日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

W.J.Callahanレポート

2016-10-06 17:13:06 | 中津教会の歴史
<中津の伝道拠点>

 まもなく閉じようとしている今年は、中津の事業において、聖霊のすばらしい成果と驚きで一杯であった。というのは、都合により
当分の間中津の東と西にあたる国東、田川地区での活動には手をつけずに、我々の活動が中津の都市部にほとんど限られていたからである。
  他の会議被任命者が活動を行わなかったため、最初の公務は10月13日の日曜日に催された。我々は、6日の土曜日に着いたが翌日の調整を行うにはあまりに遅く、その時村上師は、彼の新しい開拓地の多度津に行っており、教会は8月15日よりずっと閉じていた。最初から、我々には熱心なひとりの平信徒の援助のみしかなかったが、彼をクラスリーダーに任命し、その時以来彼には訓戒する許可を下した。
 1月から3ヵ月間、個人教授の藤井師の助けを受けていたが、彼は関西学院へ行かなければならなくなり、説教の援助に関する限り我々は実際上その年の間中、とり残されてしまった。その上、村上師が集めたすべての探求者たちを失ってしまった。彼らは、教会の長い閉鎖の間にばらばらに散ってしまい、中津にはだれもいなくなったのだ。ひとりの左官と以前堕落したRRの従業員を除いて、ひとりの伝道者のみならずひとりのキリスト教徒もいなくなった。
 去年の第4回毎季会議で選ばれた幹事は小倉に住んでいた。そのため、1月末の第2回毎季会議で初めて後継者が選出されたのだ。それ故に、我々の会計報告は6ヵ月をカバーしているが、我々の伝道は8ヵ月と半月のみであった。通常の伝道事業と信者会議への出席状況は良好である。

 中津は、今までにないほど目ざめている。というのは、聖霊が人々の間に活動しており、あらゆる階級の男女-裁判官、弁護士、教師、学生、商人、農夫、新聞配達人、職人が聖書を学びたいと願い集まってきているのだ。しかし、我々はそれ以上の事が出来ないので、彼らはそっぽを向かねばならない。最も希望のもてる呼び物は、家から家へと家庭を訪問することである。ところが我々が訪問することができる以上に,聖書を教えてもらうことを喜んで受け入れる家庭が多いということである。 
 婦人伝道者は、家での聖書教室や聖書を教えてくれるようたのまれた家庭女性のために精一杯活動している。中津の女性たちのみを助け、その他の地域で救いを求めている者たちへの手助けができないのであろうか。そのようなことは決して許されない。 
女性及び子どもの活動レポートは、私の妻の手にゆだねる。通常の説教、英語及び聖書教育、家庭訪問、小冊子配布の他に、我々はある特別な仕事を持っているからである。
 5月の地区会議の後ただちに、W・C・T・Uの巡回福音伝道者であるKミヤマ師が3日間程我々といっしょに滞在していた。毎晩我々は教会において節制の講義や説教を行い、昼間はより高貴で清い生活を導いていくことに関心を持っている者たちとの話し合いで満ちていた。その上さらに講義もおこなった。ミヤマ師は、節制について、中学校や高等小学校で講義をしたり、刑務所では、全囚人、警察官出席の下、初めて説教をした。わかりやすくすばらしいミヤマ師の説教は悔い改めより高貴な生活へ向けて出席者の心を動かした。
 次の週は、伝道(促進活動)に関連して特別な努力を払う時機となった。
 これは日本中で推し進められている。説教の力は弱く、メンバー不足のため日々の辻説教をすることができないが、場所によっては大変効果的であり、集会も上々で、訴えにも熱がこもっており、多くの者たちが救い主が大いに必要だという感じに目覚めていた。
 我々は主が中津のために大切なことをまだ貯えていて、主が我々に準備したものを過去に前もってほんの少し味わせただけであると信じている。
 “収穫の主が、ぶどう畑にもっと多くの労働者たちを
  送り出すように汝らよ祈れ”
 教会は今広く眠りからさめ、彼らの時と手段を自由に与えている。年間の受け入れメンバーは八名である。


                     

マ-サ-・テ-ラ-師(W.J.Callahan夫人 ) 1902.8.26中津レポート

2016-10-06 16:53:41 | 中津教会の歴史
<中津における婦人活動>

結果に関して見る限り、今年は我々の婦人活動においてベストであった。6名の婦人に洗礼を施し、かなり多くの見習伝道者や探求者たちが集まった。年内に《婦人伝道者)バイブルウーマンは全くなかったが、もし木下師と彼の妻の熱心な協力がなければ、我々の活動は大きな痛手をかかえることになっていたであろう。
 しかしながら、彼はたゆまぬ熱意で働いてくださり、中学校の小川先生と聖書販売と宇野師、その他の人々の助けを得た。彼らの努力は十分な成果を生み出し、多大の個人活動や家庭訪問が行われてきた。
 女性会議には平均して約15名のメンバーがいる。聖書は特別な勉強であるが、その他に、料理や病気の手当の仕方等が教えられている。
 通常の聖書教室では、聖書の体系的研究を毎週行っており、女性たちが関心を寄せていることは喜ばしいことである。このクラスの数人はクリスチャンではないが、キリスト教が彼女らにとって必要なものであることが急速に認識されつつある。
 これらの女性の中には、家庭訪問において多大な助けをしてくれた者もおり、彼女らが、キリスト教徒となった後に役立つと確信できる体験を得てきている。2人の老女性は、2人とも50歳を越えているが、真の宗教的体験へ入り込もうとしている。
 
 先日、二人は、祖先の位牌を受けとって、お寺にわたしに行くと、寺の住職は、彼女たちが位牌を崇拝することをやめたいことを聞いて、彼女たちに位牌を渡さなかった。
 また、別の熱心な婦人は、洗礼を受けたいと願っているが、彼女の夫がそれに反対し、もし彼女がキリスト教徒になったら離縁すると言って彼女をおどしている。彼女は、すでにキリスト教を信仰しており、我々が祈るのは彼女の夫の心が和らぎ、彼女の心の願いがかなうことのみである。
 我々の日曜学校の生徒の人数は少し減っているが、暑い季節にも閉校せずに二つのにぎやかな日曜学校を開いている。
 日曜学校に通っている二人の少女が、洗礼の希望をしているが、今のところ彼女らの両親が同意していない。
 一年間の活動を振り返ってみると、もっとよくすればよかったことや見失ってしまった好機が、多々見受けられるが、我々は神の愛をいろいろと学び神へ奉仕しようとする喜びを認識してきている。我々は、大変親しくなった人々と共に希望と勇気を持って来るべき年を心待ちにしている。
  神よ、私ができるならば、私はあなたのもとで
  明日もまた御奉仕いたします。


中津教会の歴史NO3 キャラハン宣教師追悼文 

2016-08-20 09:34:30 | 中津教会の歴史
キャラハン宣教師追悼文 日本メソジスト時報 1936年7月10日
                                        2306号






  故キャラハン宣教師を憶ふ  沼野 生

 師は意志の人であり、果断の人でありました。。農村伝道の必要を痛感した師は、
遂にテントの伝道の方法による案を立て、その草分けのお手伝いをした小生は、その
設備に伝道案に求道者獲得に、各方面の交渉に押しの一手で今日の基礎を築き上げた
師を見てきました。何と云っても彼の伝道史を飾る最なるものは、この天幕伝道であ
りますが、その卓見熱心、計画、意志と果断をもって残された本伝道に師の姿を見る
 ものであります。
  師は苦痛を乗り越えた奮闘の人でありました。彼には肉体に一つの棘が与えられて
 いました。この度の死因はこれが真実の様であります。その前顎○の蓄膿症は常に頭
痛と共に気分を憂うつに又焦燥に悩ましたことでした。時にはこれを知らない人の為
に気難し屋に日和見的な人と誤られる事も一再ではなかった様です。
 この苦痛に打ちかつためにはなみならぬ信仰の努力を要しましたがその為に彼は度
々手術を要する病気を持ちましたが、その為に彼の計画を狂わせる様なことは殆どな
かった様です。ある師の側近者は彼を評して「先生は病気と仕事は別物です」と語り
ました。☆注意○の部分は活字が崩れていましたので読み取りが出来ませんでした。

 キャラハン先生の事について 福地平之進

 小生が始めて同師に接近せしは明治38年頃なり。同志は性温厚、荘重の方にて軽々し
   い挙動少しも見えず、且つ凡ての行動厳格にして、一度発言されし事は壱も
 後に引かざるの風あり。中津在任当時は信者中より随分誤解を受けられしこともあっ
 た。小生も始めの程は同師を知るに困り、誤解者の一人であった故に、意見の衝突
 談論風発一再ならず。共に主の御用を務むること21年、宣教師は7年毎に一年の休暇
 を得て帰国さるるの例あり。
  小生3度帰国を送らんとする時、口を開きて真情を打ち明けたり、曰く「先生これ
 で先生の帰国を送る三度、かえり見れば小生は先生に対して頑性の不孝児であった。
 然るに先生はこれを放つ事もせず伴いたもう。若し地位を転倒して私が先生の地位で
 あったらもうさきに首切って居たろう。先生は忍耐深い。先生の健康を祈ると」

  以来再び帰朝の暁に際して先生と私の間は一変して衝突障害はどこかに雲散して実
 に相知の友となったので愉快に主の御用に共働し退職帰国休養されんとし、態々中津
 に来られなつかしき教会員に別れを告げ、小生とは更に相互に撮影して持ち帰られた
 り。犠牲献身の生涯とは本当にキャラハン先生の御一生を差すならん。日本国家にお
   ける霊界の開拓者 宗教界の一大偉人として永く先生を偲ぶ。


  キャラハン師を追悼す    宇都宮充

  肝臓の手術を施して、一度快方に向かひたるも宿痾の蓄膿症の為に4月16日 テキサ
  ス州サナトニオにて遂に天に召される。師は死の間際迄日本の事忘るる事能はず最期の
  二日間は日本語を口ずさみつつ召天されしという鳴呼。


中津教会の歴史NO2護教の記事・日本基督教新聞より

2016-08-05 11:29:32 | 中津教会の歴史
護教 1911年6月10日発行
   (中津教会近況) 教会昨年 高橋牧師赴任以来各方面に発展し来たれり。もっ
    か40余名の会員を有し他行会員を除く他はほとんど礼拝は言うにおよばず。各
    種の集会に出席し、各自全霊に満たさることを期待しつつあり。
    先月15日より一週間連夜祈祷会を開きしに毎集会小さしと言えども祈祷室に
   満員にて遅刻せしき者は室内に入る能はざる時ありしぐらいなり。尚今週月曜
   日より早朝祈祷会を開きおれり。ペンテコステ記念日曜日には昔日ありしごと
    く、会員一同の上に聖霊の火の下らんことを望みし祈りおれり。かくして一大
   リバイバルのおこらんことを予期しつつあり。これがため各教会諸兄弟の熱祷
   を乞うやせつなり。本月中旬鵜崎博士の来津。講演あるはずにてもっか準備運
   動中なり。
    伝道館、昨年暮れより日本福音伝道隊エ・エルダイヤ師夫妻及び宮村伊三郎
   夫妻の来援あり。館を市の中央なる京町新聞社の隣に接地して毎週火金の二晩
   さかんにリバイバル運動に尽力されつつあり。同運動により求霊され熱心に求
   道しつつあるもの続々とおりました。
    日曜学校目下教師に不足なく生徒に変化なく順調の姿なり。出席平均は54~
   56名を上下しつつあり学科は万国日曜学科を採用。毎月二回教師会を開き学科
   の研究事務の打ち合わせをし、校の整理と発展を計りおりたり。生徒は父兄よ
   り入学願書を提出せし者はただちに生徒原簿に登記し、又3カ月以上引き続き
   出席せる者は生徒の資格ある者とし登録する。各集会多いため比較的家庭訪問
   の出来ないのは残念なり。なお伝道館に分校を設置し、日曜日午後開校し。追
   々と地盤固まり来たり。生徒の動揺少なきようなりきたれるは当局の喜びおれ
   るところなり。
   (共励会について)昨年7月発会。目下会員13名 青年男子のみにより組織さ
   れ、毎月2回集会を催し、一回は懇話会にして先月より高橋牧師により創世記
   につき講話を受くることなれり。伝道部の運動として毎月 200部のキリスト教
   新聞を各会員に分かち、市内に配付し伝道の門戸を開くことに努めている。
    会員は青年のみ故動揺多し。土着青年の入会を希望しおれり。青年女子共励
   会共に常磐会と称し婦人伝道師を会長に霊的修養に努め、もっぱら慈善的方面
   に尽力しつつあり。その他婦人会 老人会等の各集会も会ごとに恩寵豊にして
   感謝しおれり。

   中津教会史Q&A「共励会とは?」 教界時報1931年1月30日号参照
                                            
    共励会とは一時「ウェスレ-共励会」と呼んだ。更にたどれば、米国に於い
   て呼んでいるように「エプワ-ス同盟」(Epowth League)と言
   う名称で知られていた。
      エプワ-スとはジョン・ウェスレ-(1703年) が生まれた英国リンコルンシ
   ャイア-の歴史的な土地でメソジズムの発生した地 共励会精神の芽生え育っ
   た地である。父サムエルと母スザンナとによって営まれたウェスレ-の家庭は
   聖書に親しみ家庭礼拝を重んじ、敬虔な生活を営むこと、時間を厳守し、位置
   と場所とを一定し、秩序的に行動する組織的気風に満ちていたこと、優柔不断
   を厳禁し、事々に徹底すること、相互愛の聖訓を実行すること等は、その家訓
   とするところであって、こうした雰囲気の中で培われた精神はジョン及びチャ
   -ルスを通して全メソジスト教会に遺され、共励会そのものの指導精神となっ
   た。
    ウェスレ-兄弟が牛津大学(オックスフォ-ド大学)で同志の者達と組織し
   た聖クラブは修養と活動によってその存在を明らかにした。 修養した彼らは
   他面街頭に出て、キリストの御用をつとめた。先ず青年学生等の良友となり、
   彼等が陥り易き悪癖の排撃に努め、チ-ムを作りて監獄を訪ね、囚人を慰め救
   に導き書籍を貸し金銭を援助して、その更生につくした。彼等は週一回必ず貧
   民を訪問し、病者を見舞い、福音を説き子女の教育を手伝った。学徒の彼らに
    は多忙のプログラムであった。
    聖クラブの起源、性質及び使命は日本の教会の歴史に流れ、共励会の骨子を
  形作るに至った。
    共励会実践綱領①教会の集会に出席すること②祈祷に励むこと③聖書研究に
           努力すること。
    中津教会共励会の活動 聖書研究 病人訪問 製紙工場での聖書研究など
    青年の活動を共励会と呼ぶ。

    ・西部年会記録より「中津教会は長老古坂啓之助氏の司牧第4年になり近年会員の
   他に移転する者多くして現住会員の増加を見ざるも、氏多年の牧会の経験に基き
  教会を指導してい能く一致し財政も良好なり。フランク氏夫妻は聖書研究会を組
   織し共励会の働きを援助し直接 間接に教会の為に熱心につくしおれり。又教会
  は宣教師と協力して米町の説教所を塩町に移し日曜学校の説教会共に盛りなり。
   受洗者11名あり」



      1913年 大正2年
 (中津教会主任)古坂啓之助牧師就任  (中津伝道教区主任)J.W.フランク
  中津伝道教区は行橋講義所 豊津講義所 後藤寺講義所 伊田講義所となる
   陪餐会員54名(現住陪餐会員35名) 日曜学校平均出席 43名

 (古坂啓之助先生) 古坂先生は弘前バンドの一人であった。先生はいつも 「俺は
  死ぬまで伝道する」と言っていた。 牧師は事務員や保険勧誘員の様ではいかぬが
  先生の時論であった。  回りの者は先生の洋服姿を見たことがない。羽織袴をま
  とい直立不動の姿勢は、日本武士の面影を偲ばしめた。
   先生の日本服にまつわる面白い逸話が残っている。
  かって、朝鮮に巡回伝道せられた。平壌教会ではメソジスト大先輩の巡回というこ
    とで、教会員挙げて駅に迎えに行った。所が先生らしい方が居ない。彼らは肥った
    ハイカラな先生を予想して居たのであった。もしやあの日本服の剣道の先生らしい
    人かもと聞いて見る と「わしは古坂だ」と一同は驚いた。
   先生は伝道五十有八年の神の僕であった。
   (日本基督教新聞2269号参照)



 

中津教会の創立

2011-09-17 22:28:10 | 中津教会の歴史
聞き書き キャラハン師話


キャラハン師は米国ジョ-ジア州にあるエモリ大学に在学中、後に宇和島の宣教師
となりたるタ-ナ-師と共にランバス監督の講話に大いに感激し、宣教師となる決心
をなし、同校卒業後四国の松山に学校の教師必要と新聞公告にて知り、願書を出し3
年間教鞭を取りて後長崎の活水女学院教師ミス・テ-ラ-と結婚をなされた。かくて
明治27年秋の初旬、キャラハン師は中津に任命された。秋と言ってもまだ暑い日の午
後大分の宣教師ウエルソン師の案内にて共に小倉よりの遠き道のりを人力車に揺られ
中津に参りました。当時は勿論今の如き自動車も汽車も無く船にたよるのみでした。
 そして、松風の音ささやく宿屋に旅装をとき、疲れたる身体を床に横たへ深い眠り
についておると、突然ウエルソン師の笑い声にて夢を破られ眠い目を瞬きながら起き
上がってみると此の宿屋の下に大騒動起こっていて、それも誰かのどなりわめいてい
る声でした。
「この宿屋に憎い毛唐を止めていることは本当か」と大の男が怒鳴りたてている。
宿の主はおどおどして小さくなりながら、「西洋人の男を二人泊めた」 と答えている。
「どんななりをしている奴か。その毛唐人は。おまえたちの根性が腐っている。そ
んな奴を泊める奴が有るか」。「売国奴 汚らわしい 日本人の恥」と
ますます怒鳴りつけている。
「一人は若くて鼻の下に一寸ヒゲをはやしているが、もう一人の方は長い太い濃い
ヒゲを生やしてまして、顔は真っ赤で、まるで地獄から来た鬼のようでした」と宿屋
は答えた。それが余程おもしろかったと見え怒って来た大男も何もいわず何も害を加
えず立ち去った。

キャラハン師は鼻の下に一寸ヒゲを生やして居たが、ウエルソン師は長いヒゲを生
やして居た。その後町の真ん中に古き宿を見つけて修繕し、3年間おのが住家と定め
た。同年12月4日家族と95トンの汽船で、中津港に着き、寒気身にしむ午前4時同
師夫妻と生後4カ月の女児と共に女中を乗せし船が中津沖にイカリを下した。海水の
関係上午前10時までは船の陸に着くことが出来なかったので、キャラハン師と裸足で
同師の女児を抱き海水に足を濡らしながら上陸し、女中は赤んぼうの篭を持ち、夫人
は船人の背に負われ上陸した。船人と其の夫人の背丈の高さの比は半分の丈でした。

海岸にて薪を集め凍えた身体を暖め、又は濡らした布をかわかした。暫時いこいて
後海岸より遠き道程を歩きて、永い冬の夜も白々と明けそむる頃、己が家に着いた。
誰一人師を歓迎する人も無き家に着いたけれども、彼ら夫妻は大いに喜びに満たされ
ていた。そして師はあらゆる方面に伝道し大いに人々より尊敬され愛された。

当時、師は県下で一番始めての自転車の持ち主であった。町民は自転車が珍しく
「手品の小父さん」と呼んでいた。又同師は豆の種子を町民に与えたところ同師の名
前を取り「キャラハン又はキャラ豆」と呼んで賞賛している。
  後キャラハン師の語った言葉によれば「中津の人々程私共に親切にしてくれた人々
は何処にもない。私どもは永久にこの中津の人々の親切を忘れることは出来ない。私
共の長男が冬の寒い時に死んだ時も中津の友が肉親よりもっと親切にしてくれたこと
は忘れることはできない。又一番うれしかったことは「私どもの家の近所の人が一番
始めの受洗者でした」と常に喜びながら語っておられました。

我々中津の信者として永遠に忘れることの出来ないのは、照雲寺(伝承によれば自
性寺という説もある)に葬られてある同師の長男ハ-ベ様の墓であります。これこ
そ中津伝道の犠牲の記念として我々は感謝して永久に清く保存すべきと思います。
日本の所々に於いての幾星霜の伝道の後 師は高齢に達し昭和10年6月米国への帰
途中津へ告別に参り同師が以前導きし人に再会した。その中に現在中津教会の主たる
信者として又は中津中学の教師として人々に大いに尊敬され慕はれて居る石丸春雄先
生こそはキャラハン師による中津伝道当時の日曜学校生徒でした。 
米国帰途中津出発の際多くの人々の盛大なる御見送りにより帰られる。
1936年4月に召天され、哀悼は絶えず。
            関西学院大学資料室保存「キャラハン師聞き書き」





 中津教会の歴史  
1891年 明治24年
キャラハン師来日(YMCA事業の教師としての来日)

(ウィリアム・ジャクソン・キャラハン)1866年 ジョ-ジア州ホワイトビルにて出生
 1893年南メソジストミッションに入り、翌年は南ジョ-ジア年会に加名し44年間の在
 日本の伝道生涯を始められる。1936年4月16日 テキサス州サン・アントニオにおい
 て召天

1893年 
キャラハン師はマ-サ-・テ-ラ-師と結婚

(マ-サ-・テ-ラ-) 長崎の活水女学院で教壇に立っていた。日本メソジスト教
 会の年会記録(1937年)に載せた追悼文によると「生涯の良き伴侶としてキャ
 ラハン先生の伝道事業を助けられた婦人宣教師」と記述している。

1894年 
キャラハン宣教師、中津へ遣わされる。
(中津)当時、中津は豊前地域の中心として栄えた町、南メソジスト教会が大分県で
 は大分市についで中津に教会を設けたのも、中津の重要性を認識していたからであ
ろう。中津教会は国東までの大分県北地域と福岡の行橋 田川地区までを布教の範
囲としてた。

1896年 
長男ハアベ肺炎で死去
ハアベは前年の11月に生まれたばかりで、わずか2カ月の生涯だった。だが嘆き悲
しむ夫妻を近所の人々の心が救う。それまで親しくなかった人々が会葬に訪れ、近
くの自性寺に手厚く葬ってくれた。ハアベの墓石は第二次大戦の前後日本キリスト
教団中津教会の敷地内に移される。

1897年 
5月5日     中津教会創立
借家の2階に住んで1階をチャペルと夜間学校に使用

1898年
 キャラハン邸(金谷森ノ丁)の完成。
登記簿によると1903年(明治36年)5月13日登記「北亜米利加合衆国ジョ-ジア
  州ホワイツビル村 当時下毛郡中津町2229番地ダブリュ-・ゼ・キャラハン右所
   有権ヲ登記ス」とある。1903年以前の建物である。

  キャラハン邸は、日曜学校や英語教室、料理教室、洋裁教室などに用いられ、
 多くの市民に親しまれた。
  クリスチャンの宇野さんという人が、キャラハン師の良き助け手となり、日曜
 学校などを手伝う。彼は中津裁判所の若い判事です。後に裁判所を辞め、1903年
 には関西学院に入学。聖書の屋台を引いて路傍伝道をしたとも言われている。
  1901年の幼児洗礼者の親であるならば、宇野真一という名である。


1899年
 キャラハン師は中津尋常中学校5年級英語委託教師として聘雇される。国民派機
関中津新報が、「たとい学校内部にて宗教談話をなさずとするも知らず知らずの間
 に感化を及ぼすなり」「交通の便を得る生徒が、英語研究その他にてキャラハン氏
 に出入りすれば、宣教を以て生命とする宣教師がこれを利用しないわけはない」
「第二国民たる生徒をキリスト教化せられなば一大事。国民教育の目的を失するも
 のなり」などと途方もなき論議を加えた。
 福岡県下築上郡 大分県下下毛 宇佐二郡の佛徒各宗協同会というグル-ブが出
来その委員を中学校長 下毛郡長 大分県知事に派しキャラハン師に解雇を切迫す
る。        (以上 護教1899年3月11日発行「教報」参照)


1901年
初めての受洗者が出る
 中津リポ-ト10月10日の報告書に日曜学校の様子が伝えられている。「最初の日
 曜日に20人の子供たちがやってきて我々は喜ばしく思った。その次の日曜日に
 40人。又その次の日曜日には百人の子供たちがやってきた。彼らは家から庭にま
で溢れた」。

 その他の活動
 (サンシャイン・ソサエティ-)14~16才の少女を対象「親切であれ」をモット
  -に、貧しい人や病人に奉仕する活動。


受洗者名


 5月   林 竹代 青木胤彦 青木愛子 林しゅん子





「最初に林しゅん子姉の一人娘林竹代姉が救われました。全く奇跡的でありま

 す。その目は見えず、物もすらすら言えないその娘が非常に良い信仰を持っ

  た。そのために生嶋医師が感化され、一家を挙げての伝道精神に燃えた。そ

  の入院患者糸井一家が入会している。中津教会は発展していくのである。

  宇野氏は益々盛んに伝道された。そのため一時夫人は離婚して生家に帰っ

 たのであります。ただし、御主人の熱心な伝道に悔い改め、自らも婦人伝道

 師となり、娘も伝道師に嫁し、母堂も洗礼を受けて、私が竹田で伝道してい

 る時は会計幹事となり、自宅を教会として百才近い天寿を全うされた」。



              福地幾一牧師の証言


                    1944年


 生嶋医師-眼科の先生 生嶋吉之助という名である。