先週、ちょっとした失敗をした。職場で、個人的な事務手続きの書類の提出に不備があり、担当の方に迷惑をかけた。かなりきつい言葉も投げかけられたが、すべて自分の不手際だったので、甘んじて受け入れるほかなかった。
心理的には辛い一週間だった。救いだったのは、辛い気持が浮き上がるたびに必ずサティが入ったということだ。どうでもいい雑念はサティが入りにくいけど、ひとつの問題をめぐる強い感情だから、気づきが入りやすかったのかもしれない。意識しなくとも、ほとんど自動的にサティが入っていた。サティをし、その問題をめぐってくよくよ考えず、ミスはミスで受け入れながら、その後の行動に精一杯取り組めたと思う。
もうひとつ分かったことがある。エックハルト・トールがどこかですすめていた、自我が傷ついたりして惨めになったとき、すぐにそれを修復しようとせず、惨めに小さくなったまま留まったみよ、と。読んだときは、これがあまりぴんとこなかったのだが、今回、その意味がよく分かった。要するに、すぐに「補償」をするなということなのだ。自我が傷つけば、その状態は辛いから、何とか「補償」して、自我の拡大を図ろうとる。たとえば、自分が活躍し、社会的に評価されるような部分のことをあれこれ考えて、惨めな自分を忘れようとする。
今回、私もそれを盛んにやろうとしているのに気づいた。そういう心の動きが出たらすぐにサティし、自我に慰めを与えず、惨めなままに、自我が縮小したままに留まろうとした。「補償」を行おうとする心の動きがはっきりと見えて、この点は興味深かった。
いずれにせよ、このようなミスをしてしまったことにも、自分の心の問題が隠されていそうだし、その探求ということも含めて、今回のことは大きな意味のある経験であった。また、ここには具体的には書けないが、家族の問題で少し明るい兆しが見えてきた一週間でもあった。
心理的には辛い一週間だった。救いだったのは、辛い気持が浮き上がるたびに必ずサティが入ったということだ。どうでもいい雑念はサティが入りにくいけど、ひとつの問題をめぐる強い感情だから、気づきが入りやすかったのかもしれない。意識しなくとも、ほとんど自動的にサティが入っていた。サティをし、その問題をめぐってくよくよ考えず、ミスはミスで受け入れながら、その後の行動に精一杯取り組めたと思う。
もうひとつ分かったことがある。エックハルト・トールがどこかですすめていた、自我が傷ついたりして惨めになったとき、すぐにそれを修復しようとせず、惨めに小さくなったまま留まったみよ、と。読んだときは、これがあまりぴんとこなかったのだが、今回、その意味がよく分かった。要するに、すぐに「補償」をするなということなのだ。自我が傷つけば、その状態は辛いから、何とか「補償」して、自我の拡大を図ろうとる。たとえば、自分が活躍し、社会的に評価されるような部分のことをあれこれ考えて、惨めな自分を忘れようとする。
今回、私もそれを盛んにやろうとしているのに気づいた。そういう心の動きが出たらすぐにサティし、自我に慰めを与えず、惨めなままに、自我が縮小したままに留まろうとした。「補償」を行おうとする心の動きがはっきりと見えて、この点は興味深かった。
いずれにせよ、このようなミスをしてしまったことにも、自分の心の問題が隠されていそうだし、その探求ということも含めて、今回のことは大きな意味のある経験であった。また、ここには具体的には書けないが、家族の問題で少し明るい兆しが見えてきた一週間でもあった。