数日前にサイト『臨死体験・気功・瞑想』の読者の方からメールをいただいた。
先日の朝日新聞に「千の風になって」を作曲した新井満氏のことが載っており、その記事から、新井氏も大学生の頃、おそらく「至高体験」のような経験をしているのではないか、と教えてくださる内容であった。
さっそくインターネットで調べると、新井氏の「至高体験」に至るまでが、いくつかのニュースやブログに掲載されていた。それらから要約してここにまとめてみたい。
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新井満氏は、「中学生時代の私は丸々と太っており、90キロはあり、相撲部の部員だったた。相撲は強く、横綱だった。仲間からは『豚満』とあだ名されていた」という。しかし、「豚満といわれたボクは、針金のような細く、情けない身体になってしまった。それは大学一年のとき、学生寮で猛烈な腹痛に襲われ、開腹手術を受けたからです。」「もう30分間、遅かったならば、死んでいた」と医師からいわれたという。
十二指腸の全摘だった。術後には腸閉塞を起こした。「その痛みをあえて表現すれば、華道で使う剣山(けんざん)を口のなかから押し込まれ、腸でかき回すような激痛でした。それは地獄の苦しみでした」と語る。
手術後、一年間休学した新井氏はふるさと新潟に帰った。「顔はやせ細り、幽霊のようで、友人はだれも新井満だと気づかなかった」。体格の良かった自分が突然、なぜこんな身になったのか。「病気が発症する1年前、高校3年生のときに新潟地震に遭った。あの恐怖に原因があるとわかったのです」 そのトラウマが猛烈な腹痛となって発症したのだ。
1964年6月16日の午後1時2分。マグニチュード7.7の新潟地震が発生した。高3の新井氏は鉄筋4階建て校舎の、4階の教室にいたのだ。教室の床が大きく揺れた瞬間、彼は机や椅子とともに吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。立ち上がり、窓からグランドを見ると、オホーツクの流氷が割れるように、稲妻状に地割れが走っていた。無数の蛇のようでもあった。割れ目からは真っ黒な泥水が噴出す。体操時間で、グランドにいた生徒は悲鳴を上げながら逃げ惑う。体操着が真っ黒だ。
「一日で、一生分の恐怖を味わった。」恐怖の体験が心に深い傷を作り、内面で増殖し、1年後に発症したのだという。それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるもの。恐怖が深いトラウマとなったのだ。不安と不眠、日に何度も浮上する悪夢の記憶など、新井氏は心のなかに一生消えない重傷を負ってしまった。
ともに地震を体験した友人たちも、心に癒されない傷を負った。ある男子は4年後に首を吊って自殺した。ある女子は薬を飲んだ、服毒自殺だった。もう一人は殺人を犯し、刑務所に入り、出所後に自殺した。
彼はたぶんにもれず、生きることよりも、死ぬことばかりを考えていた。ビルの屋上から飛び降り自殺を試みたけれど、体力がなくてフェンスを登れなかった。
そんな新井氏が、立ち直るきっかけとなったのは、レンギョウの花だった。ある日土手を散歩していて、ふと足が止まった。土手いっぱいに黄色いレンギョウの花が咲き乱れているのが目に入った。「なんという美しさだろう…」
そして、けなげに咲いている小さないのちの形をみているうちに、涙が溢れてきた。その光景のあまりの美しさに、みるみる生きるエネルギーが湧いてきて、道行く人にその美しさを伝えたくなって、みんなに声をかけてまわったという。「生ける屍状態にあった19歳の私が、再生への第一歩を踏み出したのはあの瞬間だったと思う。『生きよう。もっともっと生きよう。死んだ人の分まで、生きてやろう……!』
そして、美しさを伝えるのが自分の使命だと思って、電通に入社したのだという。
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以上は、
『恐怖の体験。18歳から自殺は何度も考えた=新井満さん - livedoor ニュース』
『まさかり半島日記・新井満さんと「千の花」』
いただいたメールの文章などを参考にし、再構成しました。
先日の朝日新聞に「千の風になって」を作曲した新井満氏のことが載っており、その記事から、新井氏も大学生の頃、おそらく「至高体験」のような経験をしているのではないか、と教えてくださる内容であった。
さっそくインターネットで調べると、新井氏の「至高体験」に至るまでが、いくつかのニュースやブログに掲載されていた。それらから要約してここにまとめてみたい。
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新井満氏は、「中学生時代の私は丸々と太っており、90キロはあり、相撲部の部員だったた。相撲は強く、横綱だった。仲間からは『豚満』とあだ名されていた」という。しかし、「豚満といわれたボクは、針金のような細く、情けない身体になってしまった。それは大学一年のとき、学生寮で猛烈な腹痛に襲われ、開腹手術を受けたからです。」「もう30分間、遅かったならば、死んでいた」と医師からいわれたという。
十二指腸の全摘だった。術後には腸閉塞を起こした。「その痛みをあえて表現すれば、華道で使う剣山(けんざん)を口のなかから押し込まれ、腸でかき回すような激痛でした。それは地獄の苦しみでした」と語る。
手術後、一年間休学した新井氏はふるさと新潟に帰った。「顔はやせ細り、幽霊のようで、友人はだれも新井満だと気づかなかった」。体格の良かった自分が突然、なぜこんな身になったのか。「病気が発症する1年前、高校3年生のときに新潟地震に遭った。あの恐怖に原因があるとわかったのです」 そのトラウマが猛烈な腹痛となって発症したのだ。
1964年6月16日の午後1時2分。マグニチュード7.7の新潟地震が発生した。高3の新井氏は鉄筋4階建て校舎の、4階の教室にいたのだ。教室の床が大きく揺れた瞬間、彼は机や椅子とともに吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。立ち上がり、窓からグランドを見ると、オホーツクの流氷が割れるように、稲妻状に地割れが走っていた。無数の蛇のようでもあった。割れ目からは真っ黒な泥水が噴出す。体操時間で、グランドにいた生徒は悲鳴を上げながら逃げ惑う。体操着が真っ黒だ。
「一日で、一生分の恐怖を味わった。」恐怖の体験が心に深い傷を作り、内面で増殖し、1年後に発症したのだという。それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるもの。恐怖が深いトラウマとなったのだ。不安と不眠、日に何度も浮上する悪夢の記憶など、新井氏は心のなかに一生消えない重傷を負ってしまった。
ともに地震を体験した友人たちも、心に癒されない傷を負った。ある男子は4年後に首を吊って自殺した。ある女子は薬を飲んだ、服毒自殺だった。もう一人は殺人を犯し、刑務所に入り、出所後に自殺した。
彼はたぶんにもれず、生きることよりも、死ぬことばかりを考えていた。ビルの屋上から飛び降り自殺を試みたけれど、体力がなくてフェンスを登れなかった。
そんな新井氏が、立ち直るきっかけとなったのは、レンギョウの花だった。ある日土手を散歩していて、ふと足が止まった。土手いっぱいに黄色いレンギョウの花が咲き乱れているのが目に入った。「なんという美しさだろう…」
そして、けなげに咲いている小さないのちの形をみているうちに、涙が溢れてきた。その光景のあまりの美しさに、みるみる生きるエネルギーが湧いてきて、道行く人にその美しさを伝えたくなって、みんなに声をかけてまわったという。「生ける屍状態にあった19歳の私が、再生への第一歩を踏み出したのはあの瞬間だったと思う。『生きよう。もっともっと生きよう。死んだ人の分まで、生きてやろう……!』
そして、美しさを伝えるのが自分の使命だと思って、電通に入社したのだという。
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以上は、
『恐怖の体験。18歳から自殺は何度も考えた=新井満さん - livedoor ニュース』
『まさかり半島日記・新井満さんと「千の花」』
いただいたメールの文章などを参考にし、再構成しました。