「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」
ローマの信徒への手紙14:17
ローマ教会では戒律を重んじるユダヤ人クリスチャンと自由を重んじる異邦人クリスチャンとの争いがあった。ユダヤ教は食べ物の戒律が厳しく、クリスチャンになってもそれを重視する人が多かった。食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはなりません。・・・神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」とパウロは信徒たちにお互いの慣習を尊重させ、ローマの信徒たちの間で分裂を引き起こす食習慣の議論を止めさせようとしました。
-使徒行伝15:19-21「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」。
・ある人は肉を食べることは罪だと思い、別の人はそのような信仰を「弱い信仰」だと嘲っていました。
-ローマ14:1-2「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」。
・食べる人は食べない人を嘲り、食べない人は食べる人を裁く。教会が本質的でないことで争うのは愚かであり、イエスの名を汚すことだとパウロは述べます。
ローマ14:17-21「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。・・・ 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。」
「義と平和と聖霊による喜び」によって信仰生活を歩みましょう。そのような信仰生活は、神さまが喜ばれるとともに、この世界に生きる人びとにも認められる、信頼されるものとなるのです(18節)。
互いに建て上げることを追い求めましょう。
ですから私たちは「平和に役立つこと」を追い求めましょう。また「お互いの霊的成長に役立つこと」を追い求めましょう。
「義と平和と聖霊による喜び」に生きる者は、戦いの道ではなく、平和に役立つことを追い求めます。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5章9節)
「互いの向上に役立つことを追い求めよう」と19節にあります。もともとは「家を建てる」という言葉だそうです。互いの徳を建て上げて行く。神さまに造られた大切な存在、他者を尊敬して、大切な存在であるお互いを建て上げていくこと。それが救われた者にふさわしい信仰生活です。
山室軍平先生は言われます。
アブが馬の背に針でつついたほどの傷を見つけて、そればかりつついているようなまねをせず、かえってにわとりが砂利の間に一粒半片の穀物を探し出してもコッコと喜ぶように、人の長所美点を見いだしてこれを推薦。奨励するようにしたいものであります。
紛争や対立があれば、立てあげる基礎が揺らいでしまいます。
平和をつくることを大切にしていきたいものです。
もったいないばあさんシリーズの絵本の中に、「天国と地獄」の食事の場面が紹介さ
れています。大きなスプーンがあり、われ先にスプーンを取り合い、スプーンをとった人は、スプーンが長すぎて、スープをこぼしてしまいます。
今日の聖書箇所から想像する食事の場面は、肉を食べなさいと差し出す人が、相手が食べないと、ののしる光景を想像します。
強要された人は、「肉を食べるなんて」と相手に敵意を抱きます
命の糧を頂く恵みの時が、こうして、壊されていきます。
たとえば、このように展開したらどうでしょうか。お肉をどうぞとすすめて、すすめられた人が、「いえ、私は肉を食べる習慣がないのです」「又今まで野菜を食べてきましたから、お肉を急に食べられません。体が受け付けません」と答えたとしましょう。
次に「では他の食事にしましょうね」と肉食をすすめる人が食事を変えていきます。すすめられた人は、相手の配慮に感謝し、肉を食べることについてゆとりをもって考える機会が与えられていきます。
「口からはいるものが人を汚すことはない」と言う立場に立っていることを次第に理解していくかも・・・
こういう展開があれば、憎しみの連鎖はなくなるのではないかと思います。
武田信玄と上杉謙信が、川中島の戦いをしていた時、甲斐の国に飢饉が起こりました。しかし、敵である上杉は塩を送ったという話しがあります。
敵同士でも、深いところで、「人間であるところ」でつながったということですが、その深いところを大きく、強調していくこと、そのことが戦いを消滅させていくことになるのではないかと思います。
違いがあっても主に愛された者同士であるという深いところを大切にすること、主の愛を大きくすることが平和につながっていきます。
ローマの信徒への手紙14:17
ローマ教会では戒律を重んじるユダヤ人クリスチャンと自由を重んじる異邦人クリスチャンとの争いがあった。ユダヤ教は食べ物の戒律が厳しく、クリスチャンになってもそれを重視する人が多かった。食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはなりません。・・・神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」とパウロは信徒たちにお互いの慣習を尊重させ、ローマの信徒たちの間で分裂を引き起こす食習慣の議論を止めさせようとしました。
-使徒行伝15:19-21「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」。
・ある人は肉を食べることは罪だと思い、別の人はそのような信仰を「弱い信仰」だと嘲っていました。
-ローマ14:1-2「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」。
・食べる人は食べない人を嘲り、食べない人は食べる人を裁く。教会が本質的でないことで争うのは愚かであり、イエスの名を汚すことだとパウロは述べます。
ローマ14:17-21「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。・・・ 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。」
「義と平和と聖霊による喜び」によって信仰生活を歩みましょう。そのような信仰生活は、神さまが喜ばれるとともに、この世界に生きる人びとにも認められる、信頼されるものとなるのです(18節)。
互いに建て上げることを追い求めましょう。
ですから私たちは「平和に役立つこと」を追い求めましょう。また「お互いの霊的成長に役立つこと」を追い求めましょう。
「義と平和と聖霊による喜び」に生きる者は、戦いの道ではなく、平和に役立つことを追い求めます。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5章9節)
「互いの向上に役立つことを追い求めよう」と19節にあります。もともとは「家を建てる」という言葉だそうです。互いの徳を建て上げて行く。神さまに造られた大切な存在、他者を尊敬して、大切な存在であるお互いを建て上げていくこと。それが救われた者にふさわしい信仰生活です。
山室軍平先生は言われます。
アブが馬の背に針でつついたほどの傷を見つけて、そればかりつついているようなまねをせず、かえってにわとりが砂利の間に一粒半片の穀物を探し出してもコッコと喜ぶように、人の長所美点を見いだしてこれを推薦。奨励するようにしたいものであります。
紛争や対立があれば、立てあげる基礎が揺らいでしまいます。
平和をつくることを大切にしていきたいものです。
もったいないばあさんシリーズの絵本の中に、「天国と地獄」の食事の場面が紹介さ
れています。大きなスプーンがあり、われ先にスプーンを取り合い、スプーンをとった人は、スプーンが長すぎて、スープをこぼしてしまいます。
今日の聖書箇所から想像する食事の場面は、肉を食べなさいと差し出す人が、相手が食べないと、ののしる光景を想像します。
強要された人は、「肉を食べるなんて」と相手に敵意を抱きます
命の糧を頂く恵みの時が、こうして、壊されていきます。
たとえば、このように展開したらどうでしょうか。お肉をどうぞとすすめて、すすめられた人が、「いえ、私は肉を食べる習慣がないのです」「又今まで野菜を食べてきましたから、お肉を急に食べられません。体が受け付けません」と答えたとしましょう。
次に「では他の食事にしましょうね」と肉食をすすめる人が食事を変えていきます。すすめられた人は、相手の配慮に感謝し、肉を食べることについてゆとりをもって考える機会が与えられていきます。
「口からはいるものが人を汚すことはない」と言う立場に立っていることを次第に理解していくかも・・・
こういう展開があれば、憎しみの連鎖はなくなるのではないかと思います。
武田信玄と上杉謙信が、川中島の戦いをしていた時、甲斐の国に飢饉が起こりました。しかし、敵である上杉は塩を送ったという話しがあります。
敵同士でも、深いところで、「人間であるところ」でつながったということですが、その深いところを大きく、強調していくこと、そのことが戦いを消滅させていくことになるのではないかと思います。
違いがあっても主に愛された者同士であるという深いところを大切にすること、主の愛を大きくすることが平和につながっていきます。