「年々正月らしさが薄れていく」と、私たちくらいの昭和の時代をまだまだ知っている年齢のものはそう思いがちですが、その正月らしさってなんだろうと、若い世代の人たちは思うことでしょう。
具体的に例をあげれば、あれもこれもとあげられるんですが、たったひとつだけあげるとすれば、それは、元旦にはお店が閉まっていたということです。厳密にいえば、開いていたところもあったかもしれません。そして、もちろん元旦から働いていた人たちはいました。しかし、おおかたは休んでいた。
お年玉をもらっても、すぐにそれを使うことの出来るお店はおいそれとはなかったんです。年末にいっぱい買いだめて、3ヶ日はお節とお餅で過ごす(これも冷蔵庫の普及でかなり違ってきたんですが)。
お店は開いていたほうが都合がよくて便利じゃないか、というご意見はおありでしょう。が、待つことの喜びは決定的に奪われました。
また、そのお正月に休むということの中味の深さも、むかしは大きかったようにも思えてきます。まあこれは思い過ごしかもしれませんが、あらゆるものに深みがなく薄っぺらいという感覚は、社会全体の持つ時間そのものの比重にあるのではないでしょうか?
暇なものですから、朝っぱらからこんなことを思って過ごしています。箱根駅伝もいよいよ大詰めに差し掛かってきました。
具体的に例をあげれば、あれもこれもとあげられるんですが、たったひとつだけあげるとすれば、それは、元旦にはお店が閉まっていたということです。厳密にいえば、開いていたところもあったかもしれません。そして、もちろん元旦から働いていた人たちはいました。しかし、おおかたは休んでいた。
お年玉をもらっても、すぐにそれを使うことの出来るお店はおいそれとはなかったんです。年末にいっぱい買いだめて、3ヶ日はお節とお餅で過ごす(これも冷蔵庫の普及でかなり違ってきたんですが)。
お店は開いていたほうが都合がよくて便利じゃないか、というご意見はおありでしょう。が、待つことの喜びは決定的に奪われました。
また、そのお正月に休むということの中味の深さも、むかしは大きかったようにも思えてきます。まあこれは思い過ごしかもしれませんが、あらゆるものに深みがなく薄っぺらいという感覚は、社会全体の持つ時間そのものの比重にあるのではないでしょうか?
暇なものですから、朝っぱらからこんなことを思って過ごしています。箱根駅伝もいよいよ大詰めに差し掛かってきました。