日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

エフェソの信徒への手紙2:14-22 「異邦人の救い」

2020-07-11 16:17:40 | フォトギャラリー

「実にキリストはわたしたちの平和であります」 エフェソの信徒への手紙2章14節

 

 私たちの世界には、残念ながら、多くの「分裂」があります。国家や民族や宗教などの違いは、本来、社会の多様性として認められるべきものです。

 とこらが、敵意というものが加わると、平和をなぎ倒す力が働いていきます。

 違いを超えて互いに理解を深め、共に助け合い、支え合いながら、お互いの幸せのために力を尽くす関係が生まれる社会が実現していけば良いですね。

 

「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」2:14

 当時のユダヤの神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁がありました。神殿の聖所の周囲にはユダヤ人の男性だけが入ることができ、女性は隔ての壁の外側に、さらにその外に異邦人の庭が設けられていました。異邦人たちは神を礼拝する聖所から遠く隔てられていたのです。

 そして、どれほど熱心に神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえをささげる中庭に入ることは許されませんでした。もしこの石垣を超えて中に侵入しようとする異邦人があれば、死刑に処せられます。

 その壁の高さは1・5メートルほどの高さです。見える形では、大人なら乗り越えられないことはありませんが、見えない壁があったということです。

 この見えない壁というのは、異邦人に対するユダヤ人の敵意というものです。当時、ユダヤ人・異邦人には乗り越えられない壁でありました。敵意が満ちていたのです。それは水と油のように混じらないような関係であり、根深い壁でありました。

 ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人を蔑視していました。

  しかし、キリストにあってこの隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人という二つの敵対する陣営が、一つの共同体として神様を礼拝する。かつての2つの敵対する陣営が、一つの教会をなすことが起こっていきました。

 この共同体が世に印象深く刻まれていきました。

 エフェソの教会には、ユダヤ人とユダヤ人ではない異邦人が共にいました。両者は独自の背景を持っていました。

 ユダヤ人たちは、旧約に描かれるように神の民としての長い歴史を歩んでいました。神に選ばれた民として、律法を与えられ、導かれてきた歴史を持っていました。独自の割礼という身体に刻む儀式を持っていて、それが神の民であることの印でした。

 国が滅ぼされ国土を失っても、世界に散り散りになっても、それぞれの土地で、神の教えを守り貫く独自の共同体を形成していきました。そして、国が再建され神を礼拝する神殿がエルサレムの町に再建されると、世界の国々からユダヤ人たちが訪れ、神を礼拝するために神殿に参っていました。

 

 そんな背景を持つユダヤ人たちは、初代の教会の中においても、我こそ神に選ばれた民に属すとの自負心を引きずっていたと考えられます。

 他方、ユダヤ人ではない異邦人たちは、様々な神々を礼拝し、その多様性と宗教的寛容を誇り、ユダヤ人たちの信仰を偏狭だと敵意を抱いていていました。

 教会の中になお残る、ユダヤ人と異邦人の対立に対して、この手紙の著者は、イエス・キリストによってもたらされた救いの原点に立ち返るよう促します。異邦人たちに呼びかけます。

 私たちの「平和」の原点は、神の平和であるイエス・キリストの御言葉を聞くこと、そしてイエス・キリストが十字架によって示して下さった愛をもって、隣人を愛することです。私たちが平和を実現してゆく力は、イエス・キリストに対する信仰によって与えられます。

 そのことによって敵意という壁は除かれていきます。

 ここでは「敵」というものよりも「敵意」を問題にしています。パウロも異邦人に対して敵意をもっていましたが、キリストによって救われて、異邦人の救いのために働きました。

 敵は他者ですが、敵意はまさに、自分自身にあります。主の十字架の愛とみ言葉が私たちの敵意という壁を滅ぼすのです。

 自分を十字架につけた人に対しても、主は敵意を示されませんでした、「敵を愛しなさい」ということをその愛をもって示されたのです。

 私たちもイエス様のようになりたいと思いますが、見えない壁を作ってしまいます。しかし、イエス様の方から近づいて下さり、私たちの壁に穴を空けてくださるのです。無条件の愛の力です。

 その愛によって、私たちの敵意の壁は壊されていきます。

 私たちの教会は主の十字架の愛によって一つにされていきます。初代教会の成長の原動力は、まさに民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。それは今もここで起こっています。

 15節に「こうしてキリストは双方をご自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」とあります。

 ギリシア語で「新しい」を意味するふたつの言葉があります。「ネオス」と「カイノス」という言葉です。「ネオス」は時間的な意味で「新しい」という意味です。このネオスというギリシャ語が英語のNewという言葉の語源になりました。一方で「カイノス」は「質的に新しい」という意味になります。「いつまでたってもかわらない新しさ」ということです。

 衣服、家、車、テレビも、古くなっていくのです。新聞も一日たてば古くなります。この世界の全てがいつかは過ぎ去っていくという宿命を負っています。しかしいつまでもかわらない新しさがあります。それが主の愛の教えです。永遠の命に通じていくものです。

 「新しい人」というのはカイノスというギリシャ語が使われています。多様性を認め合い、一致していく力が働く時に、教会は新しくされていきます。今までにあった新しさではない新しさです。多様な人がキリストによって新しくされて、一つとなる時に、キリストのDNAの影響を受けた新しい家族が形成されていきます。キリストの愛に促されて、引いている線を少し緩め、心の垣根を低くしていく時に、新たな歩みが始まります。


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