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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

玉城康四郎氏の覚醒体験(2)

2019年07月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(2)である。

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 玉城康四郎氏の若き日の至高体験については、すでに取り上げた。玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、覚醒するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。
 そして最晩年に、ついに下に見るような真の覚醒に至るのである。求道への、その真摯でかわることのない熱情は頭が下がる思いである。
 以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

◆ダンマ顕わとなる
 禅宗の坐禅に替わって、ブッダの禅定を学び始めてからもう三十年になる。そのあいだにブッダに学んだ基本は、
「ダンマ・如来が、業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけて、息むことがない」
ということである。
 
 ダンマ・如来とは、形なき「いのち」そのものであり、言葉をこえた純粋生命である。業熟体とは、限りない以前から、生まれ替わり死に替わり、死に替わり生まれ替わり、輪廻転生しつつ、そのあいだに、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりながら、いま、ここに実現している私自信の本質であり、同時に、宇宙共同体の結び目である。もっとも私的なるものであると同時に、もっとも公的なものである。それは私自身でありながら、その根底は、底知れぬ深淵であり、無明であり、無智であり、黒闇であり、あくた、もくたであり、黒々とつらなっていく盲目の生命体である。それは私自身であると同時に、宇宙共同体である。このような業熟体にこそ、ダンマ・如来、形なき「いのち」そのものが、顕わになり、通徹しつづける。それは、あらゆる形を超えながら、あらゆる形を包みこ む永遠の働きである。その働きの真っ只中で、その働きに全人格体を打ち任せながら禅定を行ずる。 ブッダは、そう教えてくれるのである。
 
 この禅定を連日習いつづけているうちに、きわめて徐々にではあるが、ダンマ・如来が、禅定のたびごとに私自身に顕わになり、そして、年を重ねれば重ねるほど、急速、かつ強烈に私の全人格体を通徹する。もとより、ダンマ・如来の人格体における熟し方において、ブッダと私とは天地の相違があるであろう。ブッダは、億劫の修行の後に地上に生まれ、かつ命懸けの苦行の末、入定して悟りを開いたのである。盤珪は、尻も破れ、血を吐き吐き、坐禅に打ち込んだ。私は、ただ安閑として、老師の指導を受け、ブッダの禅定を習っただけである。法熟において雲泥の差のあることはいうまでもない。しかしながら、ブッダに顕わになり、盤珪を貫き、そして私の心魂にひびきわたってくるいのちそのものにおいては、寸毫の違いもない。なぜなら、それは、言葉を超え、観念を超え、時空を通貫して、じかに私の全人格体に透徹してくるからである。しかもそれは、まったく我ならぬ、しかも徹底して我にまで成りおおせる、宇宙自体の、自然のなかの、もっとも自然なるいのちそのものだからである。(「盤珪と私」より)

◆「仏道に学ぶ」:78歳
 12月14日、ふと気がついたら、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う。ありがたきかな、最後の一息まで、如来の真実義に随順してゆく。わが物顔よ、物知り顔よ、自性よ、ただひたすら、頂戴してゆこう。


続きはこちらでご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(2)

玉城康四郎氏の覚醒体験(1)

2019年07月14日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(1)である。

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 ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。
 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。
東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。
  そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。
何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。
  いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ) になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みつづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。
  かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。
  このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。



続きは以下でご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(1)

禅僧・白隠の大悟まで

2019年07月08日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・白隠の事例である。

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 以下にいくつかの資料を参考に、白隠の大悟に至るまでの経過を記す。
 二十四歳から二十五歳に至る一年間、白隠の禅境の一大変化が到来したという。
「二十四歳の春、越後の英巌寺におった。無学を提起して終夜眠らず、寝食ともに忘れていた。忽然として大疑 現前の状態になった。万里一条の層氷の裡に凍殺されるかの如く、胸の裡は分外にさっぱりしている。そして進 むこともできず、退くこともできず、ばかになってしまったようで、ただ無字があるだけである。講義の席に出 て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようである。あるいは空中を歩いているよ うでもあった。
 そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れた。水盤の破砕、玉楼の推倒といったようなものだった。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものであっ た。三世を貫通して毛一本をも損せず、従来の疑惑も根底から氷のように消えてしまった。
 大声で叫んで言った。
 『不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわ れる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ』と。
 そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言 った。『二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう』と。」
 大悟した白隠慧鶴は、その所見を 性徹和尚に提したが、一顧だにも与えられなかったという。しかし、白隠は、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹するものはあらず、四海を一掃して誰か我が機峰に当たらん」と自ら思ったという。若者の増上慢の言葉であろうが、それほどに見性が了々としていたのだろう。
 そのころ白隠慧鶴は信州から来たある禅者に会い、彼の師・正受老人が飯山の上倉村にみずから結んだ正受庵に住 していることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵をたずねた。たまたま正受老人 は柴を刈っていたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なくいっただけだった。
 その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなもの は学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなんだ」と迫る。彼は「そんな ものがあれば、吐き出してしまいますよ」といって嘔吐の声をした。
 翁は彼をひっとらえて 「趨州の無学を何と見るか」とせめよった。慧鶴「趨州の無学とても手をつけるところなしですよ」と言葉を返したが、翁は彼の鼻頭を抑えて「なんとこんなに手がつけられるわ」といい放った。
 彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られた。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」といい、白隠は返す言葉もなかったという。
 その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐ と見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から 井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わず かに口を開くと、一喝されて押し出される始末。
 彼は心中穏やかならず、これは翁がかつての自分の痛快なる悟りを知らないからの仕打ちに違いない。こんどこそは死を賭しても徹底的に間答しようものと決意して、ある日入室、所解を呈すると、翁は彼をひっとらえ、数十回鉄拳をくらわせ、押し倒し、彼が縁の下に落ち て茫然としているのを見ながら、からからと大笑いしていた。
 その後、彼は胸つまる苦悶の数日が続いたが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたが、彼はうっとりと忘我して立ち続けた。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのにまだここでぐずぐずし ているとは」といって、彼を打った。
 その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したという。歓喜 を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と いわれた。
 その後、八か月余り、慧鶴(後の白隠禅師)は、翁の左右に侍して、日夜入室、そ の蘊奥きわめ、飯山を後にした。
《参考文献》
『日本の禅語録〈第19巻〉白隠 (1977年) 』 鎌田茂雄、講談社
『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』安藤正瑛、大蔵出版
『死と生の記録―真実の生き方を求めて (講談社現代新書 144) 』佐藤幸治、講談社

★白隠慧鶴 〈はくいんえかく〉 1685~1768 
禅宗の一派・臨済宗中興の祖、江戸時代中期の禅僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく)、鵠林(こくりん)。駿河国、現在の静岡県沼津市原〈はら〉に生まれた(貞亨2年12月25日)。幼時に地獄の話に恐怖し、その恐怖からのがれようと天満天神に祈願するが、みたされず、15歳の時、原の松蔭単嶺〈たんれい〉和尚について出家する
その後、沼津の大聖寺の息道普益(そくどうふえき)、美濃の瑞雲寺の馬翁宗竹(ばおうそうちく)、伊予の正宗寺の逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)などの教えを受ける。1708年(宝永5)越後(新潟県)高田の英厳寺性徹〈しょうてつ〉和尚のもとに居る時、悟りに達したと自覚。(⇒上の資料)
同1708年、信州飯山の正受老人道鏡慧端(えたん)に、「死人のように動きのとれぬ禅坊主)」と批判され、慢心をすてて参禅し、大悟。亨保2年正月10日、先師単嶺和尚の年忌を機に松蔭寺に入り、1718年(享保3)京都の妙心寺の第一座となり、白隠と号す。以後各地に仏法を広めると共に、松蔭寺においても雲集する修行僧、居士等の教化に努めた。
42歳の秋、「法華経」を読誦(どくじゅ)中に、こおろぎのなく声をきいて生涯で最高の悟りをえたという。 以来、師家として活躍すると同時に、貧乏寺にすんで民衆のための説法や著作にはげむ。明和5年12月11日、84歳をもって示寂。
語録に「荊叢毒蘂(けいそうどくずい)」、仮名法語に「遠羅天釜(おらてがま)」「夜船閑話」、自伝「壁生草(いつまでぐさ)」など。


禅僧・山田耕雲の至高体験

2019年07月06日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は禅僧・山田耕雲の事例である。

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 かつて、ネット上で交流のある友人からメールをいただいた。山田耕雲老師の見性体験記が、なぜ本サイトの事例集に入ってないのかと疑問に思っているとのことであった。 現代の禅宗の老師の体験記としては、かなり貴重なもの、と評価しているとのことであったが、私自身は、山田耕雲老師のお名前を知っている程度で、体験の記された本は読んでいなかった。
友人がメールに添付してくれた、その体験記をここに掲載したいと思う。この体験記が記されているのは『新版 禅の正門(ショウモン) 』という本である。

山田耕雲老師 『再見性の大歓喜』(抄)

三島龍沢僧堂 中川宗淵老師宛の手紙
 拝啓 過日は御取込みのところへ大勢にて参上し、日和はよし、まことに楽しい一日を過ごさせて頂きました。安谷老師も大変およろこびにて、境致はよし、よい指導者を得て雲衲は仕合せだ、と述懐を洩らして居られました。
 
さて、あの席上、アメリカの青年のことを中心に見性に関する御話しが出ましたが、あれから幾日もたたない今日、小生自身の体験を御報告することになろうとは思いませんでした。 貴山へ伺った翌二十四日、ちょうど所用で東京へ出て来た家内と帰りが一緒になりましたので、夕方五時頃二人で横須賀行の電車に乗りました。小生は読みかけの『損翁禅話』という書物を開きました。御承知かも知れませんが、損翁というお方は元禄時代、仙台に居られた曹洞宗の尊宿なる由。
  
 丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、

子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、  

「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。

 夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。  
 
 ワッハッハッ ワッハッハッ  
 ワッハッハッハッハッハッハッ   

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。


続きは、以下でご覧ください。⇒ 「禅僧・山田耕雲

クリシュナムルティ

2019年07月05日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』を運営していたころに何度かメールでやりとりをしたことのある、ある方からメールをいただいた。それは、クリシュナムルティの覚醒体験についてのもので、旧サイトの「覚醒・至高体験事例集」に加えて、みなさんにぜひ読んでいただきたいとのことだった。その内容を新サイト『霊性への旅』でも再録させていただく。

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一九二二年の八月十七日、彼はカリフォルニアのオーハイでその後の 人生を一変する体験に見舞われます。(すべて「クリシュナムルティ の世界」大野純一編訳コスモス・ライブラリーからの引用です。クリ シュナムルティ二十七歳の年だそうです。)
まずその周辺を知っていただくためにも、短いですがその五日前に彼 がエミリー・ルティエンスという女性に宛てた手紙から引用をしたい と思います。

「私は毎朝三十分ないし三十五分間、瞑想しています。それは六時四 十五分から七時二十分までの間です。短時間ではありますが私の精神 集中は日増しに向上しつつあり、寝る前にも十分ほど瞑想しています。 こういった事実は貴女には少々意外なのではありませんか?私はマス ターの方々との古い接触を取り戻しつつあるのです。詰まるところ、 人生で大切なのはそれだけであって、他には何もないのです……」

(「マスター」というのは、マスター・クーフートミーとマスター・ モーリヤの略称だと思われます。両者ともに神智学協会の教義体系に おいて、超人として伝説化され信仰の対象になっていたようです。これからもわかるように、後に「星の教団」を解散し神智学協会から離れ、真理がいかなる教団や宗派にも属さないことを強調した彼も、若き日にはこのような信仰をもっていたようです。)
そしてその八月十七日から数日間つづいた彼の変容を目撃したのは、 ニティーヤナンダという男性とロザリンドというアメリカ人女性、ワ リントンという人物の三人いたそうですが、そのうちのニティーヤの手紙が残っています。その非常に興味深い記述によると、クリシュナ ムルティは「異様な無意識状態」に陥り、「半覚状態」がつづき、「 ワリントン氏は、この様子を見て、クリシュナの体内で何らかの『プロセス』が進行中であると言った」そうです。ですが、それはあくま でクリシュナムルティの体験の外部的観察ですので割愛して、彼自身の記録を紹介します。

「やがて八月十七日になると、私は首筋に激しい痛みを感じ、瞑想を十五分に短縮しなければならなくなった。私の容態はどんどん悪化し、ついに十九日にそのクライマックスに達した。私は考えることも、何をすることもできずにベッドに横になった。やがて私はほとんど無意識状態になったが、まわりで起こってることはよくわかった。私は毎日正午頃には正気に返った。最初の日、自分がそんな状態で、いつもより周囲のものがはっきり意識に入ってるときに、私は最初の最も不思議な体験をした。

道を補修している人がいた。その人は私自身であった。彼の持っている(つるはし※傍点が付されてあります)も私自身であった。彼が砕いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私そのものであった。私のそばの木も私自身であった。私はほとんどその道路補修工のように感じたり考えたりできた。私は木々の間を通り抜ける風を感じ、草の上にとまった小さな蟻を感じることができた。鳥や、ほこり、 さらには騒音までもが私の一部であった。ちょうどそのとき、少し離 れたところを車が通っていった。

私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。私はすべてのなかにあり、というよりはすべてが――無生物も生物も、山も虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった。」


続きは、以下でご覧ください。⇒「クリシュナムルティ