15章42節以下には、終わりの日の復活の記事が書かれています。 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱い者でも、力強いものに復活するのです」と書かれています。朽ちるべきものが朽ちないものを着て、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになる。 それが、私たちの最後の収穫の時の「復活」の約束です。
私たちは、朽ちないもの、神の輝きに満たされるもの、弱さが強さに変えられる者です。
「蒔かれる」というのは、人が死んで、土に返っていくことを意味しています。
蒔かれる時は、「朽ちる者」「卑しい者」「弱い者」と書かれていますが、結末は滅びではなく、神の力によって、輝かしい姿に復活すると書かれています。
種そのものは死んで、そこから新しい芽が芽生えてます。体も、一度、死んで、そこから新しい体が生じます。人は新しい体が与えられるのです。
死ねば朽ちてしまう現在の体が、新しい別の体に変えられて、復活するのです。強く、罪に汚れることなく、永久に朽ちることのない体だと表現されています。
人間は、創世記によると土から生まれたと書かれています。土から生まれた人間が、土に帰っていく、そのことだけを考えると空しくなります。しかし、肉体が土になった、その先に、新しいものが生まれると希望が示されています。
「支え」にも「見えるもの」と「見えないもの」があります。足を骨折した時に支えになるのは、見えるものでは「松葉杖」のような支え。見えないものでは、「思いやり」「いたわり」などの「愛」が支えになります。
どちらも必要な支えになります。しかし、より大事な支えは「見えない支え」です。なぜなら誰も奪えないものだからです。このように見えない支えがしっかり土台となっている人は、どんなことがあっても「平安」が「不安」に勝るのです。
まかれた種は土の中で形を失いますが、その命は実りをもたらします。慈しみに満ちた農夫が心の支えとなり、命を育んで下さいます。