小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

小皇帝と拝金主義と儒教と国家:

2013年10月24日 | 社会戯評
小皇帝と拝金主義と儒教と国家:
文化大革命の時代には、旧弊、封建主義の権化の如く、否定し尽くされた「儒教」が、再び、今日、中国では、国家による行き過ぎた拝金主義によって、蝕まれたその他人への思いやりやら、両親への尊敬の念とか、謂わば、道徳的な精神の求心力の復活を期して、国を挙げて、国際的な華僑団体をも巻き込んで、国内外で、共産党主導による道徳精神・復古主義のキャンペーンが、繰り広げられているようである。確かに、旧ロシアでも、ソ連邦崩壊の時に、ロシア正教の宗教の復活を、精神的なよりどころとして、政治的に、大ロシア民族統合の象徴として、利用しようとしたことを想い出さずにはいられない。改革開放の成功者ですら、今日的な「拝金主義」と、行き過ぎた「成果主義」による精神の荒廃には、燃え尽き症候群ではないが、さすがの物質的な富の成功者でも、その精神的な喪失感は、大きいものがあると言われている。それにしても、一人っ子政策の鬼っ子であるところの「小皇帝」と、改革開放政策の行き着く先の猛烈な競争・成果主義と拝金主義の影響は、一方で、官製儒教の教育への取り込みが、他方で、その成功例に乗ることが出来なかった多数の底辺の都市労働者や農民工労働者の非合法な「地下教会や家庭教会」へと、流入しているのが、これ又、今日の現実であろう。中国政府による報道関係の記者の免許を更新するための再教育といい、国家による宗教や道徳への主導的な影響力の行使といい、どのような揺り戻しが、今後、その反動として、起きてくるのであろうか、目が離せない。謂わば、「諸刃の刃」であることだけは、間違いないであろう。但し、それが、どのような形で、自分自らに、向かってくるのであろうか?反日・愛国無罪とか、富める者から富めば宜しい、とか、格差是正とか、公正・平等、それらが、今日、この先、どれ程の時代としての「説得力」を有するのかは、もはや、誰しもが、疑問に思っていることだけは間違いなさそうであろう。鬱の起源が、本当に、成果物(富)の「公平・平等」という分配というものに根ざしていたという仮説に従えば、もう、今日の社会は、「総うつ状態」に陥ってしまったのであろうか?貧しくても、皆、それなりに、平等だったという思いは、もう、昔の田園風景とともに、遠い想い出と化しつつあるのであろうか?番組を視ていて、複雑な思いに駆られてしまうのは、何故だろう。



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