我が老犬との30分の散歩コースには、何種類かあるが、そのうちの一つが、裏山の脇にある田んぼと溜め池の傍の土手を歩き、鬱蒼とした赤松の林を通り抜けて、リンゴ畑か、浅間山が一望できる崖の鉄塔の下へ、抜ける周遊コースである。何年か前の夏、その田んぼの所有者とおぼしき御老人から、田んぼの横で、栽培されたもぎたてのナスを、一杯貰ったのを、覚えている。その後、田起こしや、水張りの時に、遠くから、見かけたが、結局、ゆっくり、お礼の言葉や、お返しをすることなく、時間だけが、経ってしまった。その田んぼは、赤松の林の一角にあって、小さな溜め池が隣接し、ポッカリと、そこだけ、なぜか、ポツンと、田んぼである。空から眺められたら、きっと、ミステリー・サークルのような感じであろうか?信州では、(当時の日本ではそうであろうが、)先祖伝来の土地を長男が、代々、相続して、結局、次男以下、三男・四男坊達は、満蒙青年開拓団へ、応募して、結果的に、国策の犠牲になって、敗戦後、命からがらに、故郷へと戻って来て、一から、土地を開墾したと言われている。ここでは、蕎麦や、白土馬鈴薯などの所謂、「痩せた土地」でしか、出来ない農作物が、特産品として有名だが、確かに、駐車場を作ろうとスコップで、土を掘り返すと、すぐさま、大きな石ころが、スコップの刃先に、土の中で、ぶつかる。それも、尋常な数ではない。ましてや、大きな赤松の樹を切り倒し、(その頃には、恐らく、チェーン・ソーなども無く、重い斧で、切り倒し、更に、切り株を掘り返し、それを手押しの台車で運んだり、水を引いてきて、溜め池を作ったことは想像するに難くない。鹿や猪の食害から、守るために、網を巡らしたり、田んぼの日照時間を計算して、周囲の松の陰が掛からないようにしたことも、成程、頷ける。以前は、ゲンゴロウや、おたまじゃくしや蛙やら、田んぼの水の中で、大いに、はしゃぎ廻っていたのを、今でも、想い起こす。それが、今年の春先には、例年の水張りも、田植えもされずに、草茫々となってしまった。開拓は難く、放棄は、何と、易々であろうことか。聴くところによれば、その田んぼの所有者とおぼしき御老人は、昨年、亡くなられたらしいと、、、、。先人の血と汗と涙で、開墾されたこうした山間の耕作地が、あっけなく、崩壊してしまうのが、今の日本の農業政策と税制の結果なのであろうか?もし、そうだとしたら、どこか、誤っていないだろうか?義理の弟夫婦は、甥の夫婦も含めて、江戸時代から、続く、百姓を、今でも、継承しているが、相続の度に、土地が、少なくなり、これから、後何年、やっていられるだろうか?一部で、大規模集約化や、農業改革の流れが、進みつつあるが、山間耕作地の放棄地を、見るに付け、日本農業の行く末が、心配になる。私に、出来ることは、せいぜい、産直野菜販売処で、規格外の野菜を、毎日、購入、食べ続けることくらいであろうか?結局、正式なお礼も、今となっては、出来ずしまいで心残りではあるが、同じ散歩コースを、我が老犬とトボトボと歩いている。
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