<中津の伝道拠点>
まもなく閉じようとしている今年は、中津の事業において、聖霊のすばらしい成果と驚きで一杯であった。というのは、都合により
当分の間中津の東と西にあたる国東、田川地区での活動には手をつけずに、我々の活動が中津の都市部にほとんど限られていたからである。
他の会議被任命者が活動を行わなかったため、最初の公務は10月13日の日曜日に催された。我々は、6日の土曜日に着いたが翌日の調整を行うにはあまりに遅く、その時村上師は、彼の新しい開拓地の多度津に行っており、教会は8月15日よりずっと閉じていた。最初から、我々には熱心なひとりの平信徒の援助のみしかなかったが、彼をクラスリーダーに任命し、その時以来彼には訓戒する許可を下した。
1月から3ヵ月間、個人教授の藤井師の助けを受けていたが、彼は関西学院へ行かなければならなくなり、説教の援助に関する限り我々は実際上その年の間中、とり残されてしまった。その上、村上師が集めたすべての探求者たちを失ってしまった。彼らは、教会の長い閉鎖の間にばらばらに散ってしまい、中津にはだれもいなくなったのだ。ひとりの左官と以前堕落したRRの従業員を除いて、ひとりの伝道者のみならずひとりのキリスト教徒もいなくなった。
去年の第4回毎季会議で選ばれた幹事は小倉に住んでいた。そのため、1月末の第2回毎季会議で初めて後継者が選出されたのだ。それ故に、我々の会計報告は6ヵ月をカバーしているが、我々の伝道は8ヵ月と半月のみであった。通常の伝道事業と信者会議への出席状況は良好である。
中津は、今までにないほど目ざめている。というのは、聖霊が人々の間に活動しており、あらゆる階級の男女-裁判官、弁護士、教師、学生、商人、農夫、新聞配達人、職人が聖書を学びたいと願い集まってきているのだ。しかし、我々はそれ以上の事が出来ないので、彼らはそっぽを向かねばならない。最も希望のもてる呼び物は、家から家へと家庭を訪問することである。ところが我々が訪問することができる以上に,聖書を教えてもらうことを喜んで受け入れる家庭が多いということである。
婦人伝道者は、家での聖書教室や聖書を教えてくれるようたのまれた家庭女性のために精一杯活動している。中津の女性たちのみを助け、その他の地域で救いを求めている者たちへの手助けができないのであろうか。そのようなことは決して許されない。
女性及び子どもの活動レポートは、私の妻の手にゆだねる。通常の説教、英語及び聖書教育、家庭訪問、小冊子配布の他に、我々はある特別な仕事を持っているからである。
5月の地区会議の後ただちに、W・C・T・Uの巡回福音伝道者であるKミヤマ師が3日間程我々といっしょに滞在していた。毎晩我々は教会において節制の講義や説教を行い、昼間はより高貴で清い生活を導いていくことに関心を持っている者たちとの話し合いで満ちていた。その上さらに講義もおこなった。ミヤマ師は、節制について、中学校や高等小学校で講義をしたり、刑務所では、全囚人、警察官出席の下、初めて説教をした。わかりやすくすばらしいミヤマ師の説教は悔い改めより高貴な生活へ向けて出席者の心を動かした。
次の週は、伝道(促進活動)に関連して特別な努力を払う時機となった。
これは日本中で推し進められている。説教の力は弱く、メンバー不足のため日々の辻説教をすることができないが、場所によっては大変効果的であり、集会も上々で、訴えにも熱がこもっており、多くの者たちが救い主が大いに必要だという感じに目覚めていた。
我々は主が中津のために大切なことをまだ貯えていて、主が我々に準備したものを過去に前もってほんの少し味わせただけであると信じている。
“収穫の主が、ぶどう畑にもっと多くの労働者たちを
送り出すように汝らよ祈れ”
教会は今広く眠りからさめ、彼らの時と手段を自由に与えている。年間の受け入れメンバーは八名である。
まもなく閉じようとしている今年は、中津の事業において、聖霊のすばらしい成果と驚きで一杯であった。というのは、都合により
当分の間中津の東と西にあたる国東、田川地区での活動には手をつけずに、我々の活動が中津の都市部にほとんど限られていたからである。
他の会議被任命者が活動を行わなかったため、最初の公務は10月13日の日曜日に催された。我々は、6日の土曜日に着いたが翌日の調整を行うにはあまりに遅く、その時村上師は、彼の新しい開拓地の多度津に行っており、教会は8月15日よりずっと閉じていた。最初から、我々には熱心なひとりの平信徒の援助のみしかなかったが、彼をクラスリーダーに任命し、その時以来彼には訓戒する許可を下した。
1月から3ヵ月間、個人教授の藤井師の助けを受けていたが、彼は関西学院へ行かなければならなくなり、説教の援助に関する限り我々は実際上その年の間中、とり残されてしまった。その上、村上師が集めたすべての探求者たちを失ってしまった。彼らは、教会の長い閉鎖の間にばらばらに散ってしまい、中津にはだれもいなくなったのだ。ひとりの左官と以前堕落したRRの従業員を除いて、ひとりの伝道者のみならずひとりのキリスト教徒もいなくなった。
去年の第4回毎季会議で選ばれた幹事は小倉に住んでいた。そのため、1月末の第2回毎季会議で初めて後継者が選出されたのだ。それ故に、我々の会計報告は6ヵ月をカバーしているが、我々の伝道は8ヵ月と半月のみであった。通常の伝道事業と信者会議への出席状況は良好である。
中津は、今までにないほど目ざめている。というのは、聖霊が人々の間に活動しており、あらゆる階級の男女-裁判官、弁護士、教師、学生、商人、農夫、新聞配達人、職人が聖書を学びたいと願い集まってきているのだ。しかし、我々はそれ以上の事が出来ないので、彼らはそっぽを向かねばならない。最も希望のもてる呼び物は、家から家へと家庭を訪問することである。ところが我々が訪問することができる以上に,聖書を教えてもらうことを喜んで受け入れる家庭が多いということである。
婦人伝道者は、家での聖書教室や聖書を教えてくれるようたのまれた家庭女性のために精一杯活動している。中津の女性たちのみを助け、その他の地域で救いを求めている者たちへの手助けができないのであろうか。そのようなことは決して許されない。
女性及び子どもの活動レポートは、私の妻の手にゆだねる。通常の説教、英語及び聖書教育、家庭訪問、小冊子配布の他に、我々はある特別な仕事を持っているからである。
5月の地区会議の後ただちに、W・C・T・Uの巡回福音伝道者であるKミヤマ師が3日間程我々といっしょに滞在していた。毎晩我々は教会において節制の講義や説教を行い、昼間はより高貴で清い生活を導いていくことに関心を持っている者たちとの話し合いで満ちていた。その上さらに講義もおこなった。ミヤマ師は、節制について、中学校や高等小学校で講義をしたり、刑務所では、全囚人、警察官出席の下、初めて説教をした。わかりやすくすばらしいミヤマ師の説教は悔い改めより高貴な生活へ向けて出席者の心を動かした。
次の週は、伝道(促進活動)に関連して特別な努力を払う時機となった。
これは日本中で推し進められている。説教の力は弱く、メンバー不足のため日々の辻説教をすることができないが、場所によっては大変効果的であり、集会も上々で、訴えにも熱がこもっており、多くの者たちが救い主が大いに必要だという感じに目覚めていた。
我々は主が中津のために大切なことをまだ貯えていて、主が我々に準備したものを過去に前もってほんの少し味わせただけであると信じている。
“収穫の主が、ぶどう畑にもっと多くの労働者たちを
送り出すように汝らよ祈れ”
教会は今広く眠りからさめ、彼らの時と手段を自由に与えている。年間の受け入れメンバーは八名である。