日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

大相撲は神事かエンターテイメントか

2018年01月13日 14時44分46秒 | 日々雑感
日馬富士の暴行事件に端を発し、貴乃花元理事と八角理事長率いる相撲協会は対立し、大揺れである。今年始め、関係者の処分が決まり、一件落着模様ではあるが、両者の対立は解消していない。

対立の原因は色々言われているが、相撲協会が相撲をエンターテイメントと捉えているのに対し、貴乃花親方は相撲を神事と考えている節がある。本当であれば対立は簡単に解消されない。

この事件を巡り、テレビと週刊誌の報道が全く異なった見方をしているようである。大雑把に言えば、週刊誌は白鵬と相撲協会を批判し、テレビは貴乃花親方に批判的だ。このように大きく意見を異にするが、それは対立の根の深い事を意味する。

2011年に発覚した大相撲八百長事件は、日本相撲協会の現役の大相撲力士による大相撲本場所での取組での八百長への関与に関する事件であり、それを契機に相撲人気は低迷した。しかし、モンゴル勢の活躍が相撲人気を復活させた。その中でも白鳳関は大相撲を復活させた功績が一番大きい。

最近日本人稀勢の里が横綱に昇進したが、怪我が長引き休場気味である。相変わらず、相撲人気は、白鳳を中心としたモンゴル出身の力士に支えられている。相撲協会も白鳳には頭が上がらないに決まっている。

暴行事件を切っ掛けに、白鳳の張り手や勝ちあげが横綱の品格を落としているとの意見が理事会でも取り上げられたようだ。しかし、白鳳が相撲人気を支えているのに、今更何を言っているかの感である。

相撲協会も相撲人気を高めて客席が満杯にしなければならない。張り手であり勝ちあげであったも、ルール違反ではないし、客が喜べば充分であろう。相撲をエンターテイメントと捉える限り、客を喜ばせることを一義に考えなくてはならない。

相撲に品格を求めるのは、相撲は国技であるからとの主張である。ただし、国技と言っても厳密な定義は無く、法律で定められている訳でもない。一般的には、国技とは、その国の特有の技芸、ある国の代表的な競技のことであり、柔道や剣道もこの部類に入るであろう。

確かにそれらのスポーツにおいては礼儀を大切にしているようではある。しかし、張り手や勝ちあげもルールで認められている以上、品位を落とす行為と言えようか。上位の者が下位の者に対する禁じ手があるのだろうか。まさに日本的な曖昧さであるが、これをモンゴル力士に説明しても簡単に受け入れられる筈が無い。

一方、貴乃花はエンターテイメントと考えるより神事と考えたいようだ。神事とは、神に関するまつりごと、儀式であり、国技と一体をなす。

神事は神前での祈りや神に伺いを立てることなどで、奉納相撲もその一つであろう。、日本国内各地で祭りとして奉納相撲が行われている。そのため、大相撲も他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど、文化的な側面もある。

確かに、横綱白鳳の土俵姿は、従来の横綱に比較し堂々たるところが無い。様式美を重んずる神事とは異なるかも知れない。しかし勝負では負けない。貴乃花親方はこれを苦々しく思っているのかも知れない。

貴乃花親方の考える神事とはいかなることか良く分からないが、本来神事とは、静寂に包まれた中厳粛に行われるもので無く、大衆を喜ばせるエンターテイメントの要素を含むもののように思える。

奉納相撲の際には、天下泰平・大漁等を、願って行なう神社が多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。すなわち、貴乃花親方の主張するガチンコ相撲は、必ずしも行なわれないのだ。

また、大昔天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸の前に八百万の神が集まり、日本初めてのストリップショウを開催し場を盛り上げたため天照大神も姿を現したとのことだ。いくら神様と言え、エンターテイメントの要素は必要なのだ。
貴乃花親方は寡黙すぎる。親方の考える大相撲のあるべき姿を公にして、公益法人としての大相撲の在り方を議論すべきであろう。2018.01.13(犬賀 大好-407)