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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

覚醒・至高体験をめぐって21:  (4)自己超越①

2010年08月08日 | 覚醒・至高体験をめぐって
4 自己超越

精神分析派の思想家であるフロム(Erich Fromm,1900~1980)は、「精神分析学と禅仏教」という論文のなかで次のようにいう。私たちは、日常的な現実を自分達の必要に応じて取捨選択して見ており、しかも多かれ少なかれ私たち自身によって歪められた現実を見ているのだ。したがって、私たちが現実であると信ずることのほとんどは、私たちの心が作り出した虚構の産物なのだ、と。私たち普通人の意識は、主として虚構や幻想から成り立っているとも言えるであろう。(鈴木大拙、E・フロム、R・デマルティーノ『禅と精神分析 (現代社会科学叢書)』東京創元社)

もちろん日常的な認識のこうした捉え方は、マスローのいうD認識のあり方に対応する。マスローにとっても、ごく普通の日常的な認識(D認識)は、多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、抽象化し、概念化して見る(概括)という性格をもっている。観察者は、自分が見ようとするものを選び、さらにそれを欲求や恐れや利害関心によって歪め、こうして私たちが経験する世界は、一種の構成と選択によって組みたてられ、再配列されているのだ。

一方、現代の心理学者たちのこうした主張に対応する見方は、東洋の伝統的な思想のなかにも見られる。たとえば、大乗仏教の「空」の哲学者ナーガールジュナはいう、生滅し、たえず変化するこの世界は「あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものである」(『中論』)と。ナーガールジュナは、言語を通してなされるわれわれの日常的な認識のありかたは倒錯であり、夢幻であると主張しているのだ。

覚醒・至高体験をめぐって20:  (3)至高体験とB認識④

2010年08月06日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《渡邊満喜子》

つぎに挙げるのは渡邊満喜子氏(わたなべみきこ、一九四四~)の体験である。彼女は、メキシコに滞在中に、自然に感応する生来の敏感な身体感覚によって、この国の大地がもつ深く大きな自然の力と共鳴するというエネルギー体験をする。帰国後、不整脈などの症状に悩み、「野口整体」の健康法のプロセスで、「活元」による自然発声からヴァイブレーションを基にする歌が生まれた。さらにその後のメキシコ旅行の途中で自然のエネルギーに導かれ、「自らを癒す歌」から「他者を癒す歌」が生まれた。そして、生命の根源から生まれる声と歌による「ヴォイスヒーリング」で多くの人を癒しているという。

以下に引用するのは、最初のメキシコ滞在中にあった体験である。

『この町(グァダラハラ)に友人や家族と旅行した。この町には有名な革命期の画家オロスコの壁画がある。かつては孤児院であったその建物は、内部に24の小さなパティオがある独特の構造をもっていた。

私はオロスコの絵を見てしまうと、ぼんやり窓の外をながめた。絵のある部屋は窓の外にあふれる午後のひかりにくらべると、薄い闇におおわれているような気がした。私は窓に近づいて、ひかりにくっきり浮かびあがったパティオをながめた。小さな庭の真ん中にがっしりした樹があった。見つめていると、樹の輪郭がわずかにずれているのがわかった。 樹はゆらゆらと視界のなかで揺れた。

「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と何かが私にささやいた。

じっと見つめていれば、それが何であるかわかると思った。深い戦慄が背中をはいあがってきた。もう少し、もう少し……と張りつめたものがはじけそうになる寸前、何かがもう一度私にささやいた。

「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」

私はとっさに方向転換した乗り物のように、日常の水面に浮かびあがった。みぞおちに恐怖感のさざ波が打ちよせていた。部屋の薄い闇の奥から、娘が小走りに駆けよってきた。 暖かいその体を抱きよせると、微かに汗のにおいがした。それはいとおしい「こちら側」の手触りだった。』(『聖なる癒しの歌―ヴォイスヒーリングへの道 (現代のさとり体験シリーズ)』金花舎、一九九六年)

ここで「この樹は樹であって、しかも樹ではない」と語られる言葉が、八木誠一の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」と響きあうのは、いうまでもない。渡邊氏の体験で興味深いのは、さらに「あの樹が樹でないことがわかれば、私もまた私ではないことがわかるだろう」と語られていることだ。つまり、樹が樹でないことと、私が私でないこととが、同じこととして語られている。しかも、「私もまた私ではない」世界へ行ってしまうことの恐怖とともに。

「私もまた私ではない」は、至高体験における「1、‥‥自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握し、認識の対象を完全な一体として見る」や、「4、‥‥認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる」などの特徴との深いかかわりが感じられる。

至高体験においては、たとえ一時的であろうと「自己」は消える。「自己」というフィルターがないからこそ、「自己」の利害や「自己」によるラベル貼りを超えた生き生きとした現実が姿を現す。しかし、「自己」の消滅は、「自己」にとっては恐怖である。渡邊氏は、おそらくその恐怖に直面したのであろう。

覚醒・至高体験をめぐって18:  (3)至高体験とB認識②

2010年08月04日 | 覚醒・至高体験をめぐって
これに対してD認識では、「自己」のその時々の都合と必要に合わせて言葉というラベルが貼られ、そのラベルを通してしか見られない。われわれはおそらく、この世のすべてに自分の整理の都合に合わせて言葉というラベルを貼りつづけているのだ。ラベルを貼ることで、全体(ワンネス)を分割し、分類してしまい、分割・分類することでそれを把握できたと勘違いしているであろう。  

しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いのだ。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の一例として」整理箱に入れられただけなのである。  

たとえば普通われわれは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえばそれで終わりでそれ以上に対象認識は進まない。このようなラベル貼りによる認知をマスロー は「概括」と呼んだ。もしかしたら桜を美しいと感じるのも、「桜は美しいもの」 という「概括」的な認知のレベルを超えていないのかも知れない。私たちのなかに染み付いた固定化された美意識は、「美しい桜」というラベルを貼ることで、世間一般と美意識を共有し、安心するための道具にすぎないともいえよう。  

しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるのだ。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然な生々とした世界のうちに生きる。いま・ここで出逢うひとつひとつの対象が、 そのつど宇宙のすべてであり、宇宙のいのちの一体のものとして感じられるのがB認識なのだろう。

5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴がある。これについては、これまでに取り上げた事例からだけでは、その意味するところが分かりにくいかもしれない。そこで、さらにいくつかの事例を見ながら検討していきたい。

覚醒・至高体験をめぐって17:  (3)至高体験とB認識①

2010年08月03日 | 覚醒・至高体験をめぐって
3 至高体験とB認識

さて、いくつかの事例によって、至高体験およびそのB認識のあり方を確認してきた。つぎは、至高体験におけるB認識の特徴に焦点をあてつつ、さらに詳細な検討をしていきたい。すべて至高体験の特徴の中で列挙したものだが、ここでB認識の特徴を抜き出して確認しておこう。

1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。
2)B認識は無我の認識である。
3)B認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。

以上のうち、1)から4)は、これまでの事例によってもある程度イメージがつかめたかと思うが、ここで再度確認していこう。

まず1)ついて。われわれの日常生活で見られるようなD認識の経験では、対象を利害の立場から見るために、自己の目的達成の手段という視点から対象を一面的にとらえてしまう。ところがB認識では、すべての対象は、あらゆる利害を離れてそれ自体が、全体的なものとしてとらえられる。

2)同様に、B認識は無我の認識であるともいえる。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自己忘却的で、無我」という傾向をおびるという。それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるよう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に向かう。1)で見たような特徴を別の観点から表現したのだともいえるだろう。

江戸時代の禅者、至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのは、まさにB認識の核心をすばり表現しているだろうし、逆に同じ至道無難の「我ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を表現している。

3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつようだ。ふつうの認識(D認識)は、非常に能動的なプロセスである。それは観察者がおこなう一種の構成と選択によって成り立っている。観察者が、見ようとするものと見たくないものを選ぶのである。また、自分が見ようとするものを、自己の欲求や恐れや利害関心と結びつけて歪めて見る。日常わたしたちは、つねに対象に働きかけ、それを組みたて、再配列して作り上げた認識をしているのだ。

それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつ。それは経験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせること」である。そうした特徴をクリシュナムルティは、「無選択意識」と呼び、マスローは「無欲意識」と名づけた。  

4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。覚醒者や至高体験時の認識では、一つの全体として、完全な一体(ワンネス)として見られる傾向があるのだ。この世のすべては、「自己」の都合や目的や手段から独立した一体なのである。そこの街角にたたずむ人が、あるいは道ばたの花が、そのつど宇宙のすべてであるかのように見られるのだ。

覚醒・至高体験をめぐって16:  (2)至高体験の特徴⑧

2010年08月01日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《N・K氏》

つぎに挙げるのは、ある女性がTグループに参加した時の体験を綴ったものである。Tグループとは、アメリカ開発された人間関係訓練のためのグループ技法のひとつである。こうした特殊な訓練の場面では、グループの中で自己を開示するに伴って至高体験が得られやすいという。Tグループは、山などの自然の中で合宿形式で行われることが多く、感受性が高まった目にとりわけ自然の美が心に迫り、そこに人生の本質とでもいえるような何ものかが感じとられる場合が見られる。日常の自己執着や目先の目的に縛られた心を解放し(D認識からの解放)、まったく新鮮な眼で自然と世界を感じ取る体験をするのだろう(B認識)。

この女性は、合宿Tグループの合間に、ある山頂で自然の中に融合した体験と、その結果として訪れた「爽やかな生の味覚」、「胸の奥で疼いた生命感」を次のように表現する。

N・K氏の事例

これもまた、至高体験の一種と言えるだろう。日常的自我の枠から解放され、自己の内外に開かれた経験だといえる。彼女は、腹の底を突き上げてくるものに、手放しで、ただ、まかせていた。その結果、一瞬ごとに自分を取り囲むすべてのものが飛びこんできたのであろう。ここでは、至高体験における認識の受動性という性格(7)が確認される。そんな状況の中で、本人はいつの間にか自然の中に深く沈潜し、さらに深く、すべてのものに結びついていった。そして人間の本当の姿、といいたくなるような「たったひとり」を経験したのではないかと思われる。

【注】Tグループについては、上のリンク先の注を参照されたい。