「証しするのは三者です霊と水と血です」ヨハネの手紙一5:7-8
この手紙を書いたのは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネだと思われる人は多いと思います。そうとお答え出来ます。
実はヨハネではないという人もいます。しかし、少なくともヨハネの流れを汲むヨハネの弟子が書いたと考えることはできます。
ヨハネによる福音書19章には、主イエスの十字架の出来事が記されています。
イエスさまが十字架の上で死なれた時のことです。ユダヤ人指導者が、安息日になるから、イエスを含む十字架上にいる囚人をそのまま木にかけたままにしておかないでくれ、とピラトに願い出ました。
兵士は、あしの骨を折ることなく、わき腹を槍で突き刺しました。するとそこから、「ただちに血と水が出てきた」とあります(19:34)。ヨハネはこのことを言った後に、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35節)」と言っています。
心臓が破裂すると、水のような液体がその周りに溜まるそうです。それもいっしょに出てきたと考えられます。ヨハネはこれを確かに見た、そこで「そのあかしは真実である」と言っています。
神が人となられて、洗礼を受けられ、十字架におかかりになったことによって、救いが実現しました。
ヨハネは確かに自分自身でイエスが肉をもって来られたことを目撃したのですが、私たち一人一人にあかしするのは御霊であると、神の証であると言っています。
イエス様が私達の救いのために十字架につけられたこと、そして、イエス様を救い主と信じる者は永遠の命が与えられます。そのことが真実であると言う神の証言によって、私達は信仰者になっています。
人間の証明はあやふやなところや間違いがあったりしますが、神の証言を信頼出来る者であります。
日本に最初に電灯が灯った時に「人々は伝線を伝わってコレラが伝染する」と言ってなかなか電気会社の言うことを信頼出来なくて、電気の普及が遅れたというエピソードが残っています。
神の証言を信じるか信じ無いかによって、大変な違いをもたらすことでしょう。
神の証しは、イエス・キリストこそまことにわが救い主であり、信じる者に永遠の命が与えられるという確信を私達に与えます。
神に属する者とは、絶えず神に心を開き、日々新たにされている人を意味します。
死の不安 罪に苛まれる私達ですが、そういう私達を新たにし、命への道を歩ませるように導いておられる神様に心を開いていくことです。
私たち人間が本当の命に目を開かれていくことを願っておられます。
迫害の中にあっても、永遠の命に生かされて教会は一歩を踏み出していきました。
力強い神様の証しに促されて、信じて歩む群こそが、神に属する者の群ではないでしょうか。
6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」。血液と体液(内臓)が流れ出たということは、イエスの死は決して見せかけでなく、真に人間として、私たちと同様に死なれたのです。
その瞬間をヨハネは見ていました。
お生まれになる時はマリアの羊水を通って生まれました。十字架の死と新しい誕生を重ね合わせているのが
特徴的な描き方であると思います。
イエス様は「水と血」を流して死なれた。しかし、そこから永遠の命が始まりました。
水と血は苦難・死の象徴です。
絶望の世界をくぐり抜けたイエス様が、私達を新しい命で生かして下さいます。
命への1歩を踏み出せるように働きかけてくださるイエス様が、すぐそばにいることを神様は証ししておられます。
この手紙を書いたのは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネだと思われる人は多いと思います。そうとお答え出来ます。
実はヨハネではないという人もいます。しかし、少なくともヨハネの流れを汲むヨハネの弟子が書いたと考えることはできます。
ヨハネによる福音書19章には、主イエスの十字架の出来事が記されています。
イエスさまが十字架の上で死なれた時のことです。ユダヤ人指導者が、安息日になるから、イエスを含む十字架上にいる囚人をそのまま木にかけたままにしておかないでくれ、とピラトに願い出ました。
兵士は、あしの骨を折ることなく、わき腹を槍で突き刺しました。するとそこから、「ただちに血と水が出てきた」とあります(19:34)。ヨハネはこのことを言った後に、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35節)」と言っています。
心臓が破裂すると、水のような液体がその周りに溜まるそうです。それもいっしょに出てきたと考えられます。ヨハネはこれを確かに見た、そこで「そのあかしは真実である」と言っています。
神が人となられて、洗礼を受けられ、十字架におかかりになったことによって、救いが実現しました。
ヨハネは確かに自分自身でイエスが肉をもって来られたことを目撃したのですが、私たち一人一人にあかしするのは御霊であると、神の証であると言っています。
イエス様が私達の救いのために十字架につけられたこと、そして、イエス様を救い主と信じる者は永遠の命が与えられます。そのことが真実であると言う神の証言によって、私達は信仰者になっています。
人間の証明はあやふやなところや間違いがあったりしますが、神の証言を信頼出来る者であります。
日本に最初に電灯が灯った時に「人々は伝線を伝わってコレラが伝染する」と言ってなかなか電気会社の言うことを信頼出来なくて、電気の普及が遅れたというエピソードが残っています。
神の証言を信じるか信じ無いかによって、大変な違いをもたらすことでしょう。
神の証しは、イエス・キリストこそまことにわが救い主であり、信じる者に永遠の命が与えられるという確信を私達に与えます。
神に属する者とは、絶えず神に心を開き、日々新たにされている人を意味します。
死の不安 罪に苛まれる私達ですが、そういう私達を新たにし、命への道を歩ませるように導いておられる神様に心を開いていくことです。
私たち人間が本当の命に目を開かれていくことを願っておられます。
迫害の中にあっても、永遠の命に生かされて教会は一歩を踏み出していきました。
力強い神様の証しに促されて、信じて歩む群こそが、神に属する者の群ではないでしょうか。
6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」。血液と体液(内臓)が流れ出たということは、イエスの死は決して見せかけでなく、真に人間として、私たちと同様に死なれたのです。
その瞬間をヨハネは見ていました。
お生まれになる時はマリアの羊水を通って生まれました。十字架の死と新しい誕生を重ね合わせているのが
特徴的な描き方であると思います。
イエス様は「水と血」を流して死なれた。しかし、そこから永遠の命が始まりました。
水と血は苦難・死の象徴です。
絶望の世界をくぐり抜けたイエス様が、私達を新しい命で生かして下さいます。
命への1歩を踏み出せるように働きかけてくださるイエス様が、すぐそばにいることを神様は証ししておられます。