チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

独立当時のクロアチアとザクレブの様子 2

2008年06月28日 14時41分15秒 | 葉書
1918年12月初めにクロアチアの首都ザグレブのイェラチッチ広場に到着するセルビア軍とそれを見守るザグレブ市民。
この数日後の12月5日に、クロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対して、セルビア軍が虐殺を行ないました。
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987


1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。

1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。

このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。


このような建国当時の混乱状況の中で、1918年10月29日の「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言の1ヵ月後の1918年11月29日にクロアチアの独立記念切手4種が発行されました。
この初日カバーがOSIJEK2郵便局で11月29日に消印をされて、宛先のクロアチアの首都ザグレブに配達された頃の12月5日に、ザグレブでは、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊がセルビア軍により虐殺されました。
この初日カバーは、セルビア軍によるクロアチア占領が進行する血なまぐさい最中に配達されたものです。
このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。


参考文献
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(4)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(5)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(6)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(7)Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS ザグレブの数千年
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987


独立当時のクロアチアとザクレブの様子 1

2008年06月28日 14時40分10秒 | 葉書
1918年10月29日、クロアチアの首都ザグレブのマロク広場での民族会議による「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言とそれに集まった群衆
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987

独立当時のクロアチアとザクレブの様子

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国、ドナウ帝国)が崩壊し、南スラヴ地域に対するハプスブルク家の支配力が失われました。

1918年10月6日、ハプスブルク帝国内の南スラヴの政治指導者は、クロアチアのザグレブで、南スラヴ統一を目的として「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」(以下、民族会議と記載)を創設しました。

1918年10月29日、民族会議は、ハプスブルク帝国内の全ての南スラヴ地域から構成される「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設を宣言しました。
この民族会議の影響力は、セルビア王国と山国の小国であるモンテネグロ王国には及んでいませんでした。
あの当時のこの地域の大きな勢力は、南スラヴの盟主とみなされ南スラヴ全体の統一をもくろむ「大セルビア主義」をかかげていたセルビア王国、ザグレブの民族会議、そしてスロヴェニア・イストリア半島・ダルマチアの占領を狙うイタリア王国でした。

この10月29日の宣言の際にクロアチア議会は、非常に意味深な行動を取っています。
ダルマチア出身のクロアチア人議員を巻き込んで、中世以来のクロアチアの悲願であった、クロアチアとスラヴォニアとダルマチアを合わせた「三位一体王国」の創設をいったん宣言したのです。これは、明白なクロアチアの独立宣言でした。
(備考: スロヴェニアとスラヴォニアは異なる地域ですので混同なさらないで下さい。)
ここに「大クロアチア主義」と呼ばれるクロアチアの本音を見ることができます。
しかし、彼らは自分たちだけでクロアチアを狙うイタリア王国やセルビア王国に対抗する力を持っていませんでした。
このためクロアチアはやむを得ず、この「クロアチア三位一体王国」の独立宣言をした後に、この国をスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴビナを含む「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の中に入れ込む形にしてセルビア王国やイタリア王国に政治的に対抗しようとしたのです。

あの当時のザグレブの民族会議を取り巻く政治状況は以下のように危機的でした:
①ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による社会的混乱
②スロヴェニアの首都リュブリャナに向けてイタリア軍が侵攻を開始しましたが、スロヴェニア人の将校グループが進軍を阻止
③決定的になったのは、ロンドン秘密条約に基づいてイタリア王国がローマ帝国の領土であったアドリア海沿岸のダルマチア地方に艦隊を派遣し軍事占領を開始したことであり、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」はイタリア王国の軍事力により国土の一部を占領されてしまいました。ザグレブの民族会議がこのことを知ったのは11月24日でした。

イタリア王国に対する軍事的対抗力を持たなかったザグレブの民族会議は、セルビア王国の軍事的保護下に入るしか選択肢がなくなったため、1918年11月27日にセルビア王国との統一を進めるためにセルビア王国の首都ベオグラードに向かいました。
あの当時の新国家の構想としては、「コルフ宣言」と「ジュネーブ宣言」の二つが存在していました。
実際に採用されたのは、セルビア王国のカラジョルジェヴィッチ王朝のもとでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が居住する全ての領域からなる立憲君主国を建国する「コルフ宣言」でした。この宣言では、新国家を連邦制にするか中央集権制にするかは触れられていませんでした。
ザグレブの民族会議にとり不幸なことに、憲法制定議会により統一国家の形態を決めるまでセルビア王国政府と民族会議が共存して統治する連邦的構想であった「ジュネーブ宣言」は採用されませんでした。これは、主としてセルビア側が大セルビア主義による南スラブ全体の中央集権的支配をもくろんでいたことによると思われます。

181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 裏

2008年06月28日 14時23分40秒 | 葉書
181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 裏

裏側に1918年11月29日発行のクロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー
10 filir (Mi.51, 発行数3万枚)、耳紙に9.00
20 filir (Mi.52, 発行数3万枚)、耳紙に16.00
25 filir (Mi.53, 発行数2.5万枚)、耳紙に2.50
45 filir (Mi.54, 発行数1.5万枚)、耳紙に13.50
消印: OSIJEK 918 NOV. 29 N5 A2A (ハンガリー型消印) (クロアチア)
OSIJEK 2郵便局、1918年11月29日、昼間5時、消印識別記号A
宛先: ZAGREB (クロアチア)


独立記念切手の発行枚数とカバー
このクロアチアの独立記念切手は、発行数が45 filir 1.5万枚、25 filir 2.5万枚、10 filirと20 filir が3万枚と非常に少なく、カバーの入手は容易ではありませんし、切手の入手もそう簡単ではありません。
発行数が3万枚、2.5万枚、1.5万枚と言っただけではとピンと来ないのですが、日本の戦前の記念切手の発行数と比較すると、その少なさの感覚はつかめると思います:
1916年の裕仁立太子記念10銭8.6万枚、
1919年の飛行郵便試験記念1.5銭5万枚、3銭3万枚、
1921年の郵便創始50周年記念10銭10万枚。
これらの日本切手のカバーがどれほど希少なものかは良くご存知のことと思います。
ここでご紹介している初日カバーに貼られている4種の独立記念切手は、1919年の飛行郵便試験記念3銭3万枚と同じか、それよりも発行枚数が5千枚少ない、あるいは3万枚の半分の1万5千枚しか発行されていない切手です。
ほぼ同時代の日本のこれらの戦前の記念切手と、クロアチアの独立記念切手の直接比較は社会的・経済的状況が異なりますので困難ですが、日本人が良く知っている日本切手と比較した方がカバーの価値の類推には役立つと思われますのでご紹介いたしました。

このクロアチアの独立記念切手は、ほとんどがクロアチアの首都ザグレブZAGREBで使用されたそうです。その他には、この初日カバーにも見られるようにオシイェクOSIJEKでの使用例が知られていますが、この2都市以外の使用例はほとんどありません。
もしこの2都市以外の使用例を見かけたら(私は2例見たことがあるだけです)、郵便史的には貴重な使用例ですから無理してでも入手されることをお勧めしますが、非常に高価になることは避けられません。

尚、オーストリアやハンガリー切手を貼ってSHS創設記念日の1918年10月29日の消印の押されたカバー(小包送票、郵便為替、封書などの実逓便)が稀にオークションに登場することがあります。これらの人気は非常に高く、落札価格は状態にもよりますが、私の知る限りでは3万円を下回ることはなく、5万円を越えることもあります。

181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 表

2008年06月28日 14時22分56秒 | 葉書
181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 表

ハンガリー官製葉書8 fillér、左下にBudapest, 1918の印刷有り

表側のクロアチア語の文章の翻訳はできていませんので、内容の把握はできません。左下に1918年10月29日の書き込みがあり、この日は、クロアチアの首都ザグレブで民族会議による「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言が行われた日です。
恐らく、SHS創設の祝いに関する記載であろうと推定しています。
表側の葉書の印面の8 fillérには消印は押されていません。
裏側に貼られている独立記念切手4種の額面総額1 Krunaから考えれば、書留・速達扱いにすることが十分可能ですが、そのような指定はされていません。
書留便であれば配達先のザグレブの到着印が押されるはずですから(ただし書留便でも到着印が押されていない使用例も多くあります)、実際に郵便で配達されたことを証明できますが、この場合は普通便ですから到着印はありません。