瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート10

2005年09月17日 | 瞑想合宿レポート
◆メガネの錯覚
今回の合宿で私は、深い瞑想体験への期待が渇愛になるのを避けようとするあまり、修行に向けてのテンションが全体として低下していたかもしれない。それは、自分自身の取り組みからどことなく感じられたのだが、例のメガネの錯覚の出方からも感じられた。

3日目、「今回はメガネは出ないな」と思っていたら、夕方の座禅でクリアなサティが続いたときにメガネが強く感じられた。しかし、これまでと違うのは、メガネが持続的な錯覚にならなかったことだ。瞑想が深まると現れて、時にわずらわしいほどに感じられたが、全く表れないことも多かった。結局、今回の合宿でメガネが気づきに向けての重要な役割をなすことはなかった。もしメガネが自我の抵抗を象徴しているのだとすれば、今回の合宿は、自我にとって脅威になるほど、テンションが高まらなかったということか。

地橋先生も言うようにヴィパッサナー瞑想の難しさがここにある。やる気を出してがんばろうとすると渇愛になる。しかし、渇愛を弱めようとするとモチベーション全体が下がり、緊張感のない10日間を過ごしてしまう。この点、サマタ瞑想は単純で、ひたすら頑張って集中するだけですむ。ヴィパッサナー瞑想にはこうした微妙な難しさがあるが、逆にそれが自己洞察への重要なきっかけになるのかもしれない。

7日目に妻や家族と考え方が離れていく危機感を感じた。しかし、その段階で私は、これが今回の合宿の大切なテーマにつながっているとは思っていなかった。瞑想を続けていれば前回と同じように様々なイメージが展開し、さらに深い自己洞察に導いてくれると期待していた。しかし、8日になっても気づきにつながるようなイメージの展開はなかった。「今回は何の成果もなく終わるのか」と私は少しあせりを感じ始めた。あせりは、不善心所につながり、瞑想に何かしら影響を与えていたはずだ。

8日目、昼食の直前の時間帯、あるはずのないメガネを感じながら座禅していた。その時また、家族と乖離していく淋しさを感じた。捨てて行く自分を感じた。断食をして贅肉を落としていくように、これから私は一歩一歩、世俗的価値を捨てる方向に進んでいく。それは家族との平凡な幸せを捨てて行く方向につながる。そんな予感から来る淋しさだったのだろうか。