1918年12月初めにクロアチアの首都ザグレブのイェラチッチ広場に到着するセルビア軍とそれを見守るザグレブ市民。
この数日後の12月5日に、クロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対して、セルビア軍が虐殺を行ないました。
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987
1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。
1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。
このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。
このような建国当時の混乱状況の中で、1918年10月29日の「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言の1ヵ月後の1918年11月29日にクロアチアの独立記念切手4種が発行されました。
この初日カバーがOSIJEK2郵便局で11月29日に消印をされて、宛先のクロアチアの首都ザグレブに配達された頃の12月5日に、ザグレブでは、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊がセルビア軍により虐殺されました。
この初日カバーは、セルビア軍によるクロアチア占領が進行する血なまぐさい最中に配達されたものです。
このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。
参考文献
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(4)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(5)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(6)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(7)Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS ザグレブの数千年
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987
この数日後の12月5日に、クロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対して、セルビア軍が虐殺を行ないました。
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987
1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。
1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。
このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。
このような建国当時の混乱状況の中で、1918年10月29日の「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言の1ヵ月後の1918年11月29日にクロアチアの独立記念切手4種が発行されました。
この初日カバーがOSIJEK2郵便局で11月29日に消印をされて、宛先のクロアチアの首都ザグレブに配達された頃の12月5日に、ザグレブでは、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊がセルビア軍により虐殺されました。
この初日カバーは、セルビア軍によるクロアチア占領が進行する血なまぐさい最中に配達されたものです。
このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。
参考文献
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(4)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(5)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(6)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(7)Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS ザグレブの数千年
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987