日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ヨハネの手紙一5:6-20「神に属する者」

2016-09-01 10:32:33 | 説教
「証しするのは三者です霊と水と血です」ヨハネの手紙一5:7-8

 この手紙を書いたのは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネだと思われる人は多いと思います。そうとお答え出来ます。
実はヨハネではないという人もいます。しかし、少なくともヨハネの流れを汲むヨハネの弟子が書いたと考えることはできます。

 ヨハネによる福音書19章には、主イエスの十字架の出来事が記されています。
イエスさまが十字架の上で死なれた時のことです。ユダヤ人指導者が、安息日になるから、イエスを含む十字架上にいる囚人をそのまま木にかけたままにしておかないでくれ、とピラトに願い出ました。
兵士は、あしの骨を折ることなく、わき腹を槍で突き刺しました。するとそこから、「ただちに血と水が出てきた」とあります(19:34)。ヨハネはこのことを言った後に、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35節)」と言っています。
心臓が破裂すると、水のような液体がその周りに溜まるそうです。それもいっしょに出てきたと考えられます。ヨハネはこれを確かに見た、そこで「そのあかしは真実である」と言っています。
 神が人となられて、洗礼を受けられ、十字架におかかりになったことによって、救いが実現しました。
ヨハネは確かに自分自身でイエスが肉をもって来られたことを目撃したのですが、私たち一人一人にあかしするのは御霊であると、神の証であると言っています。
 イエス様が私達の救いのために十字架につけられたこと、そして、イエス様を救い主と信じる者は永遠の命が与えられます。そのことが真実であると言う神の証言によって、私達は信仰者になっています。
 人間の証明はあやふやなところや間違いがあったりしますが、神の証言を信頼出来る者であります。
 日本に最初に電灯が灯った時に「人々は伝線を伝わってコレラが伝染する」と言ってなかなか電気会社の言うことを信頼出来なくて、電気の普及が遅れたというエピソードが残っています。
 神の証言を信じるか信じ無いかによって、大変な違いをもたらすことでしょう。
 
 神の証しは、イエス・キリストこそまことにわが救い主であり、信じる者に永遠の命が与えられるという確信を私達に与えます。
神に属する者とは、絶えず神に心を開き、日々新たにされている人を意味します。
死の不安 罪に苛まれる私達ですが、そういう私達を新たにし、命への道を歩ませるように導いておられる神様に心を開いていくことです。
私たち人間が本当の命に目を開かれていくことを願っておられます。
 迫害の中にあっても、永遠の命に生かされて教会は一歩を踏み出していきました。
力強い神様の証しに促されて、信じて歩む群こそが、神に属する者の群ではないでしょうか。

6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」。血液と体液(内臓)が流れ出たということは、イエスの死は決して見せかけでなく、真に人間として、私たちと同様に死なれたのです。
その瞬間をヨハネは見ていました。
お生まれになる時はマリアの羊水を通って生まれました。十字架の死と新しい誕生を重ね合わせているのが
特徴的な描き方であると思います。
イエス様は「水と血」を流して死なれた。しかし、そこから永遠の命が始まりました。
水と血は苦難・死の象徴です。
絶望の世界をくぐり抜けたイエス様が、私達を新しい命で生かして下さいます。
命への1歩を踏み出せるように働きかけてくださるイエス様が、すぐそばにいることを神様は証ししておられます。





エフェソ信徒への手紙5:11-20  「新しい人間」

2016-09-01 10:29:01 | 説教
「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
エフェソの信徒への手紙5:19


 1節において、神の子どもらしく、神にならうものとなりなさい。
という勧めが5章の御言葉が始まっています。
とあります。この1節の言葉はとても重要なテーマで、ここからは「神にならうものとなる」どういう歩みをすることなのかということが、繰り返されているわけです。
3節では「聖徒にふさわしく」、8節「光の子どもらしく歩みなさい」、15節「賢い人のように歩んでいるかどうか」という言葉が続いています。言おうとしていることはみなこの1節の「神にならう者となりなさい」ということに結びついてくるわけです。
19節に「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。これは、キリスト者の生活を貫いているものが何であるかということを示している言葉なのです。
「詩編と賛歌と霊的な歌」と言われているのは、実際に当時の礼拝において歌われていた歌のことです。
つまり、礼拝の心をもって語り合い、生活しなさいと言っているのです。
そして、その礼拝の心とは、「主をほめ歌う」ということなのであります。主をほめたたえる、その心で日々を歩みなさいと言っているのです。
 詩編102編19節に「主を賛美するために民は創造された。」という言葉があります。私共が神様に造られたのは、実に主を賛美する為であるというのです。
 教会に行って、讃美歌を聞いて、「いいなあ」と思う人がたくさんいますが、歌の源流に接して、豊かな感動を与えられているかもしれません。
 讃美の声にひかれて教会につながる人もいます。

 讃美歌は確かに主をほめたたえる為に作られた歌です。しかし、「主をほめたたえる」というのは、もっと広い意味があります。心を思いを神様に向けることです。
自然界の美しいものを見つめていると、感動の声があがるように、神に心を注ぐときに
感動が与えられていきます。そのみ業・愛に対して讃美せずにはおれません。
古代イスラエルの時代から神の民はどんな苦しいときにも、いや苦しみや悲しみが深ければ深いほどより強く、大きく神をほめたたえ続けてきました。つらい日であっても、神様はきっと、救いの道を開いて下さいます。

 困難や苦難の渦中においてもより力強く主からの光を浴びて最も苦しい時期をすごすことができました。
主に心を向け、その愛を受け、救いの業を待ち望み、主の豊かな光に照らされて生き抜いていくために、今朝も、主に対するほめたたえの歌で、心から賛美したいと思います。
詩編は旧約聖書の詩編のことです。「語り合う」と言うのは、楽器の演奏のことだと言われます。
礼拝で歌われる歌をもって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさいと言うのです。それは、礼拝の心をもって互いに語り合いなさいということでしょう。そしてその語り合いは、主をほめたたえることへとつながっていくのです。それが、イエス様に救われ、ぁ新しくされた人の生き方です。
 私たちの信仰喜びを伝えたり、信仰の確信を訴えたり、キリストの恵みと真理を分かりやすく伝えたり、献身の決断に人を招いたりする霊的な歌が生まれてくるような交わりとも言えるのではないでしょうか。
20節には、神様に感謝しなさいと書かれています。信仰者の清い生活は、神への感謝の泉から出てくる水のようなものです。
歌をもって語り合うとは、どういうことでしょうか。歌は、言葉に音楽が結びついたものです。リズムや旋律が、言葉に生き生きとした表現を与え、言葉のみで語る以上のことを、言葉に語らせます。
悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などを口から出すのは、いけないことです。人の口から出るものが人を汚します。
 初代教会の祈りにおいても歌うことが勧められていましたし、修道生活においても、祈りが歌になりました。
 私達の会話が讃美歌になるように、私達の言葉が良い言葉に高められることが大切です。
「牧師は言葉で説教するが、信徒は讃美歌で説教する」マルティンルター