瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

失敗、そしてサティ

2009年07月25日 | 瞑想日記
先週、ちょっとした失敗をした。職場で、個人的な事務手続きの書類の提出に不備があり、担当の方に迷惑をかけた。かなりきつい言葉も投げかけられたが、すべて自分の不手際だったので、甘んじて受け入れるほかなかった。

心理的には辛い一週間だった。救いだったのは、辛い気持が浮き上がるたびに必ずサティが入ったということだ。どうでもいい雑念はサティが入りにくいけど、ひとつの問題をめぐる強い感情だから、気づきが入りやすかったのかもしれない。意識しなくとも、ほとんど自動的にサティが入っていた。サティをし、その問題をめぐってくよくよ考えず、ミスはミスで受け入れながら、その後の行動に精一杯取り組めたと思う。

もうひとつ分かったことがある。エックハルト・トールがどこかですすめていた、自我が傷ついたりして惨めになったとき、すぐにそれを修復しようとせず、惨めに小さくなったまま留まったみよ、と。読んだときは、これがあまりぴんとこなかったのだが、今回、その意味がよく分かった。要するに、すぐに「補償」をするなということなのだ。自我が傷つけば、その状態は辛いから、何とか「補償」して、自我の拡大を図ろうとる。たとえば、自分が活躍し、社会的に評価されるような部分のことをあれこれ考えて、惨めな自分を忘れようとする。

今回、私もそれを盛んにやろうとしているのに気づいた。そういう心の動きが出たらすぐにサティし、自我に慰めを与えず、惨めなままに、自我が縮小したままに留まろうとした。「補償」を行おうとする心の動きがはっきりと見えて、この点は興味深かった。

いずれにせよ、このようなミスをしてしまったことにも、自分の心の問題が隠されていそうだし、その探求ということも含めて、今回のことは大きな意味のある経験であった。また、ここには具体的には書けないが、家族の問題で少し明るい兆しが見えてきた一週間でもあった。

『人類は「宗教」に勝てるか』(1)

2009年07月05日 | 読書日誌
◆『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)

興味深く、強く共感できる本であった。この著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後その著作のほとんどを読むことになるだろう。タイトルはかなり刺激的だが、その主張は、私自身も自分のサイトで主張してきたことと基本的には変らない。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。

「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。

世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。

この本の前半では、宗教の名の下に、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。

たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。 (続く)

車椅子を押して幕張へ

2009年07月05日 | 普通の日記
親戚の法事があって、自宅近くの京成電鉄のY駅から、父の車椅子を押して、京成津田沼まで移動した。日常、日曜ごとにクリスチャンの父を教会につれていくのに電車を利用することはあるが、比較的長い距離では久しぶりであった。その対応ぶりがどの駅でも実にていねいであった。

Y駅でも、途中の乗り換え駅でも、津田沼駅でも駅員の対応はていねいかつ親切でとても気持がよかった。車椅子で電車に乗るときの折りたたみ用スロープを準備してくれ、乗車に合わせて電車の入り口にかけてくれる。乗り換え駅や降車駅に電話連絡をしてくれ、そこでも駅員がスロープを持って待っていてくれる。

津田沼駅の50歳前後と見られる駅員は、エレベーターへの誘導、引率はもちろん、駅前のタクシー乗り場が確認できるロータリーまで案内してくれた。おまけに乗車したタクシーの運転手もていねいで、本当に気持よかった。

習志野市海浜霊園での法事が終わり、幕張メッセ・アバホテルの46階で会食。展望が素晴らしい。その後、京成幕張駅から津田沼駅に行き乗り換えたが、このとき応対してくれたのも行きにお世話になった駅員だった。朝と同じようにエレベーターに誘導のうえ、7分ほどの待ち時間も私たちのためにスロープを持って待ってくれた。「二度もありがとうございます」と心からお礼をいって電車に乗った。

次の乗換駅の青砥駅で対応してくれた駅員に聞くと、青砥駅のような乗り換え駅だと休日で10人を超える車椅子の乗客があるという。手が回らず対応できないこともあるとのことだが、忙しい中の対応に感謝した。最近は、京成電鉄でもほとんどの駅でエレベーターが設置されたようだ。車椅子での移動も本当に便利になった。
実際に車椅子を押して移動してみないとこのような変化は実感できないだろう。

津田沼駅から乗ったのは特急だったので成田空港からの大きなトランクを持った客がたくさんいた。あるサイトで読んだ記事を思い出した。中国からの観光客が、車椅子の乗客に駅員がスロープを準備するのを見て、「中国ではこんな対応をしてもらえるのは特権階級だけだ」とびっくりしていたという。