日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

コリントの信徒への手紙一1:10-17「教会の一致と交わり」

2021-09-11 09:19:49 | 説教

   それぞれが、人間的な強さを誇るのではなく、弱いところで結ばれていくことが大切です。十字架の福音は、弱いところに働く、大いなる神様の愛です。

 教会内に人間中心的な分派が作られるということは、教会の群れを分断するだけではなく、それ以上に主キリストご自身を幾つにも切り裂くことなのだとパウロは言います。

「仲たがいせず」とも言われていますが、「仲たがい」という言葉は原語でスキスマと言います。それは「破れ」という意味でもあります。分裂に陥ることなく、一つとなるように、と勧め教えているのです。

  愛とゆるしの十字架の福音が語られているところでは、キリストが働かれ互いに認め合い、許し合う関係が生まれていきます。

 学問やこの世の知恵は、確かに人間の生活の役にたちますが、すべてが一致をもたらすものではありません。

  キリストの十字架の愛が、みなを一つにしていくのです。

 同じ思い、同じ心は、ユニゾンではなく、コーラスです。振り子の自由さは、1カ所につながるところすなわち支点があるからです。磁石の針は北に向かった時に落ち着くようにこの一点こそがキリストです。人ではなく、キリストに結びついていくことが大切です。

 隔ての壁は現実の問題として、存在していることでしょう。撤去してしまうことはむずかしいことですが、主イエスの十字架を見上げていく時に、人間の敵意という壁は徐々に低くされていき、その上から和解の手が延ばされていきます。

 多様で様々な立場のある集団が、調和を保ちつつ、より豊かな関係へと導かれていくのです。

 


コリントの信徒への手紙一15:35-52 「究極の希望」

2021-09-04 13:59:22 | 説教

  15章42節以下には、終わりの日の復活の記事が書かれています。 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱い者でも、力強いものに復活するのです」と書かれています。朽ちるべきものが朽ちないものを着て、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになる。 それが、私たちの最後の収穫の時の「復活」の約束です。 

私たちは、朽ちないもの、神の輝きに満たされるもの、弱さが強さに変えられる者です。

 「蒔かれる」というのは、人が死んで、土に返っていくことを意味しています。

蒔かれる時は、「朽ちる者」「卑しい者」「弱い者」と書かれていますが、結末は滅びではなく、神の力によって、輝かしい姿に復活すると書かれています。

  種そのものは死んで、そこから新しい芽が芽生えてます。体も、一度、死んで、そこから新しい体が生じます。人は新しい体が与えられるのです。

 死ねば朽ちてしまう現在の体が、新しい別の体に変えられて、復活するのです。強く、罪に汚れることなく、永久に朽ちることのない体だと表現されています。

人間は、創世記によると土から生まれたと書かれています。土から生まれた人間が、土に帰っていく、そのことだけを考えると空しくなります。しかし、肉体が土になった、その先に、新しいものが生まれると希望が示されています。

「支え」にも「見えるもの」と「見えないもの」があります。足を骨折した時に支えになるのは、見えるものでは「松葉杖」のような支え。見えないものでは、「思いやり」「いたわり」などの「愛」が支えになります。

  どちらも必要な支えになります。しかし、より大事な支えは「見えない支え」です。なぜなら誰も奪えないものだからです。このように見えない支えがしっかり土台となっている人は、どんなことがあっても「平安」が「不安」に勝るのです。

 まかれた種は土の中で形を失いますが、その命は実りをもたらします。慈しみに満ちた農夫が心の支えとなり、命を育んで下さいます。


「忍耐」ローマの信徒への手紙8:18-25

2021-08-28 17:07:23 | 説教

私達は一人で呻いているのではないのです。孤独な中で呻いているのではありません。パウロは語ります。26節、27節の御言葉です。「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」

 聖霊は、弱い私達を助けてくれるのです。

  聖霊は、よくハトに譬えられます。人間は言葉で表現する喜びと悲しみがありますが、人が発声する一番深い心の奥底を表現するのは呻きであります。

 「ハトは鳴くことを知りません」と言われています。その声はうめくようです。

  聖霊は人間の呻きに共感して、弱い私たちのために、うめくように神様にとりなし、私たちを助けてくれます。

 地上におけるうめきは尽きないことでしょう。呻き声とは言葉にもできないような苦しみです。これ以上苦しんだら、もうそれ以上の苦しみはない世界を神は示されます。

26節の、「助けてくださる」、という言葉は、聖書の他の箇所には、ほとんど出てこない、珍しい言葉です。小さな三つの言葉が、組み合わされて、造られた言葉です。

三つの言葉の最初は、「共に」という言葉です。二番目は、「代わって」という言葉。三番目は、「受け取る」という意味の言葉です。この三つの言葉の、合成語なのです。

26節には、続いて、「聖霊」が、「言葉にあらわせないうめき」をもって、「執り成してくださる」、と語られています。

聖霊が助けてくださる、というのは、聖霊が、私たちと「共にうめき」、私たちに「代わってうめき」、そして、私たちの苦しみを、受け取ってくださった、ということなのです。

祈ることさえできない、私たちと「共に」、私たちに「代って」、私たちの苦しみを、「受け取ってくださる」。それが、御霊の助けなのです。

 私達は苦しみと栄光を切り離して考えてしまいがちですが、それはつながりのあるものなのです。


コロサイの信徒への手紙3:18-4:1 「家族」

2021-08-20 12:58:38 | フォトギャラリー

人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

                        コロサイの信徒への手紙3:23

  コロサイの信徒への手紙が私たちに教えることは私たちが神様によって「新しい人」とされていると言う事実です。聖書が私たちに「新しくなった」と言う場合はこれと大きくことなり、私たちの外側だけではなく内面、つまり生き方の原理が変わったと言うことを語っているのです。つまり、今までは神様に敵対して歩んできた私たちが、今は神様に従う者とされたと言うことを言っているのです。そしてその変化はイエス・キリストの救いによって私たちの上に実現したのです。

 イエスを信じる者とそうでない者は外面においては変わることがありませんが、その内面においては全く違った原理が動いています。そして今日の箇所では「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(12節)と言った徳目が語られています今日読んだ聖書箇所は、コロサイの信徒への手紙の中で〈家庭訓〉と呼ばれるまとまりです。夫婦関係、親子関係、そして主人と奴隷の関係、これら家庭を構成する3つの関係において、どのように関わることが「主を信じる者」(18節)、キリスト者としてふさわしいのか、ということが記されています。

私たちは、どちらかといえば、奴隷について正確な知識を欠いており、余り関心をもっていません。それは私たちの周囲に奴隷制度がないからでしょう。しかし奴隷のように扱われている者たちはいます。奴隷とは、奴隷制とはどのようなものを言うのでしょうか。

奴隷は、古代世界において、その社会を支える重要な労働力でした。今日の工場労働者以上に、重要、不可欠の存在でした。農場でも、家庭でも、王宮でも、軍隊においてすら、重要なものでした。しかし「物、生きた所有物」「生きた道具」としか彼らはみなされていませんでした。

奴隷となった瞬間から、剥奪されました。勿論、人格として認められません。

生きてはいるが、それは生産の手段、家内仕事の道具として生きているだけでした。

奴隷に対して「主を畏れつつ、真心を込めて仕えなさい」、と勧められます。「主に対するように、心から行ないなさい」と言われます。ここでは、嘘偽りは無しにしなければなりません。

当時の社会では奴隷制度が一般的でした。そして、奴隷が“物”として扱われていた当時としては、神の前に平等、奴隷は主人に「真心を込めて従い」(22節)、主人は奴隷を「正しく、公平に扱う」(1節)という教えはあり得ない、ものであったと言うことができます。

 夫婦関係にしても親子関係にしても、主人と奴隷の関係にしても、その教えの中心となっているのは、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(23節)ということです。 目の前にいる人を、主イエス・キリストだと思って対し、振る舞うのです。その心がけが少しでもできるなら、その人間関係は愛で包まれます。

 「人に対してではなく、主に対してするように」、私たちもこの御言葉を、どんな人との関係においても心に思いたいと願います。

新しい人の特徴である「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は、新しい人に与えられる性格であります。 ただ私たちが忘れてはならないことは、パウロは私たちがこれらのことに努力を傾ければ、「もしかしたらあなたたちもこのような人になれる」と教えているのではないと言うことです。むしろパウロはキリストが私たちのために救いを成し遂げ私たちを「新しい人」としてくださったのだから、これらのものが私たちの生活の中に必ず実現すると教えているのです。 宝物が隠されているから宝探しには意味があります。新しい心の中に神様は、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という宝物を隠して下さっています。それを探し出し見つける時に新しい人は豊かな実を結びます。そして、世界の人々が神の家族となれるのです。


使徒言行録20:17-35「苦難の共同体」

2021-08-13 10:58:15 | 説教

「受けるよりは与えるほうが幸いである」使徒言行録20:35

 

パウロがミレトスに着いた時に、エフェソの教会の人々をパウロがわざわざ呼び出しております。ミレトスからエフェソは60キロメートルも離れたところにあります。よほど双方は会いたかったと考えられます。

パウロはこれからエルサレムに向かって進もうとしております。そこでは苦難が待ち構えております。今生の別れの挨拶をするパウロの切なる思いはエフェソの教会の人も受け止めております。

彼は「受けるよりは与える方が幸いである」と述べております。日々のパンに欠けた状態では、飢えた人々にパンを与えることは難しく思えます。又与えられる方を中心に私たちは生きているところがあります。

神から頂いたものは自分だけで握りしめるのではなく、与えることの中に豊かさがあるように思います。誰でもが与えるよりも受ける方が幸いであると私たちは考えがちです。

キリスト教徒で教育者の新島 襄と、片や日本の海軍創始者で政治家の勝 海舟という、異なる2人の間に交友関係があったようです。八重の兄の山本覚馬が江戸に出て学んだ塾で勝 海舟と一緒だったことから、この縁によるものであろうと言われています。

 

「彼らは世より取らんとす、我らは世に与えんと欲す」と言う言葉があります。この言葉は、同志社の創立者新島襄の葬儀に際して勝海舟が書いたとされる言葉で、新島襄の生き方、示したものです。 彼は「取る」のではなく「与えること」が大切ですと繰り返し、学生たちにも述べ伝えてきました。

神は、神の御子イエス・キリストを、私たちに無償で与えて下さいました。イエス・キリストは、誉れと栄光の権利を捨て、みずから謙り、貧しい一人の人間としてこの世に生まれ、自らの命を与え尽くして、私たちの代わりに、十字架で死んで下さいました。この主イエスの生き方は、「与える」という生き方でありました。

受ける方が幸いだと生きている私たちを、その「貪り」の罪の縄目から解き放つ力がそこにあります。

はんぶんこを題材にした絵本があります。どこまでいってもはんぶんこ(文 安東みきえ  絵 塩田守男) はんぶんこ(さく え TERUKO)

 どちらの絵本も味わい深い絵本です。

 ザアカイもイエス様と出会ってはんぶんこの素敵な世界へと導かれました。

 はんぶんこという日本語は、暖かい言葉です。

 はんぶんこすると、与えた半分は半分以上のものになっていきます.お友だちとの友情が深まったり、他者がしあわせになるのを見て自分がしあわせになったり。

 はんぶんは自分にとっておくという考え方もいいなあと思います。楽しい遊びの提案もアイデアも、好きだと言う気持ちも半分だけ伝えて、相手にも考えてもらったり、想像してもらったり、選択の余地を与えたり、委ねたり、人格を重んじたり。

はんぶんこで生まれる人間関係は、楽しくて、豊かで、暖かく、周りの人を幸せにしてきます。与えたはんぶんこがそれ以上のものになっていくことでしょう。

どこまでいってもはんぶんこ・・・・・

きっとはんぶんこすることの喜びは永遠に伝えられていくように思います。

苦難の生活の中で共同体は分かち合うことによって喜びとそれを乗り越える力が与えられていきました。