瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

『人類は「宗教」に勝てるか』(2)

2009年07月25日 | 読書日誌
◆『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)

一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。

いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。

この著者の素晴らしいところは、抽象的になりがちなテーマを、つねに具体的な事例を挙げながら進めることだ。またどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。

失敗、そしてサティ

2009年07月25日 | 瞑想日記
先週、ちょっとした失敗をした。職場で、個人的な事務手続きの書類の提出に不備があり、担当の方に迷惑をかけた。かなりきつい言葉も投げかけられたが、すべて自分の不手際だったので、甘んじて受け入れるほかなかった。

心理的には辛い一週間だった。救いだったのは、辛い気持が浮き上がるたびに必ずサティが入ったということだ。どうでもいい雑念はサティが入りにくいけど、ひとつの問題をめぐる強い感情だから、気づきが入りやすかったのかもしれない。意識しなくとも、ほとんど自動的にサティが入っていた。サティをし、その問題をめぐってくよくよ考えず、ミスはミスで受け入れながら、その後の行動に精一杯取り組めたと思う。

もうひとつ分かったことがある。エックハルト・トールがどこかですすめていた、自我が傷ついたりして惨めになったとき、すぐにそれを修復しようとせず、惨めに小さくなったまま留まったみよ、と。読んだときは、これがあまりぴんとこなかったのだが、今回、その意味がよく分かった。要するに、すぐに「補償」をするなということなのだ。自我が傷つけば、その状態は辛いから、何とか「補償」して、自我の拡大を図ろうとる。たとえば、自分が活躍し、社会的に評価されるような部分のことをあれこれ考えて、惨めな自分を忘れようとする。

今回、私もそれを盛んにやろうとしているのに気づいた。そういう心の動きが出たらすぐにサティし、自我に慰めを与えず、惨めなままに、自我が縮小したままに留まろうとした。「補償」を行おうとする心の動きがはっきりと見えて、この点は興味深かった。

いずれにせよ、このようなミスをしてしまったことにも、自分の心の問題が隠されていそうだし、その探求ということも含めて、今回のことは大きな意味のある経験であった。また、ここには具体的には書けないが、家族の問題で少し明るい兆しが見えてきた一週間でもあった。