チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

チェインブレーカーの印刷

2008年04月23日 21時03分32秒 | スロヴェニア切手
チェインブレーカーの印刷

チェインブレーカーの印刷に関しては、完全ではありませんが記録が残されており、多くの研究者による研究が行なわれています。
それらの研究は、「Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.4, 1945, Zagreb (Croatia)、翻訳:ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第4巻」にまとめられており、チェインブレーカーの分類に役立つ考えられますのでご紹介いたします。

チェインブレーカーは、1919年1月3日に初めてスロヴェニアの首都のリュブリャナ郵便局から発売されたと言われています。
記録では1919年1月3日に印刷されたのは石版の10 vinar(国内葉書料金)と20 vinar(国内封書料金)であり、この2種が印刷初日の1月3日の内にリュブリャナ郵便局から発売されました。

その他の額面の印刷は、オーストリア帝国時代の切手の在庫と消費の状況、及びその後の料金値上げの状況を見ながら順次開始され、3, 5, 25, 40, 50, 60 vinar, 1, 2, 5 Kronaの印刷は、1919年1月~4月には開始されています。

またその後の郵便料金の値上げに併せて、15 vinar(国内葉書料金)と30 vinar(国内封書料金)の印刷は1919年9月と10月から開始されています。

高額の10, 15, 20 Kronaの印刷は1920年4月以降という遅さです。
10 Krona(総発行数40万枚)が印刷されたのは1920年4月1日であり、セルビアの通貨para, Dinarへの通貨統一(スロヴェニアのvinar, Kronaの価値を4分の1に落とす)の1ヵ月半前という遅さです。
一方、10 Kronaよりも一つ下の額面である5 Krona(総発行数283万2900枚)の印刷が最初に行われたのは1919年4月22日であり、この後約1年間に渡り小包に多く見られる10 Krona分の料金は、5 Kronaの2枚貼り、あるいは2 Kronaの5枚貼りで対処した例が多く見られます。
10 Kronaは、5Kronaに比べて発行数が7分の1の40万枚にまで低下していますから、カバーの入手は難しくなります。私は小包送票の使用例を3通持っています。しかし、この10 Kronaのカバーは、オークションや販売カタログでもなかなかお目にかかることはできませんので、見つけたら無理してでも入手されることをお勧めします。

15 Krona(総発行数3万7008枚)と20 Krona(総発行数6万8668枚)が印刷された1920年5月15日は、セルビアの通貨para, Dinarへの通貨統一が行われる前日でした。このためこの2つの額面は、印刷翌日から価値が4分の1に落ちてしまうという有様でした。

15 Kronaが郵便料金の徴収に適正に使用されたカバーは、私は持っていませんし見たこともありません。他の多くの額面の切手と一緒に貼られて料金が著しく過剰(20倍以上)になったフィラテリックカバーの封書を一度見たことがあるだけです。私は15 Kronaの郵便料金の徴収に適正に使用されたカバーの入手はあきらめています。

20 Kronaが郵便料金の徴収に適正に使用されたカバーは、私は小包送票の使用例を3通持っています。しかし、この20 Kronaのカバーは、オークションや販売カタログでも滅多にお目にかかることはできませんので、見つけたら無理してでも入手されることをお勧めします。
ちなみにクロアチアのザグレブでの2006年のオークションで、20 Kronaを他の切手と混貼りした小包送票の落札価格は1通で3万3000円でした。