護に来た時も創価学会の工作員を最高裁まで追い詰める裁判をしていた。その証拠は織田高敏が平成20年1月12日に東京地裁八王子支部に提出した「答弁書」を追跡すれば分かる。また、所謂「行動する保守」のメンバーに「東村山市議暗殺疑惑事件」の問題を最初に持ちかけ街宣をしたり自殺と判定した裁判官を裁判官弾劾裁判に掛けようとしたことなどから「創価学会が第一の標的」にしている状態にあった。それは既に提出した母の妹・山田扶亀子の証言に書いてある通りである。そういう状況の中で、私が母を保護措置にした谷渕に「あなたは創価学会員ですか?」と聞いたところ、「答える必要はない」とのことだったが、本当に創価学会員で無ければ「違う」と答える筈である。従って、妻子の突然の失踪から母の不当な保護措置を俯瞰的に見れば、既に提出した山田扶亀子の証言(必要なら再度提出する)にあるように私は「創価学会の第一の標的」だったのだから、全てが創価学会の仕組んだものと言わざるを得ない。

 

 当時の私の心境は以下の通りである。離婚調停の時に元の妻に付いた代理人の弁護士、福沢法律事務所の松倉武史は「平成22年(家イ)第493号 夫婦関係調整調停事件」に置いて家事審判官・寺田さや子氏から、「夫婦の問題と子供の問題は違うのだから子供には自由に電話を掛けさせるように」と松倉弁護士に口頭で伝えたが、後日松倉弁護士に電話を掛けさせるように言ったところ「そんな話は聞いてない」と嘘をつかれた。現在は面会交流を明記するように法律が変わったが当時は面接交渉権と言って明記する必要が無かったからである。更に口頭では面会させるように言いながら「調書(成立)」にはそのことが書かれていないという狐に包まれたような裁判だった。

 

 このように状況にあったために、私は松倉と谷渕を殺せば、元早稲田大学の非常勤講師が殺人を犯したとしてマスコミが創価学会の不正を追及するだろうと思った。母は保護措置として無料で暮らせるし、私は警察病院で体の治療が出来るからである。しかしこのようなことをすると現在所有している第一那田ビルが競売に合い財産を子供たちに残せないのは間違いないために酒を飲んで必死に我慢していたのである。従って私が酒を飲んでいなければ二人が死んでいたことになる。

 

 これから私に開示された個人情報の事実の誤りを糾していくが、当時そのような心境にあったことをご理解願いたい。

 

 先ず全開示の部分から事実の誤りを検証していくことにする。2010年4月22日の市よりには「本人の相談(アルコール依存症・精神病?)についての窓口は、八王子保健所になるため電話番号を伝えた所、これから電話しますと話していた」

 

 と書かれているがアルコール依存症は伊藤先生が記されている通り医者が決めることであり、精神病の人間は自分で精神病と言わないのが常識である。よって保健所に電話したと書かれているのも高齢者福祉課の作文と断言せざるを得ない。従ってこの部分の削除を請求する。

 

 次いで<那田尚史面会等記録>平成22年5月6日(木)午後2時30分から3時30分<那田満留の息子に自宅にて面接>のなかに「本人の希望で、映画時代のパートナーという松下という女性(30代)が同席」とあるが、松下さんは映画時代のパートナーではなくインテリアコーディネイターである。このことを調べたければmuen@wolf.email.ne.jp から松下さんのことに詳しい山崎幹夫に問い合わせること。従ってインテリアコーディネイターと訂正することを請求する。これ一つ見ても高齢者福祉課の面接等記録がいかにいい加減なものか分かる。

 

さらに「一昨日の昼間に転寝をしていたら3階の窓から入られ鍵を盗られた」と記してあるがこれも全く事実と異なっている。302号室は入居者が退去した後、ドアを閉めると油を引き過ぎていたために自動的にフックが掛かるようになっていたため、私自身が窓を壊して302号室に出入りしていたものである。従って「一昨日の昼間に転寝をしていたら3階の窓から入られ鍵を盗られた」の部分を削除することを請求する。また「母が肩を痛めたのは、母が漏らして汚したふとんを干し取り込むのに痛めたものである」とあるが真相は猫が布団を濡らしたのを私が「もう直ぐうぃずサービスの大木さんが来るから」と言って止めるのを無視して母が洗濯しそれを取り出そうとして肩を痛めたものである。これに付いては母の訂正(削除)請求の中に証拠があるのでそれを参照され、訂正を請求する。

 

 更に「アルコールは三井クリニックにて受診していた。あわせてうつ病、肝機能障害も治療を受けていた」と私が述べたことになっているが、アルコールは、の意味は不明である。その時にはうつ病は(坐禅による見性体験により)完治しており、肝機能障害は診療内科では出来ない。これは当たり前のことだが念のために三井クリニックの電話番号を記すので確かめること(042-621-4560)。従って「アルコールは三井クリニックにて受診していた。鬱病、肝機能障害も治療を受けていた」の部分は削除を請求する。

 

 更に「自立支援も受けていた」と述べているがこのように自分が不利になることを殺そうと思っていた相手に言うはずがない。実際は見性体験のあと鬱病が治って逆にハードワークをしては倒れるを繰り返していたために軽い躁うつ病になっている。このような記述をするのは(後でも出て来るが)谷渕が創価学会の手先となって私の身辺を調査していた証拠である。

 

 「また、息子を殴ったといわれたがこれは妻と子しか知らないのになぜ知っているなどと交渉に駆け引きをしている様子があった」と記されている。しかし私は息子を殴ったことは一度もない。必要ならば妻子が住む住所を提出するのでそこに問い合わせること。従って「息子を殴った」等の表現の削除を請求する。

 

 更に電話で谷渕はこれで勝負がついたとばかりに誓約書の存在を指摘した。誓約書には次のように書いている。

 

「母が万一、私と暮らすのを拒んだ時は、元の保護のための措置にお任せします」しかし、母が私と暮らすのを拒むわけがないからこそ、ありえないという前提の下で「万一」と書いているのである。この意味が分からないような人間が起案者になっていること自体八王子市の行政に欠陥があると言わさるを得ない(伊藤先生の証言書6頁を読むこと)

 

 誓約書の次の頁に出て来る私の文章の中に④「僕が母ちゃんを放置した(ご飯を食べさせなかった)と役人が云っている。⑤母ちゃんが「昼から少しは酒を飲め」と言わなかったと、役人が云っている。ウソだと証言して。

 

とある。これは谷渕が「あなたは母親を殴ったでしょう。ご飯も食べさせなかったでしょう。お小遣いを上げないのも暴力ですよ」と私と母に言い続け、そんなことはしていないから母親と電話させろ、と言っても「話だけは聞いておきます」と言って来た経緯が分からないと理解できないだろうが、④の「ごはんは食べさせなかった」と役人が云っている。ウソだと証言して、の真相は「殴る」、「小遣い」、という漢字が思い浮かばなかったために、ご飯をたべさせなかった、のみを記したものである。

 

 またこの時の真相は、私が画用紙を用意して「僕が殴ったことがあるか」「僕が食べさせなかったことがあるか」「小遣いを上げなかったことがあるか」と大書し、母に✖印をさせたものである。

 

  更にノンブル16の<那田満留・尚志・面室等記録>には3か所尚史が尚志のままになっている。これは明白に客観的過ちだから問題なく訂正すべきである。この中に「五月24日に離婚の調停があり、息子が帰ってくる予定であり、那田家の長男が戻ってくる。孫と一緒に住めるようになる。一緒に住んで家に月6万円入れるといっている」と私が語ったことになっているが、これも飛んでもないデタラメであり、今でも息子は帰っていない上に息子から家賃など取る筈がない。息子が大学を受験するためなら私の保有する第一那田ビルを売却してもいい、と言ったほどである。嘘だと思えば当時委任し後日解任したひめしゃら法律事務所の杉野公彦弁護士に聞くこと。 042-548-8675 従って、息子が帰ってくる予定であり、那田家の長男が戻ってくる。孫と一緒に住めるようになる。一緒に住んで家に月6万円入れるといっている」の部分の削除を請求する。

 

 以上で全開示部分における訂正(削除)請求を終え、次いで部分開示部分における訂正(削除)請求に移ることにする。

 

 既に記したように、これは池田大作のいう「創価学会を批判する仏敵は野垂れ死にするまで攻め抜け」という有名な言葉に沿った作文なのでまともに訂正(削除)請求をかけるのは馬鹿馬鹿しくなるが、仕方なく明らかな(客観的、数量的なものだけでなく、判断と評価)の異なる事実をしていくことにする。

 

 平成22年4月28日(水)には(前略)「これから連休に入るので、その間はお母さんをちゃんと見守りのある安全な場所でお預かりするので安心して下さいと言うと、最後は分かりましたと言った」と書かれているが、私は母親を出せてと言い続けているのだから、「分かりました」などと言うわけが無い。従って「分かりました」の部分を削除することを請求する。

 

5月6日(水)(ノンブル6)には「尚史宅を訪問すると、名前は名乗らなかったが、尚史のアシスタントで、以前から映像技術の関係でお手伝いしていたと言う20代後半から30代の女性がいて」と書いてあるが、これは既に述べたように真っ赤な嘘であり、インテリアコーディネイターである。既述した通り山崎幹夫のメルアドから確かめ、「以前から映像技術の関係でお手伝いしていたと言う」の部分を訂正することを要求する。

 

同日「満留に会い、鍵を受け取り尚史に届ける。女性から、早速保健所に電話したらこれから来てくれると言うので、立ち会うとのこと。尚史に鍵を渡すと、握手を求められた」(谷渕・石鍋)とあるが、殺そうと思っている相手に握手など求める筈はない。従って「握手を求められた」の部分を削除することを請求する。

 

5月11日(火)「尚史を迎えに行き市役所の介護認定室で満留と合わせた」(小塩主査・谷渕・石鍋立会)の部分は全面的に創作分である。ごく一部「ご飯を食べさせなかったことがあるかと詰問する」という文章が出て来るが、既に全開示の部分で述べたように、この時は私は画用紙を用意して母に「殴ったことがあるか」「ご飯を食べさせなかったことがあるか」「お小遣いを上げなかったことがあるか」と書いて母親に✖の印をさせたのみである。続いて「満留の口から、そんなにお前が言うなら今回は信用して、家に戻る。でも、言っていることが違ったら、また市役所に助けてもらえるか聞かれたので、デイサービスの時でも市に直接でも直ぐに言ってくださいと言う」と書かれているが、これも母親は保護措置から早く出せと言っており、母自身が否定しているのだからこれほど明白な証拠はない。従って、「満留の口から、そんなにお前が言うなら今回は信用して、家に戻る。でも、言っていることが違ったら、また市役所に助けてもらえるか聞かれたので、デイサービスの時でも市に直接でも直ぐに言ってくださいと言う」の部分を削除することを請求する。このように開示された私たちの公文書は作り話ばかりである。

 

 平成22年5月14日(金)午後15時から16時30分 自宅にて<戻る自宅の状況確認 那田満留、尚史、市同席による確認>は非常に重要な記録である。以下引用する。

 

 ◎部屋に入るまでの状況

 

 「息子はパソコン室として使っている3階の302号室が整理されているので、そこに母を住まわせようと考えていた。母は今まで上がったことも無いため一度は拒否したが、確認に3階まで上がることとなった。しかし、足が上がらずかなり大変で、途中で息をついていた。階段は蹴上げも大きく、手すりは2階までは介護保険の住宅改修でつけてはいるが、その先は無く、また、踊り場には手すりがないためかなり危険であった」と記してあるが、母が保護措置になって以来、途中で帰ったことは一度もない。この一文を証明する証拠を見せよ。これは私だけでなく母親にも確認済みの問題であり、他の記録同様、完璧な創作である。誰が考えても202号室が空いているのに手すりもない302号室に89歳の母親を住まわせるはずが無い。これは狂人の理屈である。

 

 また、存在しないものを証明させるのを「悪魔の論理」と言うが、審査会並びに法制課が私たち親子に強要しているのはまさに悪魔の論理である。従って同じ方法で母が302号室に戻ったことを「数量的客観的に」証明することを要求する。

 

 ◎面接内容 尚史

 

「母がこちらに来て渡した700万の使い道に」とあるが母が私に700もの大金を渡した証拠を見せよ。続いて「家を売ったりして何千万というお金が入るのに」(上と同様石鍋氏の発言)とあるがそんなに高く売れる筈はない。現実には1千万程度のものである。従って、「母がこちらに来て渡した700万の使い道に」の部分と「家を売ったりして何千万というお金が入るのに」の部分を削除することを請求する。これを見てもいかに面接等記録がデタラメか嫌になるほどよく分かる。なた「息子や娘が帰って来たらアルバイトのお金も入れてくれる約束である」とあるが、既に述べたように「ひめしゃら法律事務所」の杉野公彦弁護士に確認すること。私は娘が予備校時代にもアルバイト禁止と言っており、息子のためなら第一ビルを売ってもいいと述べている。従って、「息子や娘が帰って来たらアルバイトのお金も入れてくれる約束である」の部分を削除することを請求する。

 

続いて[満留]として、「息子は10年前と性格がすっかり変わってしまった。自分の将来や息子の将来をもう一度考えて欲しい」と母親が言ったことになっているが、証拠を見せよ。(そもそも全ての開示された文章にサインが無いのだから信憑性はゼロである。審査会は複数の職員が立ち会ったことを証拠としているが、毎日のニュースを見れば公務員の犯罪だらけである)

 

平成22520日(木)午後3時から1630

 

◎今後の介護サービスについて

 

の部分に尚史が「尚志」と誤記があるので訂正すること。

 

 平成22610日(木)午後115分(これは私が母が解放されたことで緊張の糸が緩み2週間の間意識不明の危篤になっている時の記録である)

 

 <病室での状態>として

 

「酸素に点滴でおむつをしていた。両手にはミトンをはめ、両腕および胸を拘束している状態であった。最初は会話も難しいといわれ、一方的に伝えていたが、途中からは返事をするようになり、会話が出来る状態で、最後には携帯電話を貸してくれ、拘束されていることを訴えると話す状態だった」と記されている。しかし、拘束されていたのは両腕と両足である。しかもミトン(ボクシングのグローブのようなもの)を付けた状態で携帯など掛けられるはずはない。しかも意識不明の危篤中なのである。この文章は論理性が欠如し矛盾だらけである。従って、両腕および胸を拘束している状態であった。最初は会話も難しいといわれ、一方的に伝えていたが、途中からは返事をするようになり、会話が出来る状態で、最後には携帯電話を貸してくれ、拘束されていることを訴えると話す状態だった」の部分を削除することを請求する。さらに「2日前から入院したばかりであるが、何週間も前からいると話すため、問いただすと健忘症になったと話す場面もあった」とあるが、肝硬変では健忘症にならない。これは肝性脳症の過ちである。伊藤元市議が証言してくれたように、高齢者福祉課は医学的な面でも法的な面でも専門家がおらず人材不足の典型的な例と言わざるを得ない。従って健忘症の部分を肝性脳症に訂正することを請求する。

 

 <那田満留・尚史面接等記録>

 

平成22622日(火)午後1時~3時には完全に欠如した文章がある。甲第4号証 を参照して頂ければ分かるが、私は「忘れられない病気」があるので以下のブログに書いた文章は正確なものである。

 

 私が入院していた多摩相互病院の医師が不在の夜間に看護士たちが悪いことをしないよう、母が夜も付き添うことを条件に出していたため高齢者支援課の職員(谷渕のこと)もその場に来ていた。私は母を監禁していた当の相手に「新入居者(近藤昇のこと)の本契約を済ませていないから早く帰らないといけない」というとその職員は「本契約はハウスコムとの間でもう終わっていますよ」とニヤニヤ答えた。私は意識不明のときに子供たちの夢を見続けたので「子供たちが帰って来るかもしれないから」というと「子供は帰っていませんよ」と答えた。

 

 高齢者支援課の一職員が何故私の営業内容や家族問題まで把握しているのだろう?誰でも不思議に思うに違いない。これまでに起こった事件を俯瞰的に見れば直ぐに謎は解ける。つまりこの職員と上司たちはまず間違いなく創価の手先だと私は推理している。(中略)だから私はその職員(谷渕のこと)に「お前は池田大作の犬だろ?犬ならごちゃごちゃ言わずにワンと鳴け」と怒鳴った。職員は「そこまで言いますか?」と言い返したので、「当たり前だろ。ほらワンと鳴いてみろ」と挑発した。(ちなみに情報公開請求した結果、この会話は省略されており、私が手足を拘束され、異常者でもあるかにのように書いてあった)。以上の会話は現在仁和会総合病院に勤務されている小宇佐先生が聞かれている。嘘だと思うなら042-644-3711に電話して確かめること。

 

以上である。これで高齢者福祉課の面接等記録がいかにデタラメで恣意的なものか分かる。

 

 更に甲第5号証 を参照されたい。これも私のブログに書いた文章である。

 

この中に、谷渕は母に「息子さんに殴られたのでしょう。ご飯も食べさせてもらっていないでしょう。お小遣いを渡さないのも暴力ですよ」と誘導しようとしたが、母は断固として否定し、保護措置の施設(特養などが使われる)の事務員に、「ここから出せ、どうしてもダメというなら一度戻ってまた入る」と掛け合った。という一文がある。母が保護措置になったのは経済的精神的虐待となっているが、実際は谷渕はこのように私が暴力を振るったことにしたかったのであり、母を監禁しているのである。さらに、ブログには

 

 それのみならず、肩の痛みを訴える母を一週間も放置した。このとき母は「地獄の痛みに耐えた一週間だった」と語っている。保護措置にして一週間後やっと谷渕等はなぜか再び同じ病院(八王子山王病院のこと)に連れて行き、前回と同じく「五十肩」と診断され、その時は湿布が出たようだ。(この部分は私の訂正(削除)請求の中の隠し玉になるので非常に重要な文章である。) とりあえず「五十肩」の部分を削除することを請求する。そのまま合計一カ月監禁が続いた。今でも母はその後遺症で右手の握力がほとんどない(これは不作為の傷害罪である)。(中略)

 

 私は緊張の糸が切れてその直後に2週間の意識不明の危篤に陥った。奇跡的に意識を回復してまもなく、谷渕の指示により保健所職員(中村=女性、とその部下=男性)が病室に来て、断酒治療をするため精神病院に入るよう促した。危篤から回復して治療中なのに精神病院などに入ったら私の体はどうなるのか?母の介護はどうなるのか?様々な手続きや生活のための営業活動も全く出来なくではないか?と説明してどうにか追い払った。呆れたことに同じ職員が後日伊藤市議の経営するデイサービスに来て母に「息子さんを精神病院に入れるように」と繰り返すので摘み出されたらしい。どうしても私を精神病院に入れたい理由があったのだろう。これは甲第2号証 の伊藤先生の証言書4頁にも同じことが記されているので明らかな事実である。最終的に精神病院に入れて敵対する人物の社会的地位をゼロにするのは所謂集団ストーカーの手口であり、集団ストーカーと言われる連中の中心をなしているのが創価学会であることは常識中の常識である。

 

 従って既述したように妻子の失踪から母の保護措置は創価学会による陰謀と言わざるを得ない(すでに私が創価学会の第一の標的になっていることは母の妹・山田扶亀子の証言書において提出済みである)。

 

 以上で私の訂正(削除請求を終えることにする)                                 

 

最後に審査会と八王子市長に対して決定的な証拠を突き付けることにする。甲第6号証をご覧になれば分かるように私と母は審査会会長 花見常雪殿の対して参考人として1.佐藤恵美ケアマネージャー。2.うぃずサービス責任者・中島氏(女性)。3.同家政婦、大木元子(素子かもしれません)。4.当時の地域包括支援センターの担当者。並びに必要な調査事項として、1.母が保護措置にされる前日の編成22年4月19日に救急車で運ばれた八王子山王病院が保有する母のカルテとレントゲン等の諸資料、並びに高齢者福祉課が同年4月27日に同病院に母を連れて行った際の同資料、を求めたのに対し、

 

「25八情査収14号の6 平成26年112月19日」には審査会会長 花見常行の名前で以下のように返答している。

 

参考人陳述について(理由)

 

平成26年12月8日付で申出のあった、あなたが提起した異議申立てに関する参考人の陳述は、下記の理由により行いわないこととしましたのでお知らせします。

 

 

理由 当審査会は、申立人および実施機関のそれぞれから提出された資料および申立人による口頭での意見陳述等によって、十分審査が可能であり、申立人から申出のあった参考人による陳述等については、審査会の審理において、これを行う必要がないと判断したため。

 

とある。

 

参考人による陳述等の「等」の中には資料としてカルテを取り寄せることも入っている。

 

ところが審査会が私の申出を否定したために、私が自ら八王子山王病院に行きカルテを取り寄せたところ実に驚くべきことが書いてあった。私の申出と推理が見事に当たっていたことが分かったのである。

 

既に提出済みの第3号証3頁において大木元子(素子)は「1週間前から風邪症状の女性(尚史注;母・満留のこと)は、5,6日前に洗濯機から布団を取り出そうとし際に両肩を痛め、我慢していたが動かすと痛いので救急要請となったもの」と述べている。        

 

しかし私が八王子山王病院から取り寄せたカルテ甲第7号証(原文の読みにくい部分は医事課の小島氏より解説を受けて私が赤ペンで書き加えている)の2頁において母の言葉として「本日布団をせんたくしてから出した際に痛み」と述べている。これは大木の消防隊への証言が嘘であったことの有無を言わさぬ証拠である。なぜ嘘をつく必要があったのかは、既に私が甲第6号証の中で推理したように大木氏は内通者であり谷渕氏の仲間だからである。

 

更に母に部分開示された個人情報の「那田満留に関する経過」平成22年4月27日(火)に谷渕、須賀の名前で「施設から、肩が痛いとの訴えと微熱があるとの連絡があり、満留を八王子山王病院に通院させる。レントゲンを撮ったが肩は異常なし。50肩の症状とのことで、痛み止めと湿布をもらう」と記されいる。

 

しかし甲第7号証の1頁を見れば分かるように、救急車で運ばれたときは「両肩挫傷」となっている。これは要するに怪我をしているという意味である。既に挫傷と診断したために二度目は「両肩関節周囲炎」と診断したに過ぎない。俗称50肩のことだが、肩の可動域が狭い場合を一般的にこのように記すことが多いとのことで、詳しい説明は審査会から要請があれば中村医師が行う準備があるとのことだった。従って谷渕、須賀両名は杜撰な記録を残したことになる。

 

更に3頁には「現在特養に入っているとのこと。息子はアル中」と記されている。もちろんこれは中村医師が知る筈もなく、医事課の小島氏によれば「付き添いの人が話したようです」と述べているように谷渕、或いは須賀氏が述べたものに間違いない。これまでの経過を見れば谷渕氏の言葉と推理できる。両者とも医者ではないのだからアル中と断定する資格はなく、息子はアル中、特養に入っている、と言えば伝播可能性の法理を待つまでもなく、医師、看護師、薬剤師に私の悪評が広まるため、当然これは名誉棄損になる。

 

更に市職員と一目で分かる服装で「息子はアル中、特養から来た」と言えば容易に保護措置を類推させる。従ってこれは八王子市個人情報保護条例「第58 実施機関の職員又は職員であった者が、その業務に関して知り得た個人情報であって公文書に記録されたものを自己若しくは第三者の不正な利益を図る目的で提供し、又は盗用したときは、1年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」に当たる。

 

問題は「自己若しくは第三者の不正な利益を図る目的で」の部分である。仮に谷渕氏が創価学会員若しくはそのシンパだった場合は池田大作の言葉通り「創価学会を批判する仏敵は野垂れ死にするまで攻め抜け」の言葉通りに行動したことになり、八王子市個人情報保護条例第58条が適用される。谷渕氏が創価学会員若しくはそのシンパかどうかは、私は東京都公安委員会から認可されている探偵なので探偵のネットワークを使えば容易に分かることだが敢えて審査会にゆだねることにする。

 

更に谷渕氏を起案者とした当時の高齢者福祉課は1.名誉棄損。2.職権乱用罪。3.監禁罪。4.虚偽文書等作成の罪、等々を犯している。

 

従って谷渕氏らにその権限を与えた八王子市長に辞職を求める。

 

最後に再度要点を整理する。

 

①審査会は私が提出した参考人招致を拒否したことに対し謝罪すること。

 

②審査会は谷渕が創価学会員或いはそのシンパであるかないかを証明すること。

 

③私と母に関する個人情報を全て削除すること。

 

④実施機関の長である八王子市長は辞職すること。

以上

 

 八王子市役所

私は創価学会員を全否定している訳ではありません。中には非常に純粋な人たちもいます。私自身が2歳から創価中学を批判して自主退学する中学3年生までは創価学会員でした(但し、当時は日蓮正宗に入信すると自動的に創価学会員になるシステムだったので入会届は出していません)。また母親は実質的に愛媛県の最高幹部で竹入、矢野たちと一緒に四国を折伏して回り「四国の一粒種」と呼ばれていました。なんと200人も折伏し、大半は友人の手柄にしたそうです。現在の創価学会員の中に200人も折伏が出来る人など一人もいないでしょう。その母は議員になれと言われても断り、仕事を休んで折伏と選挙活動、また自宅を座談会の場に提供するのみで権力に付くことを拒んできました。

私が創価学会を批判するのは、財務で生活するプロ信者や関連企業、外郭団体、また司法官憲などの間にいる権力を持った人々です。例えば、山口組系後藤組組長が公明党が4人の暗殺依頼をしたことを「憚りながら」で暴露しても検察は動きませんでした。それのみならず、JTBによる公明党議員への署名要請(弁護士ですらこれを事前運動と言っていますが、いついかなる場合でも署名を要請することは選管法違反です)、また例のパソナの闇も検察は動かず、憂国の士にして「公明党をぶっ潰せ」と言った田母神閣下を逮捕する始末です。これが冤罪であることは少しでも創価=公明と闘った経験のある人には誰でも分かるでしょう。

私は何度も自公連立政権は後世の歴史家から「政治の暗黒時代」と呼ばれると述べてきました。勝ち組負け組、という言葉が流行し、金儲けのためなら何でもするという風潮になっています。あの前科者のホリエモンがコメンテーターとしてテレビに出る始末です。このようにマスメディアも芸能界も創価が牛耳っている時代に、良心のある人たちは発言の場を奪われています。私は愚直なのと死ぬときに後悔したくないのでこのように創価学会批判を大っぴらに行っていますが、普通の人では「創価大学城下町」と言われる八王子でこのような真似は出来ないでしょう。

最も怖いことは、このような状況が続くと時代のエトスが最悪になり日本人の美徳が壊れてしまうことです。私が批判して一時期ブログ停止になったKなどはこの時代の申し子と言えるでしょう。

私は創価学会は外部からではなく内部から変化すると予測しています。解釈改憲に反対した「婦人部の反乱」や創価大学の非常勤講師たちがその先陣に立っています。そして最後は池田大作の死が公になった時に決定的な変化が起こることでしょう。明日はこれからある春名先生を囲む会の報告をいたします。


私が八王子市に提出した訂正要求の別紙1の前半部分を公開します。

2016年11月18日 | 法律

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今日「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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別紙① 那田尚史 訂正請求

 

  先ず、私が出す訂正(削除)請求にも、同時に出す母(那田満留)の訂正(削除)請求にも共通する点について記すことにする。

 

  保護措置の起案者の名前を誤記した部分があるが、今後は谷渕に統一する。

 

  また訂正請求を認めなかった論拠についてこれからその過ちを述べることにする。

 

 法制課は25八総法収第96号において「個人情報条例第10条が「実施機関は、利用目的の達成に必用な範囲内で、個人情報が過去又は現在の事実と合致するように努めなければならない。」と規定していることに鑑みれば、訂正請求の対象になるような個人情報であっても、「利用目的の達成に必用な範囲」を超える場合には実施機関は訂正義務を負わないものと解される」の意味を、  これを本件についてみると、前記の①から記載⑤までについては、上述のとおり異議申立人の発言として市職員が録取したものであり、当該発言内容は、市長が異議申立人に対して行った過去の措置に関わるものであるところ、当該発言内容の訂正を認めた場合、市長が、どのような事実を認識した上で当該措置の実施を決定したかという判断課程の検証を後日行うことが困難となるおそれがあることから、本件訂正請求は、「利用目的の達成に必用な範囲」を超えるものに当たることとなる。としている。

 

  しかし私が総務省に聞いたところ、「それはおかしい。その時々の記録はコンピューターの中にも残っているし、開示されたあなたの文章も手元にあるではないですか」と答えた。これに対し法制課の篠原氏は総務省の見解や通達は指導的助言に過ぎない、と答えたが指導である以上は無視していいわけでは無く、従うのが当然のことである。

 

 また開示された公文書は一旦コピーすると私文書になるとも述べたが、このような詭弁は法制課という重要な立ち場にある人間が発することではなく、篠原氏の人格と資質を疑うものである。

 

  次いでhttp://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/question08.html#8-2 (総務省 行政機関・独立行政法人等における個人情報の保護<8 訂正請求>)のQ2とQ3によれば以下のような文言を見ることが出来る。

 

  Q8-2
評価に係る事項についても訂正請求の対象となり得るのですか。

 

A

 

 保有個人情報の訂正請求は、「内容が事実でない」と思料する場合に行うことができることとされています。このため、その対象は「事実」に限られ、評価・判断には及びません。ただし、評価した行為の有無、評価に用いられたデータ等は事実に当たりますから、訂正請求の対象となり得ます。

 

 

 

Q8-3
訂正決定に基づき訂正を行う場合には、どのような方法で行うのですか。

 

A

 

 保護法には、保有個人情報の訂正の方法について、特別の規定はありません。各行政機関の長は、保有個人情報の利用実態等に応じて、

 

  • 1) 不正確な個人情報が記録された行政文書を廃棄して新たな行政文書を作成する
  • 2) 不正確な部分を上書き更新する
  • 3) 不正確な部分の痕跡が分かるように見え消しを入れる

 

 などの方法により、保有個人情報の訂正を実施することになります

 

 とある。ところが法制課の決定25八総法収第96号では、「訂正請求の対象となる「事実」とは、客観的に正誤の判断が行われるものに限られ、個人の認定、評価、意見等の主観的な価値判断に関する事項は含まれないものである」としている。これは総務省の事実の定義に真っ向から対立するものである。また評価は前提として主観的判断があるわけだから、客観的数量的判断しか認めないという考え方はそもそも無理があり評価や判断の元になった事実をよく見極めるべきである。

 

 従って法制課は今後の決定において個人情報条例第10条を総務省の見解を無視することなく恣意的に解釈しないこと、並びに

 

保有個人情報の訂正請求は、「内容が事実でない」と思料する場合に行うことができることとされています。このため、その対象は「事実」に限られ、評価・判断には及びません。ただし、評価した行為の有無、評価に用いられたデータ等は事実に当たりますから、訂正請求の対象となり得ます。」との総務省見解を遵守することを請求する。これは合法的かつ常識的要求である。

 

 次いで所謂高齢者虐待法と老人福祉法の法令を参照することにより、高齢者福祉課が私の母・那田満留を保護措置にしたことと、法制課の決定がいかにこれらの法令に違反しているか、具体的に記すことにする。

 

  高齢者虐待法の第二条4の一には高齢者に対する虐待の定義が書かれているが、全て事実と異なっている。以下具体的に指摘する。

 

  この法律において「養護者による高齢者虐待」とは、次のいずれかに該当する行為をいう。一 養護者がその養護する高齢者について行う次に揚げる行為

 

イ 高齢者の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。(事実と全く違っている。本当なら証拠を見せよ)

 

ロ 高齢者を衰弱させるような著しい減食又は長時間の放置、養護者以外の同居人によるイ、ハ又はニに揚げる行為と同様の行為の放置等養護を著しく怠ること。

 

ハ 高齢者に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応その他の高齢者に対し著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。(これも事実と全く異なっている。この訂正要求は母による強い意志を受けて私が作成しているからである)

 

ニ 高齢者にわいせつな行為をすること又は高齢者をしてわいせつな行為をさせること。(話にならない)

 

(当時は社協のうぃずサービスにお金を出して家政婦が来てただけでなくニチイのデイサービスに通わせていたのだから、これらは全く当てはまらない。このようなオープンな環境で保護措置と称し、母を監禁することのできる法令を示すこと)

 

 第二条ニ 養護者又は高齢者の親族が当該高齢者の財産を不当に処分することその他当該高齢者から不当に財産上の利益を得ること。(全く事実と異なる。あるとすれば証拠を見せよ)

 

 第六条 市町村は、養護者による高齢者虐待の防止及び養護者による高齢者虐待を受けた高齢者の保護のため、高齢者及び養護者に対して、相談、指導及び助言を行うものとする。(全く無かった。あったとすれば証拠を見せよ)

 

 第十一条 市町村長は、養護者による高齢者虐待により高齢者の生命又は身体に重大な危険性が生じているおそれがあると認めたときは、介護保険法第百十五条の四十六第二項の規定により設置する地域包括支援センターの職員その他の高齢者の福祉に関する事務に従事する職員をして、当該高齢者の住所又は居所に立ち入り、必要な調査又は質問をさせることができる。(この文章を読む限りでは義務ではないものの、立ち入りや一切の調査や質問は無かった。あったとすれば証拠を見せよ)

 

 第十二条 市長村長は、前条第一項の規定による立ち入り及び調査又は質問をさせようとする場合において、これらの職務の執行に際し必要があると認めるときは、当該高齢者の住所又は居所の所在地を管轄する警察署長に対し援助を求めることができる。(義務ではないものの一切無かった。あったとすれば証拠を見せよ)

 

 第十二条3 警察署長は、第一項の規定による援助の求めを受けた場合において、高齢者の生命又は身体の安全を確保するため必要と認めるときは、速やかに所属の警察官に、同項の職務の執行を援助するために必要な警察官職務執行法(昭和二十三年法律第百三十六号)その他の法令の定めるところによる措置を講じさせるよう努めねばならない。(この文言を見ると義務と解されるが、このような措置は一切なかった。あったとすれば証拠を見せよ)

 

 第十四条 市町村は第六条に規定するもののほか、養護者の負担の軽減のため、養護者に対する相談、指導及び助言その他必要な措置を講じるものとする。(これは義務と解されるが全く無かった。あったとすれば証拠を見せよ)

 

 ついで老人福祉法を参照しながら八王子市高齢者福祉課が私の母・那田満留を保護措置にしたこと、および法制課の決定がどれほど法令を違反しているか証明することにする。

 

 老人福祉法第10条の3の2 市町村は、前項の体制の整備に当たっては、六十五歳以上の者が身体上又は精神上の障害があるために日常生活を営むのに支障が生じた場合においても、引き続き居宅において日常生活を営むように配慮しなけらばならない。(これは義務であるが、一切配慮されて無かった。配慮したとすれば証拠を見せよ)

 

 第10条の四 市町村は、必要に応じて、次の措置を取ることが出来る。一 六十五歳以上の者であって、身体上又は精神上の障害があるために日常生活を営むのに支障のあるものが、やむを得ない事由により介護保険法に規定する訪問介護(中略)を利用することが著しく困難であると認めるときは、その者につき、政令で定める基準に従い、その者の居宅において第五条の二第二項の厚生労働省令で定める便宜を供与し、又は当該市町村以外の者に当該便宜を供与することを委託すること。(とあるが、当時は母は社協のうぃずサービスを利用して家政婦さんが来ていた。嘘だと思うなら証拠を見せよ)

 

第11条二 六十五歳以上の者であって、身体上又は精神上の障害があるために日常生活を営むのに支障のあるものが、やむを得ない事由により介護保険法に規定する通所介護(中略)を利用することが著しく困難であると認めるときはその者(養護者も含める)を、政令で定める基準に従い、当該市町村の設置する老人デイサービスセンター若しくは第五条の二第三項の厚生労働省令で定める施設(以下「老人デイサービスセンター等」という)に通わせ、同項の厚生労働省令で定める便宜を供与し、又は当該市町村以外の者の設置する老人デイサービスセンター等に通わせ、当該便宜を供与することを委託すること。(とあるが、当時は母はニチイのデイサービスセンターに通っていた。嘘だと言うなら証拠を見せよ)

 

 続いて平成18年4月厚生労働省 老健局 が発行した「市町村・都道府県における高齢者虐待への対応と養護者支援について」という文書を見ていくことにする。

 

 15頁「その6 適切に権限を行使する」の項によれば、

 

「高齢者虐待防止法では、虐待によって生命又は身体に重大な危機が生じているおそれがあるとみとめられる高齢者を一時的に保護するため、市町村が適切に老人福祉法の規定による措置を講じ、又は成年後見開始の審判の請求をすることを規定しています」とあるが、保護措置の名目は「経済的精神的虐待」であり、またそれすら母親を否定している。従って生命又は身体に重大な危機が生じていなかったことは明らかである。母本人がそれを否定し、情報公開と訂正要求を望んでいるのだから、これほど明白な証拠は無い。

 

 44頁 1)事実の確認の必要性 の項には

 

「事実の確認については、訪問面接による確認の他、市町村内の他部局、介護支援専門員や介護保険サービス事業所、民生員など当該高齢者と関わりのある機関や関係者から情報収集し、高齢者の状況をできるだけ客観的に確認するようにします。」とあるが、当時通っていたデイサービス(ニチイ)や民生員に情報を収集していたのであれば保護措置など絶対に無かった筈である。これらの人たちから情報を収集したというのであれば証拠を見せよ)

 

 45頁 4)関係機関からの情報収集の項には次のようにある。関係機関から収集する情報の種類等の例、として、

 

・家族全員の住民票

 

・戸籍謄本

 

・生活保護の有無

 

・生涯部局、保健センター等での関わりの有無

 

・地域包括センター等の関わり、相談歴

 

・介護保険サービスを利用している場合は、担当介護支援専門員や利用している介護サービス事業者からの情報(つまりニチイのケアマネ・佐藤恵美氏に情報収集したかどうか、という意味)

 

・医療機関からの情報

 

・警察からの情報

 

・民生委員からの情報

 

 とある。こららの機関から情報を収集した証拠を見せよ。

 

 46頁 5)訪問調査の項には次のようにある。

 

(意訳)虐待の事実を訪問調査するときは本人に拒絶されることが想定されるために次のように配慮すべき、として、「このようなときには、高齢者や養護者・家族等関わりのある機関や親族、知人、近隣住民などの協力を得ながら情報集を行ったりサービス利用をすすめるなどの策を講じるなど、継続的に関わりながら徐々に信頼関係の構築を図ることが必要になります。」とあるが、すでにデイサービスを利用していただけでなく、佐藤恵美ケアマネの意志を無視して突然保護措置になったものである。また私と母親族、知人、近隣住民の協力も得ていない。嘘だと言うなら証拠を見せよ。

 

 47頁 (訪問調査を行う際の留意事項)〇信頼関係の構築を念頭に、の項には次のようにある。

 

「高齢者本人や養護者と信頼関係の構築を図ることは、その後の支援にも大きくかかわって来る重要な要素です。そのため、訪問調査は虐待を受けている高齢者とともに養護者・家族等を支援するために行うものであることを十分に説明し、理解を得るように努力することが必要です。」と、あるが、全く何の説明もないまま、母親が洗濯物を取り出そうとして自損事故を起こし、ショートステイに入った瞬間保護措置にしたものである。これは厚生労働省の通達を完全に無視したやり方で到底許すことは出来ない。

 

 同頁 〇高齢者や養護者の権利、プライバシーへの配慮の項には次のようにある。

 

「訪問調査→措置入所時・・養護者不在時に訪問調査や高齢者の保護を行った場合は(那田尚史注:私たち親子の場合はまさにこれに当たる)訪問調査や保護の事実と法的根拠、趣旨、不服申立て手続きの教示(保護した場合)、および連絡先等を明記した文書を分かりやすい場所に置いておく。置く場所は第三者の目に触れないところ。」とあるが、保護措置の事実を知ったのは町内会の某氏によるものであり、これらの配慮は全くされていない。したと言うなら証拠を見せよ。証拠が無い場合、高齢者福祉課は何らかの形で賠償責任を負うべきである。

 

 48頁 〇調査の継続性の確保の項に次のようにある。

 

・一方的に虐待者を悪と決めつけず、先入観を持たないで対応する。

 

・介護負担軽減を図るプランを作成する。

 

・介護者の介護負担をねぎらいながら、問題を一緒に解決することを伝えながら情報収集に努める。

 

・自分の価値観で判断しない。

 

とあるが、これが本当に実施されていたら今回のような情報開示と訂正要求を繰り返す必要は無かった筈である。

 

 以上は今後訂正(削除)請求をする上で、高齢者福祉課並びに法制課がいかに法令や厚生労働省の通達を無視していたかを示したものである。

 

 これほど違法行為を働いてまで何故母を保護措置にしなければならなかったのか(私はその裏の理由は分かっているが)、常識的に考えても異常としか考えられない。

 

 八王子市個人情報保護条例では

 

「第58 実施機関の職員又は職員であった者が、その業務に関して知り得た個人情報であって公文書に記録されたものを自己若しくは第三者の不正な利益を図る目的で提供し、又は盗用したときは、1年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」と明瞭に書かれているにも関わらず法制課の篠原氏は罰則は警察が行うべきもので我々には権限が無い、と言った。しかし、警察で行うものであれば八王子市個人情報保護条例にそもそも記す必要が無いはずである。法制課が警察に罰則を適用してほしい旨、仲介の労を取るのが当然ではないか。

 

 また個人情報審査会の答申個第46号4頁には「申立人は「那田尚史面接等記録(平成22年5月6日)」における申立人の「妹二人が上京したと言った」旨を尚史が述べたとの記載について、「私を助け出したい一心から出たことで、当然のことと思います」と主張するが、同主張が訂正を求めるものかどうかはともかくとして、そものそも同文書は尚史に対して開示したものであって、「第20条第1項の規定による開示の決定に基づき開示を受けた自己の個人情報}(条例25条)に該当しないため、訂正請求することはできない」と書いているが、私の平成22年5月6日に開示された文書にはそのようなことは全く書かれていない。大半が墨で塗りつぶされている。その記載があるのは母・那田満留に開示された文書<那田満留 面接等記録>の平成22年5月6日にあるのだから、審査会は何を読んだのか疑問に思う。この審査会答申は取り消し、母の訂正請求を認めるべきである。(法制課の最後の決定が出た後の全開示部分には私の発言として記録があるが、事前に私がこれを読むことは不可能である)

 

 さらに25八総法収第96号の法制課の決定には(2)これを本件についてみると、本件答申における

 

ア 記載①(「那田満留に関する経過」及び「平成22年4月26日以降面接等記録」中の平成22年5月6日(木)記載部分における「尚史が所有しているマンションの購入資金4,000万円を私が全て払った」旨を異議申立人が述べたとの記載)

 

イ 記載②(「平成22年4月26日以降面接等記録」中平成22年5月6日(木)記載部分における「愛媛でも酒で暴れたりして親戚には面倒をかけてきた」旨を異議申立人が述べたとの記載)

 

ウ 記載③(「平成22年4月26日以降面接等記録」中の平成22年4月26日(月)記載部分における「両腕が居たくて眠れない。猫がお漏らしした布団を洗濯してそれを干すように言われて肩を痛めた」旨を異議申立人が述べたとの記載)

 

エ 記載④(「那田満留に関する経過」及び「平成22年4月20日以降の経過」中の5月11日(火)記載部分における「家には帰りたくない」又は「この施設に留まりたい」旨を異議申立人が繰り返し述べたとの記載)

 

オ 記載⑤(「平成22年4月26日以降面接記録」中の平成22年4月26日(月)記載部分における「21年の8月に八王子来てから、尚史の面倒をみるのにがんばりすぎてしまい、11月に右田病院に救急車で運ばれ、腰の骨折が判明した」旨を異議申立人が述べたとの記載)

 

については、異議申立人の発言として市職員が採取したものであり、客観的に正誤の判断が行える、と記されている。

 

 冷静にア~オを見るとどこに客観的に正誤の判断が行えるのだろう。これらはほとんどが証拠をつけて反論済みの事柄である。要するに市職員が採取或いは記録したものは正しいという前提に立った決定であり、これは身内の庇いあいと言われても仕方ない。

 

 これら一連の今回の母親の保護措置に係わる高齢者福祉課、審査会、法制課の対応は「ためにする」ものであり、悪意の感情に基づいていると言わざるを得ない。

 

 一言で言えば、虐待を受けた母・那田満留本人が「虐待を受けていない」と主張しているのだからこれほど明白な証拠は無い。以上は、私の後に訂正(削除)請求を提出する母親も同じ文章を冒頭に記すことを前もって知らせておく。

八王子市役所


私が八王子市に提出した訂正要求の別紙2と別紙1の結論部分を公開します。

2016年11月17日 | 法律

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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訂正請求・別紙②

 

私と創価学会の闘争と妻子失踪、母の監禁の記録(時系列)

 

私が早大と東京工芸大で非常勤講師を務めていたのは2001年4月から2009年3月まで。

 

2006年5月 芥川賞作家兼禅僧の 玄侑宗久師(同い年)の助言などにより見性体験を繰り返し、「微笑禅の会」(非宗教)を設立。全国から入会者が集まる。同時に「東村山市議不審死事件」の究明を所謂「ネトウヨのカリスマ}瀬戸弘幸氏らに呼びかけ、街宣、シンポジュームなど繰返す。

 

同年7月 HPに「創価学会批判の要諦」の一文を書き「創価学会批判のバイブル」と言われネットで話題となる(「創価学会 批判」で検索をかけると170万以上ヒットする中のベスト3に入っていた。本名で書いたのは私だけ)。私のHPは微笑禅の会会員とアンチ創価の溜まり場のようになり非常に賑わっていた。

 

2008年4月 HPの常連に成りすましていた創価学会工作員二名(織田高敏と八木一仁)が、池田大作は立派な人間だ、などと発言したために一斉に批判され、別のHPで母を「従軍慰安婦」私の研究を「価値が無い」等々、繰り返し名誉毀損をしたため提訴し勝訴。ちなみに母は助役の娘の上、軍属(兵隊と同じ地位の文官)証明書を持っている。

 

同年9月 同じ被告が名誉毀損と脅迫を繰返すために再度本人訴訟を行い立川地裁敗訴、2009年9月上告敗訴。被告の一人は静岡からわざわざ愛媛に住む母の家まで来て「売春婦」と罵倒。もう一人は松山から審理中に母の家に来て脅迫。また隣町の創価学会青年部が本名を名乗り(一人は山本)3度も母の家に来て脅迫。これらには複数の証拠と目撃証言があった。(被告は裁判を通して間一度も出廷せず。決定的な証拠を提出したが事実審理も全くなし)。   

 

なお、松山地裁で被告の一人(織田高敏)が私を相手取って起こした名誉毀損裁判は本人訴訟により私の完全勝訴で、東京の地裁、高裁、最高裁と逆の結論が出ている。

 

2009年3月 東京工芸大を退職し、全ての能力を事業に注ぐことを決意し、大きな債務を抱え、様々な資格を取得し、心身の限界で孤軍奮闘する。妻は精神的な病気(ADD)が進み廃人のようになって会話も少なくなる。ちなみに妻の母親一族は熱心な創価学会員。妻は帰郷中に母の預金400万円を盗んでいる。

 

同年8月 妻子失踪、DVシェルターから出た後、約2年の住所不明期間を経て現在青梅市在住(DVシェルターは最高でも2か月までしか住めない。この間は義父母にさえ非通知で一方的に連絡するのみ)。この間、子供達から一度も連絡なし。長男は立川の家裁で最初は母が上京したと聞いて「激しい動揺を見せている」とのことだったが、次いで「お婆ちゃんがいたことを思い出せない。顔を知っている人が居たら一緒に会いに行きたい」と証言。子供と母は頻繁に電話で話し、母は年に一度は上京して私のマンションに泊まっていたので記憶から消えることは通常ありえない。なおDVシェルターへの保護は妻への叱責を「言論の暴力」としたもので、保護命令(妻子や妻の親などとの接見禁止)は出ていない。

 

同年9月 私個人に対する専門中傷ブログが立ち始める。(私の名前で検索すると3万以上ヒットするなかトップに位置する)

 

2010年4月 母が八王子市高齢者福祉課により1ヶ月の監禁。虚偽を重ねて私の虐待と断定したもの。伊藤市議に助け出される。

 

同年6月 母救出直後、私が肝硬変、糖尿病などを併発して2週間の危篤に陥る。糖尿病のために開腹手術が出来ず、名医の神業と不思議な力が働き奇跡的に蘇生。入院中に占有屋的な存在となる夫婦が入居。

 

以後、入退院を繰返し、歩行障害リハビリ中。 

 

この間集団ストーカーと言われるもの、尾行、盗聴、風評被害、など日常的に繰り返される。伊藤市議の後援会連連絡所の看板破損、立小便事件。NTTの光フレッツの外付け保全器のカギがこじ開けられ電源が落とされる。その様子はビデオに録画していたが偽被害者が次々に現れカメラごと盗まれる。何度か泥棒に入られ金庫の中の実印など盗難され、八王子警察刑事課を呼ぶが「盗難前の状況が分からないから事件にならない」との理由で無視される。などなど、多すぎて書きれない。

 

尚、私の従兄(母の妹の子供)が創価学会本部職員で、これらの事件の最中に帰郷し「創価学会が尚史君を第一の標的にしている」と発言。これを聞いた叔母の証言は手元にある。

 

西村修平氏、瀬戸弘幸氏ほか、かつて盟友関係にあった人々は刑事と民事で創価学会に訴えられ有罪になったが、私は東村山事件に「行動する保守」が連帯するきっかけを作ったことさえネット上から消されている。これらの経緯から八王子市と創価学会が一体となり、妻子をDVシェルターに入れて洗脳し、母を保護措置として監禁し、「全てが私の粗暴な性格に起因する」と筋書きが出来ていると推理している。

別紙1の結論部分

最後に再度要点を整理する。

①審査会は私が提出した参考人招致を拒否したことに対し謝罪すること。

②審査会は谷渕が創価学会員或いはそのシンパであるかないかを証明すること。

③私と母に関する個人情報を全て削除すること。

④実施機関の長である八王子市長は辞職すること。

 

以上。

 八王子市役所

 


禁酒をせずに糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治した話

2016年11月14日 | 思い出の記

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これから書く話は以前ブログに似たようなことを書いたかもしれませんが、改めて思い出したことを書き残すことにします。

まだ離婚せず、大学の非常勤講師で、見性体験をした後の話です。血液検査をしたところ、γーGTP(肝臓が壊れている数値です。正常値は男性の場合70とされています)が500を超え、H-a1c(血糖値の月平均の値です。正常値は6とされています)が10と出ました。医者はこのままだと昏睡(突然意識不明になること)するといって治療を受けることになりました。

管理栄養士がついて毎日野菜を食べること等々の注意をしてくれました。私はそれでも酒を止めることなく、結果的に糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治したのですが、その間に行っていたことを述べましょう。まず、毎日坐禅を組んでいました。次いで1年半の間、毎日ウォーキングを続けました。私の家から歩いて15分ほどのところに野球ができるほどの広場があるのですが、片道15分かけてその広場に行き、操体(日本医学の一つです)の運動と養神館の基本動作をしてまた15分かけて家に戻りました。ウォーキングは始めると依存症のような状態になってウォーキングを止めることが出来なくなります。ですから雨の日も雪の日もウォーキングを続けました。そういう時は橋の下の雨の当たらない場所で養神館の木刀を持って行う演武を傘で行ったものです。中学生ぐらいの子供たちが面白がって見に来たことを覚えています。

そして風呂に入ると決まって午後5時には家を出て三崎町の「金太郎 村」という居酒屋に行きました。三和交通の運転手に聞いたところでは5時にタクシーに乗った時にはもう缶ビールを飲んでいたそうです。その居酒屋は村田忠男というレッスンプロで有名な人がオーナーで、彼の教え子の中には広島カープの投手だった川口や歌手の日吉ミミなどがいました。

ちなみに八王子に黒糖焼酎を広めた最初の人間は私です。映像作家の山崎幹夫と一緒に奄美諸島の酒蔵から全ての黒糖焼酎の銘柄を取り寄せ、一番おいしくて値段が手ごろなのは「里の曙」の紙パック、高いけれどコクがあるのは「朝日一の条」と判明しました。そこで入る居酒屋ごとに黒糖焼酎を勧めて回ったものです。その話を里の曙にしたところ、喜んでオリジナルのグラスを一ダースもらいました。今でもキッチンを整理すれば出て来るでしょう。

ところで「金太郎 村」には西八王子にある確か「松本消化器内科」の院長が常連で来ていました。その人に禁酒せずに糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治した話をして、血液検査のデータを持っているので学会で発表したらどうですか?と尋ねたところ、「我々が研究発表をするのは新薬を作るためです。ということは薬を飲んで一般の人が治るというデータが欲しいのですから、あなたのような異常体質の研究をしてもお金になりません」と言われました。

現在も基本的に毎日坐禅を組んでいますが、H-a1cはほぼ正常ですが、γーGTPはやや高いようです。飲んでばかりいるので当たり前のことですが。


梶井基次郎とは

2016年11月12日 | 芸術・表現

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年明治34年)2月17日 - 1932年昭和7年)3月24日)は、日本の小説家感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。

 死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している

梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石森鴎外有島武郎志賀直哉などの白樺派大正デカダンス西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二埴谷雄高吉行淳之介伊藤整武田泰淳中村光夫吉田健一三島由紀夫中村真一郎福永武彦安岡章太郎小島信夫庄野潤三開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。(wikipediaより)

梶井基次郎の作品は大抵詠んでいますが、先日のブログ「浪人時代、学生時代」に書いたようにとりわけ「檸檬」は彼の代表作でしょう。散文の中に詩的表現が入ることと、一人称の小説(私小説)であることと、貧困、知的、ブルジョア的なものへの反発と憧れがこの小説の中に読み取れます。

詩的表現というのは(私が梶井基次郎風に書けば)、A子は複雑な微笑み方をした、と普通はかくところを、秋になり花弁の端が黄ばんできたバラの花のような、あるいは庇が大きすぎたために日が当たらず育ちの悪い朝顔のような、山陰にありながら瑞々しさが消えてしまったリンドウのようなA子の微笑みがラセン状のキリとなって私の目を刺した。

と言ったような詩的ながらかなりしつこい直喩が見られます。檸檬は文学を目指す人間なら臨書すべき作品であり、彼の作品は一通り読むべきですが、wikipediaを見ても分かるように女性には高い評価をする人がいません。それは小沢一郎と同じで彼の要望が原因だと私は思います。

 

 


浪人時代、学生時代

2016年11月10日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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一般に浪人時代というのは暗い、辛い記憶に満ちたものだが、私の場合は実に充実した楽しい思い出の時期でもあった。もちろん、浪人という宙ぶらりんの社会的地位は常に心痛と隣り合わせである。しかし、それだけではなかった。

私は、浪人時代ほとんど受験勉強をしなかった。
もともと国語に関しては学年トップを続けていたので問題なかったし、英語も文法が大好きだったから、単語力の強化と発音の確認程度で充分だった。唯一のネックは世界史で、第一志望の早稲田大学第一文学部の世界史の問題は教科書を丸暗記しても絶対に合格できないようになっており、例えば「フェリペ2世の在位年代」が正確に頭に入っていないと解けない、といった、実にトリビアルな問題が出るのだった。

私は、中学高校の頃から、将来は詩人か小説家になるのが夢で、太宰治や中原中也、ボードレールなどの作品は全部読破していたし、浪人時代は稲垣足穂にのめりこみ、難解な哲学書なども片っ端から手を出していた。
だから、受験勉強はさっぱりやらなかったが、自分の中ではいっぱしの文学者気取りだった。端的に言えば、「なぜこの俺が、どうでもいい歴史の年代暗記のためにこの明晰な頭脳を使うなどという愚劣な真似をしなければならないのか」という傲慢な精神を抱いていた。

一浪目の下宿は、隣がパチンコ屋とビリヤード場、雀荘と、三拍子揃った立地条件だったせいもあって、下宿の浪人仲間と毎日、それら三道楽に熱中した。マージャンを本格的に覚えたのも浪人時代で、夢の中でもマージャンをやっているぐらいのめり込んだし、ビリヤードも腕を上げて、引き玉、押し玉、自由自在に出来た(当時はポケットではなく4つ玉が主流だった)。パチンコにいたっては毎月15万はつぎ込んでいた。
こうして昼は三つの道楽に打ち込み、夜は酒を飲み、気が向けば詩を書く、実に充実した時間が、私の浪人時代だった。

その浪人下宿には福岡や宮崎など、九州出身の男たちが多くいた。私から見れば、彼らは相当に野蛮な風習に染まっていて、何かあるとすぐ殴り合いの喧嘩になったものだが、その一面、非常に純情なところがあって、腹をさらけ出してものをいうので好感が持てた。

そもそも浪人には2つのタイプがある。私のように、受験勉強に反抗して無頼派的に遊びまくっているタイプと、素直に勉強をするタイプである。前者は後者に比べると相当に早熟なグループだった。某友人は、浪人時代に役者になることを夢見て、人脈を求めて歩き回っていたし、私は文学者きどりで飲んでは芸術論を戦わせていた。

そういえば、私に女遊びを教えたのも役者志願の浪人生だった。千葉の栄町に私を連れて行き、初めてのときはアッという間に終わるからといって、ソープランド(当時はトルコ風呂、といった)に入る前に、二人で日本酒を二合ずつ飲んで、ことに挑んだものだった。

私は、「自分の文学的才能を開花させるには早稲田大学第一文学部に入るほか無い」という確信と同時に、「受験勉強などという愚劣なものに手を染めることの不快さ」という二律背反に陥っていた。
そんな私が真剣に受験勉強に取り組み始めたのは「怒りのエネルギー」だった。

二浪の後、親の勧めで受験した甲南大学文学部に合格し入学した。その大学は西の学習院といわれるような非常に優雅な、ある意味理想的な大学だったが、私は体育と音楽以外の授業には出席せず、昼間から酒を飲んで詩作に打ち込む生活をしていた。ウィスキーの中に市販の睡眠薬ブロバリンを混ぜて飲んで詩歌を読んでいたため、トイレの便器はオレンジ色に染まっていた。そして夏休みに郷里に帰ったときのことである。
人望に欠けた、カンナ屑のように薄っぺらなある同級生と出合った。キツネのような目をして、何かにつけて私に因縁をつけるストーカーのような人間だった。彼は一浪して明治大学に入ったことを大いに鼻にかけていた。そして、「昔から俺のほうがお前より成績がよかったからな」と口走ったのである。これには私は怒りよりも驚きが先に来た。私の眼中に彼などなかったし、あらゆる学科、あらゆる成績の面で、彼は私より格段に劣っていたのである。
なるほど、人間は「結果」で自己と他者を判断するのだ、と私は初めて了解した。彼が明治大学生になり、私が甲南大学生になったとたん、過去の事実を捏造し、私よりも秀才だったというデタラメな事実を作り上げ、私本人に宣言したのである。なんという単純な妄想、なんという単純なナルシシズムだろう。

この男の侮辱が私の休火山に火をつけた。あんな下等な人間に学歴で一生バカにされる人生というのは死んでも我慢できない。私は「一日に5時間、3ヶ月だけ受験勉強をする」と決意した。国語と英語はもともと得意だったので、問題は世界史だけである。
そこで、私は二冊の世界史の参考書を買ってきた。一冊は受験用のものの中で最も高度なレベルの参考書。もう一冊は、受験用ではなく研究者用のもので、受験にはほとんど役に立たない研究本だった。その二冊を平行して読みながら、私は「決して受験に出ない世界史」と題したノートを作った。
自分の能力を受験勉強という愚劣な行為に落とす、ということは、彼のようなバカな人間と同じ立場に立つことになるわけで、それは私のプライドが許さなかった。だから、私は、受験に出るはずの無い、よりトリビアルな、より研究的なノートを作ることで、世界史を「受験用」として暗記するのではなく「研究用」として学問したわけである。

面白いものだ。よりトリビアルでより研究的なノートを作っていくと、受験に出る程度の史実はいつしか頭の中に入っているのである。ノートは受験の一週間前に完成したが、その最後の項目は「朝鮮半島史」で、これは過去10年間の早稲大学第一文学部の問題にも、またほかの大学の受験問題にも出たためしのない範疇だった。私は朝鮮半島の歴史を頭に入れながら、これで受かった、と思った。

早稲田大学第一文学部、同教育学部、学習院大学史学部、と3つの学部を受験して、全てに合格した。どういうシステムになっているのか未だに不思議なのだが、受験をして外に出ると予備校が今出たばかりの問題の模範解答を配っているのである。私はそれを手にして、3教科ともほぼ満点であることを確認し、とくに世界史に関しては3学部とも完璧な解答だったことを知り、合格を確信した。
人品骨柄の卑しい男が傲慢なことを言わなければ、私は甲南大学を中退してフリーターにでもなっていたに違いない。仏教者はよく魔を味方にせよ(変毒(へんどく)為(い)薬(やく))というが、振り返れば、まさに私にとって彼は魔が変じた善神だった。

さて晴れて念願の早稲田大学第一文学部に入り、しかも当時芥川賞作家を輩出して最も人気の高かった文芸部を専攻した私は、意気揚々と文学部のスロープを闊歩していた。

ところで、当時詩壇は大学教授兼詩人が支配していて、詩心を全く持たない、観念的で引用の羅列だらけの作品が幅を利かせていた。私は、詩というものは作品のインスピレーションとなる詩的感動の体験と、読んで心に残るリズムがなければその作品に価値は無い、と信じていたので、「現代詩手帖」などの雑誌に載る彼らの作品には失望していた。
とはいえ、確か清水某というフランス語教授兼詩人の授業を受けて、作品を提出させられたことがあった。私は、東京の片隅のアパートで、一個のリンゴをかじりあいながら、そのリンゴを食べ終わったら死のうと決意している男女の心境や、都会の雑踏の様子を詩にして提出した。すると感想に「君の作品を読んでアポリネールの詩集『地帯』を連想しました。抽象化が強すぎる面があるので、もっと一般に分かりやすく具体的に書くようにするといいと思います」と感想が書いてあった。私は前衛詩の父親ともいえるアポリネールの作品を真面目に読んだことは無かったが、この批評には大いに満足した。



しかし一方で、私を心の底から落胆させる出来事が起こった。 当時の早稲田の文学部を牛耳っていたのは三島由紀夫の親戚に当たる教授で、私は彼の授業を受けていた。最初の授業で、梶井基次郎の『檸檬』について批評を書け、という問題が出た。『檸檬』と言えば純文学を志すものにとっては聖典の一つであり、一度ぐらいは臨書すべき名作である。私の大好きな作品でもあり、私は気合を込めて批評を書いた。
ところがその教授が、学生の書いた批評の中から一番おもしろい、と判断して読み上げられたのは以下のような文章だった。

「わたしは、ある漫画で『檸檬』を茶化したものを読んだことがあります。男が画集を山積みにしてその上にレモンを置いて本屋から出ようとすると、店員さんが「お客さん、元に戻してください。迷惑です」という内容の漫画でした。わたしも同じように思います。勝手に本を棚から出して山積みにされては困ると思います」

この小学生の作文のような文章を書いたのは、いかにも頭の悪そうな女性で、彼がこの批評を面白いと褒めると、小鼻を膨らませて、自慢げな顔をした。私は心の底から失望した。こいつらは『檸檬』の凄さというものを全く理解していないのである。
早稲田の文学部でさえ、この程度の学生にこの程度の教授なのだ。そういえば、当時早稲田の現役女子大生が芥川賞を獲ったが、若い女が中年男を手玉に取る、という「当て込み小説」だった。要するに、中年の男性審査員に媚を売った受け狙いの三流小説である。この当時、早稲田の文芸部に人気が集まったといっても、内容的には商業主義に接近したポップな小説が主流であり、すでにこの時代の早稲田文芸はジャンク化していた(「J文学」のJは、ジャパニーズではなくジャンクのJである)。稲垣足穂や梶井基次郎や太宰治を信奉する私のような人間は、早稲田では居場所がなくなっていたのである。
これを機に、私の早稲田大学に対する憧れはきれいに消えた。あとは、女を抱き、酒を飲む日々に溺れていった。当時私は女性に好かれる素質があり、実際複数の占い師に「あなたには女難の相があります」と言われ、その女難という言葉を私は好意的に解釈していたが、実際、抱く女には苦労しなかったものの、相手の女性は美人だが人格障害や神経症患者が多く、性的快楽の変わりに、山ほどの苦痛を体験した。酒と女の日々は、私が大学院に合格するまで続いた。

(見性体験記より)


牧野さんの家の方に

2016年11月09日 | エッセー

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私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。フィルムセンターの蔵書はもちろん、一枚のポスターを見るために栃木県の図書館まで行って一泊したこともある。
そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の配慮によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
 野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。

  この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
そういうわけで奥村氏と指導教授の配慮のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか、将来は必ず君を教授にするから」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。

澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 (見性体験記より)