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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

呼吸法、再び

2006年07月26日 | 瞑想日記
私が変わる必要があるのは、私自身のためだけではない。私が変わることで変わってほしいと思う身近な人間がいる。そう思うと瞑想にも生活の中でのサティにも真剣さが増す。それほどに問題は切羽詰ってきている。私自身が変わるために全力を尽くす。

昨日紹介した高岡英夫の『「ゆる呼吸法」革命』(主婦と生活社)で、いちばん基礎になるのは、「すーふうーん呼吸法」(納得呼吸法)だ。まず思い切りダラーとリラックスして頬杖をつく。その状態のまま、鼻から息を吸う。深く納得した感じで「ふうーん」と息をはく。ただし「ふうーん」は口を閉じて声を出す。これを3回繰り返すだけのものだが、前後の説明を読むと、どうしてこういう形をとり、こうして呼吸をするのか、なるほどと思わせる説明がある。

必要があっていま「呼吸法」に関する本を読んでいるが、今日は原久子の『呼吸セラピー』(青春出版社、2001年)を読んだ。なるほどこれも続けていれば、大きな効果があるだろうなと思わせる。

続けていくつかの本を読んで見るつもりだ。

呼吸の変化

2006年07月24日 | 瞑想日記
最近私は、自分自身の魂の成長という問題が、他者とのかかわりにおいて切実に問われているような気がする。職場でのかかわり、教育相談、身内の問題。自分自身のあり方が深いレベルで問われている。自分自身が、深いレベルで変わることなくして、問題は解決しないのかも知れない。

生きて死ぬという現前たる事実。だからこそ、理屈でなく一刻一刻生きていく上で大切なことがある。

ところで、たまたま自分のサイトを見ていたら、こんな言葉が見つかった。

「呼吸を出会いの場として心と身体が結合するという、この全体的なプロセスについて学んでいくとわかるのは、気づきが非常に大きな影響をもたらしているということです。影響といっても、呼吸をコントロールするとか、変えるといった問題ではありません。そうしなくても注意をはらえば呼吸の質が変わるのです。それはおそらく思考が少なくなっているためでしょう。息はより深く、微細に、きめ細かく、より楽しめるものになってきますし、身体はその効果を受てさらにリラックスしてきます。」(ラリー・ローゼンバーク『呼吸による癒し』)

ヴィパッサナー瞑想も呼吸をコントロールしないが、起っていることはまさにここに書いてある通りだと実感する。瞑想中、確かに呼吸の質が変わり、よりきめ細かく、喜ばしいものになっている。もちろん心身は深くリラックスする。

今日は、久しぶりに高岡英夫の本を読んだ。『「ゆる呼吸法」革命』(主婦と生活社)だ。かなり独特の呼吸法だた、これまでの著者の実践と研究、指導の実績などからすすれば、それこそ気楽に楽しく実践してみる価値はありそうだ。「ゆる体操」と同じく、実践はとてもかんたん。続けることが大切なのだろう。こういう本を読んでいるととても勇気付けられる。

最善のかかわり方

2006年07月23日 | 瞑想日記
◆私は誰か?
ラマナ・マハルシの『あるがままに・ラマナ・マハルシの教え』で、昨日引用した次の文はこうである。

「他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、『その想念が誰にとって現れたのか?』と尋ねるべきである。いかに多くの想念が現れようがかまいはしない。想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、『これは誰にとって現れたのか?」と問えば、それは『私にとって』であることがわかるだろう。そのとき、『私とは誰か?』と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、現れでた想念も静かになるだろう。このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術(すべ)を見いだすだろう。」

「私は誰か?』という探究法は、具体的にはこのようなものだったのか。記憶にないが、もしかしたらこれと同じような言葉を何度か読んでいるかもしれない。少なくとも、なるほどこういうことだったのかと納得できたのは始めてである。

想念が浮かび、それが私に浮かんだ私の想念であることを確認する。そして、その私が、無根拠で実体のない幻想であることを確認する。その繰り返しである。私の方法の中心は、ヴィパッサナー瞑想であるが、「私は誰か?」の探究も、心のどこかにしっかりしまっておこう。

◆最善のかかわり方
身内の問題で心を悩ますことが多い。どうすればよいのか、八方ふさがりの状態である。結局、自分にできるのは、「限りあるいのち」を生きる自分にとって最も大切なことをしっかりと実行していくことでしかないのだろう。自分が接する多くの人びとに対し、最善のかかわり方を模索していくこと。
エゴの視点からではなく、エゴを超えた視点から。

と同時に、仕事の面でも瞑想の面でも、自分にできる最善のことを確実に行っていくこと。家族の問題で心を悩ますからといって、前向きな気持ちを失ってはならない。

私は誰か?

2006年07月22日 | 瞑想日記
ラマナ・マハルシの『あるがままに・ラマナ・マハルシの教え』という本が自分の机のに置いてあった。以前に買った本だが、まだ読んでいなかった。何気なくページをめくった。次の言葉が眼に飛び込んできた。

「心はただ、『私は誰か?』という探究によってのみ沈黙する。『私は誰か?』という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えている薪の山をかき混ぜる棒のように、『私は誰か』という想念自体も滅ぼされてしまうだろう。」(p104)

良く知られたラマナ・マハルシの探究法だ。以前から何度も触れているこの方法が、この時、少しは分かるような気がした。以前は、何度読んでもあまりピンとこなかったのに。「私は誰か?」と問われるその「私」を支える根拠など何もないという感じが、その時、心をよぎったのである。「私は誰か?」と問い、その無根拠さを確認すればよいのである。

先日、雨が降る中、叔父の葬儀に出た。葬儀の間、ときどき、「限りあるいのちが限りあるいのちとして生きることの意味」を思った。答えはこれしかなかった。最近、何度も確認していることである。限りあるいのちであるからこそ、答えはこれしかないということが、ますますはっきり分かった。これは理屈ではなかった。あとはそのように生きるのみだ。

呼吸法

2006年07月17日 | 瞑想日記
2006/07/09 (日) 「最近の読書」の項で、齋藤孝の「呼吸法は身体の文法である。‥‥本当はヨガの呼吸法などは、算数の九九のように、学校で子どもたち全員に教えてしかるべきなのだ。」という言葉を取り上げた。調身、調息から調心という三要素の関係のなかで、一般の人でも一番抵抗感なく入りやすいのが調息つまり呼吸法だろう。

ヨーガや気功は身体の特別のポーズや運動を伴うが、呼吸法は、かんたんなものなら目立つような動きはほとんどいらない。しかも呼吸の大切さということは、特にこうした方面に関心を持たない人にも何となくその大切さが分かる程度には、日本の文化の一つの底流になっている。

だからヨーガや気功をやるとなると、それなりの意識をもって高い敷居を飛び越えなければならないだろうが、呼吸法にはそういう抵抗感がほとんどないのだ。それでいながら東洋の行法のかなめになるほどの重要な要素であり、奥がきわめて深い。

教育現場で広く「算数の九九のように」伝えていくには、呼吸法から入るのが一番だろう。実はすでに教育相談委員会の夏休みの特別プログラムとして「リラックス法や呼吸法の講座」というのを行う予定だ。あまり宣伝や働きかけはしないので、人は集まらないだろうが。

ところでマハーシ式のヴィパッサナー瞑想では、呼吸はどのように位置づけられているだろうか。呼吸が方法として特別視されることはないようだ。仏教の座禅では、数息観が教えられたり、吐く息を長く出し切るぐらいまで吐くように、そして自然に息が入ってような感じで吸いなさいなどと指示されたりするが、ヴィパッサナー瞑想ではそういう指示は一切なく、自然呼吸に任せられる。しかも意識を向ける中心対象は、呼吸ではなく腹の動きである。

それでもヴィパッサナー瞑想を実践する実感からすると、瞑想に入って腹に意識を向けると、自然に呼吸が整い、静まっていくようだ。自然呼吸に任せられるが、自然に調息が行われていくようだ。そして、それが心を静めることにつながっている。もう一つ感じるのは、自然にまかせられる呼吸にも、大きな流れのなかではリズムがあるようだということ。ほとんど腹の動きが感じられないほどに呼吸が弱くなっていったり、再び徐々に大きくなったりという、大きなリズムがありそうな気がするのだ。