那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

郷里の方言のことなど

2016年05月29日 | 愛媛自慢

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(遂に決定版が出ました。既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げます) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

決定版は出版される可能性もあることをお知らせします(あまり期待しないでください)。

 __________________________

また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。

_________________

 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。愛媛の有馬さんもクリックをお願いします。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp(クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

_______________________

私の郷里(愛媛県西予市野村町)には独特の方言がある。以下、箇条書きにして解説する。

ダンダン ありがとう、という意味。テレビドラマの題名になったそうですが私は一度も見ていません。

ドバンコ カエル、という意味。ダンダンと同じように余程のお年寄りが使うか、柄のいい言葉ではありません。

ジャケンド けれど、という意味。おそらく広島県でも使われている筈です。

自分 これは自分のことも相手のことも意味します。関西では共通のようですね。例えば「自分はビールが好きだけど、自分は?」という風に使います。

おらぶ 叫ぶという意味。おらぶな、おらぶなや、といった使い方をします。

こんまい 小さいという意味です。

だちまかん 下らないと言う意味です。おそらく、「うだつが上がらない」という言葉の省略だと思います。

じゃかましい うるさいという意味。

おんどれ お前という意味。大抵はこの言葉を使うのは喧嘩の前です。

偉い これは根性が悪いという意味です。この方言を聞いて意味が分かる人はまずいないでしょう。おそらく郷里では偉い人はみな根性が悪かったのでしょう。名古屋では疲れたという意味で使われるそうです。

われ お前という意味です。これも喧嘩になる前に使われることが多いようです。

卑猥な例の言葉 東京でいう4文字言葉に近いようです。関西の3文字言葉ではピンときません。

がいなねや 凄いねという意味です。これも上品な家庭では使われません。

やんよみそ いい気味だという意味です。今はどうか知りませんが私が小学校の時には様々な神社で神様に奉納する腕白相撲がありました。私は親に隠れて飛び入りで出場し5連勝をして賞金とボンデンをもらって来たものでした。得意技はウッチャリやはたき込みや肩透かしで、相手の力を利用して勝つ技ですので子供の頃から合気道のセンスがあったのでしょう。一方でガムシャラに押して来るだけの相手は苦手で負けた時に、観客が「やんよみそ」と叫んだことを覚えています。何故か母親は私が相撲大会に出るのを嫌がっていました。母親の子供の頃には父親のことを「とと様」、母親のことを「かか様」(他の家庭では父親を「おとん」、母親を「おかん」と呼んでいたそうです)、お姉さんのことを「あね様」と呼んでいたそうですから、相撲に出ることは下品だと思ったのかもしれませんね。母親の曽祖父は「中城武七郎」と言って明治維新の後で最初の戸長(今の町長です)になった人、祖父は「中城安三郎」と言って養子をもらったところ財産を道楽で潰してしまったそうです。母親の父は「中城周三郎」と言って今の城川の役場でこの人の名前を知らない人はいないそうです。「万語読み」(天才)と言われ、3千人近くいた町民の住所と山林の地番を全て覚えていたので、近くの人は役場に行かずに祖父の家の前に毎朝行列が出来ていたと聞きます。また年に一度、「お堂」(お遍路さんが休憩をする家です)で算盤大会があったそうですが、中城周三郎だけが暗算で時々算盤のコマを動かしていつも優勝したと聞いています。

また「城川町」という名前は城川周三郎が付けたものです。wikipediaの以下の文章は間違いですのでこの際に残しておきます。

 

1959年(昭和34年)町制施行時の公募による。昭和の合併後も、ごたごたが続き、分村運動すら生じていたと伝えられ、新しい名前で気分も一新し、住みよい地域づくりに向かっていこうとしたもの。

 

250人の応募があり、「城川」としたのは8名であったと当時の記録にある。旧村である土居村の「土」と魚成村の「成」を併せて「城」、これに高川村・遊子川村の「川」をあわせたものと説明されている。

 

旧村の各地に昔の「城」跡があり、またどの村も川に面していたことからつけられたもの。それ以前の村名が「黒瀬川村」で「黒」が暗いイメージを与えないでもないことから、「城」が「白」に通じ、「黒が白になる」という語感からも歓迎された。その意味では、4つの旧村の文字をくっつけたというのは語呂合わせに近いとも言える。

 

こうした意味では当時の造語であるが、現在では完全に定着している。なお、こうしたへん・つくりを合成した(という意味づけをしている)のは、昭和の合併、平成の合併を通じて、愛媛県内では唯一(他県では山梨県韮崎市の前身となった北巨摩郡清哲村がある。上、木、居、樋を合成したもの)。

なお、城川町と清哲村は日本で最も凝った名前として有名です。

 

 


あなたは凸凹神社を知ってますか?

2016年01月21日 | 愛媛自慢

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。

 _____________

今日は簡単に終わらせることにします。これが愛媛自慢になるかどうか知りませんが、愛媛県宇和島市にある多賀神社、別名凸凹神社は知る人ぞ知る「性」に係わる資料やオブジェを揃えた非常に有名な神社です。

 私が大学院を修了して郷里に妻子を連れて暮らしていた頃、田部という宇和島で町興しをしている人物が訪ねて来て、様々な町興しを手伝いました。例えば時代劇の父親・伊藤大輔監督を顕彰する石碑を作る運動の発起人になったり、日本の前衛映画運動の理論的指導者である松本俊夫監督(元・日本映像学会会長)の「薔薇の葬列」を解説する仕事など、また伊藤大輔監督の代表作「忠治旅日記」の上映会を開く時に、担当した弁士を接待するなど、田部氏に頼まれた仕事は全て引き受けました。

そんな付き合いの中で凸凹神社の存在を知ったわけです。田部氏によればその神社の宮司は自分の娘に、とてもここでは言えない名前(お〇こ)を付けたとのことです。関西文化圏にはいるので3文字言葉です。

東京からわざわざ凸凹神社を訪れた観光客が作ったブログのurlを以下に貼りますから、この神社がいかに変わっているか十分に楽しんでください。

http://arata-media.com/spot/dekoboko/


返杯の作法(私の故郷愛媛県西予市野村町の場合)

2015年12月09日 | 愛媛自慢

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

以下に書いてあるのは高知県の返杯の作法である。他にも鹿児島や沖縄に返杯の風習が残っていると聞く。

 


宴もたけなわになったころ、人々が席を立って、うろつき始めます。このときの装備品は、片手にお銚子、片手にお猪口。「どうもどうも」なんて言いながらターゲットに近づいてゆき、お猪口を差し出します。相手がお猪口を受け取ったら、適当に話をしつつ、お猪口に酒を注ぐのです。受け取った相手は、酒を飲みほすと、そこらへんの器に、お猪口の中身をこぼすような仕草をします。これはどうも「私はちゃんと飲みましたよ」ということを示しているようです。

そして、お猪口を手でぬぐうような仕草をし(洗ったということを示すのか)相手にお猪口を渡し、お銚子を受け取り、今度は注ぐ側に回るのです。これを、会話と共に、延々と繰り返すわけです。それが、高知県の返杯という制度。

 

しかし私の郷里では全く事情が違っている。宴の最初から返杯をするのだ。例えばある店に行って私の先輩や知り合いの父親が飲んでいたとする。すると、年上のほうが私に向かって「マスター、那田君に私から一杯出してくれる?」と言う、すると私は(必ずコップ酒と決まっている)それを一気に飲み干し、「先輩、ご返杯」と言ってそのコップをおごってくれた年上に手渡す。年上のほうは、それを一気に飲み干してそれをさらに私に渡し、「マスター、私から那田君にもう一杯」という、すると私はそれを一気に飲み干し、「先輩ありがとうございます、先輩にご返杯」と言って年上にコップを返すと先輩はそれを一気に飲み干さなくてはならないのだ。場合によってはこれを3~4度繰り返し、やっと自分の好きなビールやおつまみを頼むことができる。

 

年上からのコップ酒を「今日は体調が悪いので・・・」などと言って断ろうものなら、「お前はワシの酒が飲めんのか!」と怒鳴られて下手をすれば表に連れて行かれかねない。だからどうしてもこれ以上飲めない時は「先輩、ちょっとトイレに失礼します」と言って、喉に指を差し込み胃に溜まった酒を戻してから、平気な顔をして、また先輩がおごってくれた酒を飲みほして、「先輩、ご返杯」とやるのである。

 

これが「愛媛自慢」なるかどうかわからないが、もしかするとこの風習は無くなっているかもしれない。私が代表を務める微笑禅の会の会員の一人がテレビ関係者だったので、以前この風習が残っていることを説明し、再現ドラマの形で番組を作ったらどうか、と提案したことを覚えている。その後、私も彼も大病に罹ったのでこの提案は実現されなかったが、もし可能ならこの再現ドラマを全国放送で流してもらいたいものだ。

 

このブログを見ている全国のテレビ関係の皆さまへのメッセージです。その返杯を再現してくれる割烹と人物は私が話を付けておくので、ぜひ私の郷里・愛媛県西予市野村町に行ってこの返杯の作法を撮影して全国に流してください。旅館も私が手配します。




高畠華宵

2013年03月15日 | 愛媛自慢
腱鞘炎治療のため、なるべく引用だけで済むタイトルを選んでいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E8%8F%AF%E5%AE%B5より
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 - 1966年7月31日)は愛媛県宇和島市裡町生まれの大正から昭和初期に活躍した、日本の画家である。本名は、高畠幸吉。京都市立美術工芸学校日本画科卒業。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々 [編集]

上京して生活苦の中、1911年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので[1]、そのモダンさは時代の注目を集めた。
その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。1926年には華宵便箋・封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行うことによりさらに名声は高まり「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)中で「華宵好みの君も行く」と歌われるほどになった。鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。極端な例では、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。
しかし戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動を停止。一般大衆の間ではその爆発的人気は永続せず、戦後華々しいカムバックとはいかなかった。近年に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。

画風 [編集]

人物画が中心。連載小説の挿絵・雑誌口絵・レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型・アクセサリが画題となっていることも注目される。描かれるファッションのレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほど衣服デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣や洋服のデザインを行いそれが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、六曲一双の屏風の中に配された60人以上の女性の姿として描きあげた作品である。暑い季節に寝食を忘れてこの絵を描き挙げた華宵はそのためすっかりやせ衰えてしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。
幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また自身はまったく浮いた話がなく、実際生涯独身であった。縁談を勧められたとき「私には絵の中の女たちがいますから」といった切り返しで答えた話は有名である。

失意の戦後と幸せな晩年 [編集]

戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごし、子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。晩年はかつて絶縁した実家の兄を頼るほど生活に困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。しかし幼少の頃華宵の絵(とくに「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を開始した(その後華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により首都圏で回顧展が開催され、人気が爆発的に再燃した。その人気の隆盛を見届けた直後の1966年7月31日に、東京にて鹿野と加藤謙一(元「少年倶楽部」編集長)に見守られて生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[2]。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園であり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。

展示施設 [編集]

現在、生まれ故郷に近い愛媛県東温市下林に「高畠華宵大正ロマン館」があり自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。また華宵の故郷である愛媛県宇和島市には高畠華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」(宇和島市歴史資料館)が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている。首都圏では「竹久夢二美術館」に併設される挿絵美術館である「弥生美術館」の3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。
_________________________

上記、青色の部分には秘密がある。私が宇和島の展示会に行ったときの記憶だが、彼は同性愛者で、晩年は美青年と暮していた。養子がその相手だったかどうかは定かではない。
 

法律学者・穂積兄弟

2013年03月12日 | 愛媛自慢
愛媛自慢シリーズ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%B6%E6%96%B0%E4%B8%80より引用する。まずは兄の穂積陳重、弟の穂積八束の順に紹介する。
__________________
「学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ」学理のほか、名前、肩書き、地位、財産等には無頓着であれとの陳重の言葉

穂積陳重は、1855(安政2)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の次男として生まれた。長兄の重顎(しげあぎ)は後に字和島藩主であった伊達侯爵家の家令となる。陳重は、藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の具進生として上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、1876(明治9)年には文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んだ。1881(明治14)年に帰国、27歳のとき年東京大学法学部講師、1882年から1912(大正1)年まで東京大学ならびにそれが改組あるいは改称された東京帝国大学(1886~)の教授・法学部長に就任。さらに33歳で、日本ではじめての法学博士となった。

フランス法が盛んであった当時において、イギリス法・ドイツ法を移入し、1893(明治26)年法典調査会委員として民法などの起草に参加する等、創世期にあった日本の法学界に大きな影響を与えた。旧民法典を施行すべきか否かの法典論争においては、延期論を主張、同法典の延期後は、富井政章(とみいまさあき)、梅謙次郎(うめけんじろう)とともに法典調査会の主査委員を務め、新たな民法典(現行民法典)の起草にあたった。大学教授として30年、日本の“民法の祖”といわれたが、また、法理学(法を対象とし、その本質や理念、また根拠や価値などを哲学的な方法等により原理的・根本的に研究する学問である「法哲学」の別名)講座も開設者した。

さらには、大日本帝国憲法施行直後の1891(明治24)年、来日中のロシア皇太子を一巡査が襲撃したいわゆる大津事件が勃発した時、郷里宇和島の大先輩で当時大審院長であった児島惟謙から意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と言って激励、惟謙から謝電が送られた話は、有名である(参照「法窓夜話」)。

陳重は学究一途にとどまることなく、貴族院議員、帝国学士院第1部長、文政審議会委員などの要職に就き、晩年には枢密院議長をも務めたが、1926(大正15)年4月7日、71歳で死去。(以下、写真など省略)

穂積橋の由来

この穂積橋は、郷土の発展に終生貢献された穂積陳重男爵の御功績を讃えて昭和4年に命名されたものです。
穂積陳重先生は、安政2年(1855)市内中ノ町(今の京町)に生まれ、幼少より俊童の誉れ高く、若くして英独に留学し法学を研鑽、帰国後は、東京大学で教鞭をとり、法学部長を勤め、法典調査会主査委員として明治民法戸籍法を編纂するなど、民法生みの親といわれました。
 明治24年(1891)の大津事件では「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と進言して大審院長児島惟謙を支え、後年には枢密院議長となり、男爵を授けられました。
 また先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。
この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。
それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。
近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。

著書に『法律進化論』(1924~27)、『隠居論』(1891)、『五人組制度論』『五人組法規集』(ともに1921)などがある。
______________________
1860(万延元)年~1912(明治45)

わが国で近代を代表する法学者に一人穂積八束は、1860(万延元)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の三男として生まれた。藩校明倫館に学び、上京して1883(明治16)年東京大学法学部政治学科卒業の翌年からドイツに留学してシュルツェ、ラーバント教授らから君主絶対主義の立場にたつ憲法論を学んだ。

1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法公布に合わせるように帰国した八束は、ただちに、東京帝国大学教授(一時期次兄陳重と兄弟で東大教授となった)となり、憲法学や国法学、行政学の講座を担当、そこで、当時台頭しつつあった自由民権学派の憲法理論に激しく反対、天皇絶対主義憲法論を強硬に主張した。

後、枢密院書記官、法典調査会査定委員、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任。

八束は、特に大日本帝国憲法の解釈普及に力を注ぎ、同時に、伊藤博文を助けて憲法附属法典立案や各種法典編集に尽力した。また、民法典編纂過程で巻き起こったいわゆる「民法典論争」では、行延期派の旗手となり、「民法出でて忠孝亡ぶ」との名言をもって、ボアソナード編纂の民法典の施行延期を主張(この事実は、あまりにも有名)、延期された民法に家長権(かちょうけん=家長が家族員に対して有していた支配・統制の権利で、日本の旧家族制度における戸主権がその代表的なもの。「家父長権」ともいう)の尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たした。

1910(明治43)年に病気のため半年の間大学を休んだ際に、学生に申し訳ないと講義にかえて書いたのが『憲法提要上下』である。辞表を受理しない大学に「働かぬ者に給料を出すのは官規を乱す」とか「大学は学者の養老院ではない」といったり、一本筋の通った、いい意味で頑固一徹な学者であった。

明治天皇崩御(ほうぎょ­=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語。古くは、上皇・法皇といった)による大葬の日には肋膜炎(ろくまくえん)を押して青山葬儀所に参列したが、その直後より高熱を発し、3週間のち、明治天皇のあとを追うように、1912(明治45)年10月5日に心臓発作を併発して死去。享年52歳。

なお、八束のもとからは「天皇機関説」の美濃部達吉の外、天皇主権説に立って憲法を講じて国家主義的社会運動を指導し、美濃部を激しく攻撃した上杉慎吉(1878~1929)らが育った。

=========================

参考文献
日本立法資料全集 (別巻 1) <穂積陳重立法関係文書の研究>
信山社出版 (1989.12)
民法起草者穂積陳重論 [日本比較法研究所研究叢書]
白羽祐三/著
中央大学出版部 (1995.10)
明治民法の制定と穂積文書-「法典調査會穂積陳重博士関係文書」の解説・目録および資料
福島正夫/編
民法成立課程研究會 (1956.7)
穂積八束博士論文集
穂積重威/編纂
有斐閣 (1943.9)
_____________________

宇和島出身の法律家としては大津事件の大審院長児島惟謙の名前が余りに有名だが、穂積兄弟がいたことを知らせたいと思う。
 (腱鞘炎治療のために引用のみで終わらせます)

ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物・二宮忠八

2013年03月09日 | 愛媛自慢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%BF%A0%E5%85%AB より

二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 昭和11年(1936年)4月8日)は、明治時代の航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。
陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行うも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。
なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による[注 1]。また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している[1]。

生い立ち [編集]
八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。

飛行への着想 [編集]
明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。
それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった[2]。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにした。
大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて明治39年(1906年)に支社長にまで昇進する。この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。
支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力で)を自作する構想を立てた。その矢先にライト兄弟の飛行機を知る。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を取りやめ、製薬の仕事に打ち込むと共に、明治42年(1909年)にマルニを創業。この時の忠八の製作していた機体は重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは長らく疑問視されていたものの、理論的には正しい事は現在では認められている。

遅かった評価 [編集]
大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。
ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。大正14年(1925年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年(1926年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、昭和2年(1927年)、勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。既に陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。

世界航空機史上における位置付け [編集]

当時欧米で有人飛行を目指す流れは、
模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大したものを製作する
グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してからグライダーに動力を取り付ける
の2つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は3000回以上の滑空と風洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八の研究は91年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を元に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実験に成功した事で飛行理論の正しさは証明されたものの[3]、その研究の過程や計画が研究途上で明確な位置付けがまだできず、海外の研究者の着目が少ない。
近年の見解 [編集]

日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつあり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディアで取り上げられる事も多くなった。ライト兄弟の初飛行に先立ち動力付き有人飛行機を着想するも、金銭的事情で研究が進展せず有人飛行を断念したが、黎明期の先駆者としての功績と才能、様々な逸話、人格等、世界的な発見や功績は挙げていないものの、日本航空機史上へ名を刻むに足る人物として認知されつつある。
一方で実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず、「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり(航空に関する年表も参照)、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。(以下略)
___________________

上記の中で「忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した」と言うのが興味深い。
 なぜ飛行神社なのか?その答えは飛行機を偏愛した稲垣足穂の解説ww.geocities.jp/maomao_mac/hikouki.htmlを読めば一発で分かる。墜落死するのが飛行機の魅力だったわけだ。

http://www.uwakai.com/blog/2007/07/post_365.htmlには「七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ」の例が一つだけ引用してある。

大人は義に 
小人は利に 
野生の人は 
情に動けり


二宮幡山著 「幡詞」第一編より
___________________
なるほど、音は7つで文字は5、その上で4行だから非常に難しい。
 幡詞、というのは八幡浜から名付けられたのだろう。その八幡浜の名前の由来は次の通りである。


[八幡浜]
佐田岬半島の基部に位置し、天然の良港として古くから発展。明治時代、「四国のマンチェスター」。八幡浜という地名は、養老年間には見え、その由来は八幡大神(はちまんおおみかみ)がこの地の浜に立たせられたという伝説に由来する。ウンシュウミカンの産地。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9Eによれば八幡大神の起源は
__________________
八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた[1]。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。(略)

八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[3]。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い[3]。
「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[3]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[3]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[3]。
八幡神は北九州の豪族国造宇佐氏の氏神だった[6]が、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。
_____________________
とある。

これ以上長くなると神道や本地垂迹の話題になりキリが無いからやめることにする。
 武家の神様・八幡神とゆかりのある地に、飛行機の原理を発見し実用化しようと努力した二宮忠八という軍人が生まれ、飛行神社の宮司となって幡山と号し幡詞という短詩形を作った、というのも何かの因縁と思う。
 身近に神々が生きていた時代に憧れながら今日のブログを閉じます。

芝不器男 あなたなる夜雨の葛のあなたかな

2013年03月07日 | 愛媛自慢
腱鞘炎のせいか、あるいは他の病が重なっているのか、ともかく左手の手首と人差し指の下部が炎症や痙攣を起こし、独特の痛みを感じる。手を休めるために暫く引用が多い文章になります。

愛媛自慢というジャンルを新たに作った。愛媛は芸術家や学者を多く輩出している。その一人目を私の大好きな俳人・芝不器男にした。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:lRBaUCXVHqMJ:www.id.yamagata-u.ac.jp/PhysiologyII/Prof/prof_20101026.html+&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp(山形大学医学部のHP)

あなたなる夜雨の葛のあなたかな

 芝不器男*(明治36年4月18日~昭和5年2月24日)の句です。清新で豊かな抒情にあふれ、時間と空間を鮮やかに捉えた句の数々は。高浜虚子の絶賛を受けました。以下は当句の解説です。
  句の前書きに「二十五日仙台に着く。みちはるかなる伊予の我が家をおもえば」とある。この時不器男は二十三歳。大正十五年の十二月号の「ホトトギス」に始めて掲載されている。その頃の不器男は明治十四年に東京帝国大学農学部を中退し、四月には東北帝国大学工学部に入学。この句が作られた九月は、長い夏休みを終え、故郷の愛媛から帰ってきた時の作である。この句は虚子の観賞によって有名になった。「この句は作者が仙台にはるばる着いて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりであろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思う、あたかも絵巻物の表現をとったのである。 山本健吉著「俳句鑑賞歳時記」(角川ソフィア文庫)

  芝不器男:愛媛県松野町に生まれる。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

平成22年10月26日 藤井 聡
______________________

松野町は私の郷里から車で1時間ぐらいの、2つ隣町。生家が記念館になっており、私はそこへ家族と2、3度ドライブに行って句集など様々な資料を買ってきた。この俳句は凄く有名だと思っていたらそうでもないらしいのであえて紹介した次第。
 虚子の批評全文を探してみたが、部分部分しかない。大事な一文を見つけたので引用する。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:OE7ADPbrDA0J:www.town.matsuno.ehime.jp/learn/hukio/sub2/sub2.htm+&cd=18&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

高浜虚子は『薄明るく浮かんだ夜雨の葛の前後の非常に長い部分は唯真暗で、一面に黒く塗ってあるばかりといったようなものでその黒い部分は故郷を思いやった情緒である』とこの句を絵巻物に例え賞賛しました。
_______________________

とある。詠むほうも詠むほう、評するほうも評するほう、で素晴らしい。
 
探してみると、この句の推敲の跡を調べた方がいた。下書き原稿の推敲の跡を丁寧に読み取って作者の思想や技巧を研究する解釈学的学問があるが、その一例である。これは面白い。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:2vGeYDNNSUgJ:www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku6-3.htm+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」推敲編


芝不器男の代表句に「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」という句がある。
この句は大正15年9月下旬に東北帝大の学生だった不器男が、夏休みに愛媛に帰省、その帰りの中で出来た句だという。
当時は愛媛から仙台まで、連絡線や夜行列車を乗り継いで2日の行程だった。
この句の推敲過程が記されたノートが、色々と面倒を見てもらった医師で俳人でもあった横山白虹の家に残っているという。
最初に記されてあるのが

  陸奥の国と伊予の間の真葛かな

この句は、最終案の句と全然イメージが離れているし、これでは不器男の代表句とは言いがたい。
次に

  陸奥の国と伊予をへだつる真葛かな

「へだつる」に多少、作者の思いが込められたように思われるが、もう一声。
次が

  伊予陸奥をへだつる夜の真葛かな

ここで「夜」を持ってきた。
ここは「日中」よりも「夜」を持ってきたほうが、はるばると郷里から離れた思いが表現されると思ったのだろう。
しかし、まだまだ最終句とは程遠い。
次に

  かなたなる夜雨の葛のあなたかな

いきなり地名がなくなり、雨が降り出した。
なぜ地名を削ったか。やはり「伊予」と「陸奥」とは不器男にとっては事実かもしれないがあくまで個人的なこと。地名を取り去る事によって、誰でもが経験できるような普遍性を得ることが出来た。
そして雨を降らした事で、夜しとしとと降りしきる雨の向こう側の葛を見ながら遠い故郷を思う作者本人の姿がより一層はっきりしてくる。
しかし、まだ満足しない。
次が

  あなたなる夜雨の葛のかなたかな

「あなた」と「かなた」を逆にした。これには横山白虹さんの娘さんで俳人の寺井谷子さんが「『かなたなる』という上五は、書き言葉的なかたさがあるので下五に『かなたかな』とおいてみた」という。
しかし、まだかたい。
そこで

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな

やっと、満足したようである。
さて、句会に提出する句が間に合わず、前日適当に2,3句作り「やっぱ、俳句はなんにも考えないですっとできた句に名句が多い」などとのたまっているあなたと群馬在住の俳人北さん、少しは見習ってみては。

参考  「NHK俳壇・2003年11月号」NHK出版協会
____________________________

最初は普通の写生俳句だったのをだんだん削り取り、結局「普遍的」な作品に変貌する。前衛的なミニマリズムの句の誕生である。
 虚子の名批評と合わせ読むとこの句の素晴らしさがさらに実感できる。
 
映像的イメージと、句の言葉を対照させてみると以下のようになる。


  闇            光               闇         
  ↓            ↓               ↓
 あなたなる       夜雨の葛の            あなたかな
 


夜雨の葛(おそらく無人駅の明かりに照らされて雨も光っている)を真ん中において、あとは真っ暗いだけ。
 意味の上でも、あなたなる(遠くにある)、あなたかな(遠くだなぁ)、と、具象的イメージの沸かない言葉が前後を挟んで、非常に具象的でなおかつ寂しい葛の葉が雨にボンヤリ光っている。

言い換えると、意味するものの配置と意味されるものの心象イメージが相乗効果を出しているため、最後の「あなたかな」の「かな」が凄まじく寂しさの感情をかきたてる。虚子はそこを「故郷を思いやった情緒である」と共感したわけだ。
 推敲前のオリジナル「陸奥の国と伊予の間の真葛かな」と比較すると、説明文と詩の違いが良くわかる。共に5.7.5のリズムに乗って作り手の情緒は同じだが、鑑賞者に与える感動の質が全く異なっている。

芝不器男は26歳の若さで睾丸腫瘍(精巣腫瘍)で逝去した。今なら発見が早ければ簡単に治る病気である。記念館には彼が愛用したピッケルが置いてあり、その他、愛用した小道具など全て高級品だった。そこの年譜には、隣町の庄屋の婿養子になったが釣りばかりして仕事をせず、義父らに嘆かれたと記してあったと記憶する。芝本人も蚕糸関係で財を成した庄屋的な豪商の息子だった筈である。

秋山好古

2013年01月12日 | 愛媛自慢
午後11時過ぎ、今日はまだ夕ご飯も食べてないのでブログを休もうと思ったが、究極の手抜きでwikiから秋山兄弟の兄のほうを抜粋引用し、一言感想を書きます。
___________________

風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。
青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。

酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。例えば、食事の際のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。足袋を履かせない。他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。下駄の鼻緒を直している暇があるなら裸足で行け、など。

欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
_____________________

いやあ、豪快ですね。酒を飲んで糖尿病で心筋梗塞で死亡、私は今年の目標は健康回復ですが、酒飲みなら本望でしょう。
 秋山兄弟の行動を見ていると典型的な天才型で、国難の時にはこういう人物が現れて日本を救うんですね。
 愛媛、特に松山はこういう軍人や俳人などを輩出している面白い土地柄で、以前書いたように賊軍になった側の武士の末裔には素晴らしい人が一杯います。松山は松平藩で、私の故郷は宇和島藩にあたります。宇和島周辺にも面白い人が一杯いますので、今度紹介します。

高橋新吉を紹介します

2012年11月29日 | 愛媛自慢
以下、wikiから引用
________________
高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年(明治34年)1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。
愛媛県伊方町出身。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。
1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
1928年(昭和3年)、郷里で禅僧の話を聞いてから禅に傾倒し、禅-超越-形而上学の詩という特異な世界を作る。
若い頃の性急なダダから、次第に、仏教・禅に興味を向け、独自の詩的境地を開いて「ダダの新吉」と呼ばれた。
新吉の詩の中で知られているものは、『るす』などがある。詩の中で、5億年とは、弥勒菩薩が地上に現れるまでの期間をさす。仏教に心酔した新吉が、ダダの形式にこだわらない方法を使って表現した名詩であろう。
戦後、1951年(昭和26年)には結婚して子供もでき、生活も安定し、「超越の詩人」となる。禅の研究も進め、1971年(昭和46年)に禅に関する詩が英訳され、「禅ポエムの詩人」として欧米でも高い評価を受けた。
_________________________
以下、余りに有名だが「皿」と「るす」を紹介する。皿の部分は上記の通り本来縦書きで、まさに皿が重なっているイメージをそのまま表現している。

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
  倦怠
  額に蚯蚓(ミミズ)這ふ情熱
 白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
 其処にも諧謔が燻すぶつてゐる
  人生を水に溶かせ
  冷めたシチューの鍋に
 退屈が浮く
  皿を割れ
  皿を割れば
倦怠の響が出る。


「るす」

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る


続いて以下のブログから引用する。どうも禅者のブログのようですね。

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-siika2/takahashi2.htm

《死》
 私は死ぬことは絶対に無い
 一度死んだからである
 
 二度も三度も死ぬことは
 頭の悪い証拠だ
    (一九五二年、『高橋新吉詩集』)


 この詩集には、「観念的傾向の異常に強いものが現われはじめる」(平居謙氏、E186)と、いわれるが、新吉の精神状況から見れば、この詩は大変力強いものである。「一度死んだ」とは、悟ったことを言う。悟りの体験は、「自己を忘れる」、つまり、自我の死を体験したのである。禅の悟りを「大死一番、大活現成」という。自我の自分がない(無我)ことを体験し、死ぬことのない仏性と一如の自己(本来の面目)が、真の自分だと悟る。そうなると、新吉の生涯の後半の「雀」は、永遠の仏性、または、永遠の仏性にめざめた自由自在の自分、になるであろう。新吉の後半生の詩集では、そんな「雀」が、ピチピチを飛びはねる。
_____________________

以前書いたように私の郷里も愛媛なので高橋新吉には感慨深いものがある。
 新吉は若い頃統合失調症に罹り、父親が自殺した、と上記のブログには書いてある。こういう苦悩を乗り越えるために座禅の修行をして悟りを開き、86歳の長寿を全うして世界的に評価された。
 私もたまたま鬱病を禅で治したので新吉の生き方に共鳴する部分が多く、禅を学ぶ過程で彼の本も何冊か持っている。

ちなみに江戸時代は「伊予八藩」と言われて愛媛は多くの藩に別れていた。いま検索したら見当たらなかったが、愛媛はその影響で「三予文化」と言われ、大阪文化圏に属する新浜や今治あたりを東予といい、松山周辺を中予といい、新吉の生まれた伊方、八幡浜や宇和島辺りを南予という。私も南予出身である。
 それで面白い例え話がある。高校生の頃に聞いたのでうろ覚えだが「もし宝くじで100万当たったらどうする?」という質問に、東予人は「事業に投資する」、中予人は「貯金する」、南予人は「もう100万足して仲間を集め一晩で飲む」、というものだ。

だから、南予人は縄文人の気風を残し、酒、狩猟、釣りなどを好む傾向が非常に強く、私も酒と釣りは徹底的にやった。一方、詩人、俳人、法学者の有名どころも多数排出してる。穂積陳重や大津事件で司法を政治から独立させ「司法の神様」と言われた児島惟謙も共に宇和島出身である。
 穂積は「死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川に掛かる橋の名前としてその名が残っている」という感動的な実話があり、私の母は若い頃この穂積橋の近くに住んでいた。

私の直感に過ぎないが、例えば福岡や大阪の人間は「花の都大東京」に対する憧れや対抗心を持つ対他的存在である一方、愛媛人は東京に対して特別な感覚が無く、一気に世界的なことをやってのける傾向があるようだ。この辺りは高知とよく似ているが、話が長くなるので後日に回す。
 高橋新吉の紹介が愛媛や南予の紹介になったが、風土が人を作る、というのは事実だと再認識した。高橋新吉には誰かがまた影響を与えているはずだが、切が無いのでこの辺で失礼します。