日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

スマートフォン文化を考える

2014年12月27日 10時06分22秒 | 日々雑感
 インターネットを携帯端末で楽しむことの出来るスマートフォンは、いつでもどこでも使うことが出来るので非常に便利である。例えば “惻隠の情”とは何か等、疑問が浮かんだときすぐに調べることが出来る。電車の中では猫も杓子もスマートフォンに夢中なのは理解できる。一方、物事を深く考えることなく想像力が低下する、他人とのコミュニケーションが出来なくなる等の欠点が指摘されているが、刹那の便利さの前にはどこ吹く風である。
 情報通信の発展は経済の地方分散を招くはずであったし、携帯電話の普及はコミュニケーションの活発化を招く筈であったが、どうも逆のようだ。情報の拡散は都会の魅力を地方に伝えたが、それを体感する魅力には勝つことが出来なかったため、人は都会を目指すことになり、一極集中となった。また、スマートフォンとのコミュニケーションは、人とのコミュニケーションより簡単なため、人に応用することが出来ず引きこもりを招いてしまった。
 知りたい情報が即座に手に入り、判った気になる。深く頭に刻み込まなくても、忘れたならば再び携帯で調べればよい。しかも、実に様々な情報が手に入る。自分に都合の良い話もあれば、都合の悪い話もいくらでもあるが、その真偽については分からない。自分に都合の良いときに、都合の良い話に耳を傾け、都合の悪い話は無視すればよい。しかも、その行為は誰にも知られることなく行え、自分から発信する場合も匿名で済むため、相手を傷つけても自分は傷つかずに済む。
 最近、中国や韓国に対する強硬姿勢をはじめとするナショナリズムの台頭が目に付く。近隣国と仲良くするより、喧嘩する方が話としては簡単である。仲良くするためには相手を理解し、自分を理解させるために面倒な説明をしなければならないのに対し、喧嘩するためには相手の欠点をひとつ指摘すれば話は済む。まさに、スマートフォンに向かうときの姿勢そのものである。携帯端末の普及とナショナリズムの台頭の間には、関係があると思わざるを得ない。
 スマートフォンはその便利さゆえ今後ますます使用されるであろう。かっては、個人の生き方や考え方は書物から得ることも多かった。スマートフォンで読書することも出来るが、スマーオフォンには余りにも誘惑が多すぎる。その誘惑に打ち勝って、読書できる人間がいるとは思えない。物事を深く考えない単細胞的人間が増えることを懸念する。(犬賀 大好-87)

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