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菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

白ーマ、黒ーマ。  『ROMA/ローマ』(追記あり)

2019年03月29日 00時00分08秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1472回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『ROMA/ローマ』

 

 

 

 

アルフォンソキュアロン監督が自身の少年時代をベースに、政治的混乱に揺れる1970~71年のメキシコシティのローマ地区に暮らす中流階級の家族の激動の1年を、若い家政婦の視点から描いた半自伝的ドラマ。

 

2018年12月にNetflixにて世界同時配信。ほぼ同時に多くの国で劇場公開されたが、日本ではようやく今年公開。

2018年の第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で、最高賞を受賞。
第91回アカデミー賞でも同年度最多タイの10部門でノミネートされ、3部門で受賞。

 

監督・脚本・撮影は、アルフォンソ・キュアロン。

 

 

 

物語。

70年のメキシコシティのローマ地区。
クレオは、医者の夫アントニオと妻ソフィア、彼らの4人の子どもたち(トーニョ、パコ、ソフィ、ペペ)と祖母テレサと犬のボラスとが暮らす家の家政婦。同じ地方出身の同僚のアデラと同じ部屋に住み込みで暮らしている。
広い家で子どもたちと犬の世話、家事に追われる日々を送っている中で、同僚の恋人ラモンの従兄弟である青年フェルミンとのデートが息抜きだった。
だが、メキシコは政治的混乱に揺れており、人々の心も波立っていた。

 

 

 

出演。

ヤリッツァ・アパリシオが、クレオ。


マリーナ・デ・タビラが、奥様のソフィア。
フェルナンド・グレディアガが、旦那様のアントニオ。
ヴェロニカ・ガルシアが、その祖母のテレサ。

ディエゴ・コルティナ・アウトレイが、トーニョ。
マルコ・グラフが、ペペ。
ダニエラ・デメサが、ソフィ。
カルロス・ペラルタが、パコ。

ホルヘ・アントニオ・ゲレーロが、フェルミン。
ホセ・マヌエル・ゲレロ・メンドーサが、ラモン。

ナンシー・ガルシアが、同僚のアデラ。

ラテン・ラヴァーが、ドクター・ゾベック。

 


 

 

スタッフ。

製作は、ガブリエラ・ロドリゲス、アルフォンソ・キュアロン、ニコラス・セリス。
製作総指揮は、ジェフ・スコール、デヴィッド・リンド、ジョナサン・キング。


プロダクションデザインは、エウヘニオ・カバイェーロ。
衣装は、アンナ・テラサス。

編集は、アルフォンソ・キュアロン、アダム・ガフ。

 

 

 

 


70年メキシコのローマ地区、家政婦クレオが雇い主家族と過ごす喪失と発見の1年を描くドラマ。
白と黒は死と再生を画面に映し出す。
圧倒的な撮影と美術。
なにより、そこにあるのは映画100年分の技法の洗練。複数のモチーフによるイメージの対比は映画の力をも再生させる。
これはかつてあった出来事。映画という思い出回帰のタイムマシン。網膜の後ろに光源がある。戻れないが思い返すことが出来る。
そこにあるのは喜怒哀楽に彩られた暮らし、どこにでもあってそこにしかなかった生活。
登場人物たちが在る。演技の評価はもはや出来ぬ、だって生きているとしか思えぬのだから。
箱の中の箱に閉じ込められた人々が仰ぎ見る、見ないでもそこにある空。
大画面、高度な音響システムなら、その場に追体験者として立ち会わせる。これが映画だ。
見ている間、ありがとう、と心が何度かつぶやいた。
劇場を出て歩く道が変わって見える。これが映画の力だ。
押しては返し、洗い流し、乾いて上がる水作。

 
 


 

 


  
 

 

 

 

おまけ。

原題は、『ROMA』。
映画の舞台の、監督の故郷メキシコシティのローマ地区(Colonia Roma)のこと。街のセントロから南西の郊外にある地区だそう。

コロニア(ラテン語: Colonia または Colonia Romana)とは、古代ローマの植民都市のこと。コローニアや、日本語で植民市と表記することもある。(Wikiより)

 

『ROMA』のタイトルの意味は、きっと逆さにされた「AMOR」、それはスペイン語で「愛」。

 

 


上映時間は、135分。
製作国は、メキシコ。

 

 

 

受賞歴。

2018年のアカデミー賞にて、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)、外国語映画賞、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)を、受賞。
2018年のヴェネチア国際映画祭にて、金獅子賞をアルフォンソ・キュアロンが、受賞。
2018年の全米批評家協会賞にて、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)、外国語映画賞を、受賞。 
2018年のNY批評家協会賞にて、作品賞、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)を、受賞。
2018年のLA批評家協会賞にて、作品賞、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)を、受賞。
2018年のゴールデン・グローブにて、外国語映画賞、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)を、受賞。
2018年の英国アカデミー賞にて、作品賞、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)、外国語映画賞、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)を、受賞。
2018年のインディペンデント・スピリット賞にて、外国映画賞を、受賞。
2018年の放送映画批評家協会賞にて、作品賞、監督賞(アルフォンソ・キュアロン)、撮影賞(アルフォンソ・キュアロン)、外国語映画賞を、受賞。

他に、150以上の賞を受賞。

 

 

 

 

アルフォンソ・キュアロンがアカデミー賞史上初の監督賞と撮影賞を同時受賞という快挙を果たした。ちなみに、発音的表記すると「アルフォンソ・クアロン」の方が近いそうです。

大画面で見る価値、映画館で見ること意味が深まる。だが、家で一人画面を見つめるのもまた感慨深いであろうと思う。モニターやスマホの小さい画面で見たらどう思うかさえ確かめたくなる。

 

日本では、長らく公開が決まらなかったが、イオンシネマが日本初の配給会社を通さず、興行が直接買い付けという英断をしたことで公開の運びとなった。

 イオンシネマ板橋の8番スクリーン、THXでの鑑賞。音は、自分をその場に連れて行ってくれる臨場感でした。客席前方は段差が緩やかなので、前の人の頭が邪魔になりがちです。お気をつけを。

 

 

メイキングドキュメンタリー『ROMA/ローマ 完成までの道』がNetflixで配信されています。

 

 

 


  

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

クレオや子供たちはほとんどが演技初心者だそう。他の多くのキャストも無名の俳優たち。
誰にもシナリオを渡さず、口立てと状況説明演出によって、実際にその状況を演じてもらう方法をとり、完全に順撮りで撮影を進めたとのこと。

特定の職業に従事する重要な登場人物は、実際にその職業に就いている人々を起用。モデルという手法の一つ。病院での出産シーンに登場するのは、全て本物の医師や看護婦。

 

60年代後半から70年代は、メキシコでは政府や経済に不満を持つ多くの学生や知識人が行動を起こして、国内は混乱していた。
当時は、日本でも学生運動があり、ベトナム戦争や共産主義闘争などもあったので、世界中で政治的混乱があった時期でもある。

 

冒頭、真俯瞰で水を映してカメラはどう消したのだろう?

 

アルフォンソ・キュアロンが製作総指揮した映画『ダック・シーズン』もどこか似た印象だった。

 

 

アルフォンソ・キュアロンは1961年生まれで長男(劇中の時代には9歳。トーニョに当たる)。父は国際原子力機関の原子物理学者アルフレッド・キュアロン。弟カルロス(次男)も同じく映画監督(後に共同でヴェネツィア国際映画祭脚本賞を受賞)。弟アルフレッド(三男)は生物学者。妹はどうしているかは不明。

 

 

 

 

 

 

ネットより。

アルフォンソ・キュアロンは、メキシコ国立自治大学・映画学科に入学。そこで後の右腕となる撮影監督エマニュエル・ルベツキと出会い、学生映画を共に作り始める。だが、この監督・撮影コンビで撮影した映画『復讐するは我にあり』は舞台がメキシコでありながら英語のみで撮影されていたため、教授たちの怒りを買い、最終的にアルフォンソは退学させられてしまう。これで映画界に関われないと思った彼は家族を養うため博物館で働き始めたが、友人の紹介でTVドラマのケーブル配線係として働けることに。そこから、助監督を経て、数本のテレビドラマを撮影や監督をして、ついに初長編映画『最も危険な愛し方』をルベツキと共に作り、トロント国際映画祭で数々の賞を受賞し、シドニー・ポラックの目に留まり、アメリカに招聘された。

 

 

撮影はアレクサ65。
デジタルでのグレーディングで、くっきりはっきりさせているのに白飛びしていないという、現代の白黒となっていた。同じメキシコ系のロバート・ロドリゲスも『シン・シティ』で漫画的白黒生み出したので、ラテンには、くっきりはっきりを好む目があるのかも。
これについては、ネタバレで。

元々は盟友エマニュエル・ルベッキ(通称チボ)が撮影担当する予定だったが、スケジュールの都合で出来なくなり、アルフォンソ・キュアロン自身が担当することになった。アルフォンソ・キュアロンはTVドラマなどで撮影だけの仕事もけっこうしていたので。オペレーター兼撮影コラボレーターはGalo Olivares。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

キャロンはインタビューで 「映画で描かれる90%は私の記憶に基づいています。すべてが映画と同じ順番ではありませんが、私はおよそ3年間の記憶を10ヶ月の物語にまとめたものです」と言っている。
それでもフィクションとして、名前などは変えている。

 

家具店で遭遇するのは、多数の死傷者を出した反政府デモ"血の木曜日事件"。

 

 

『ROMA』を逆さにすると「AMOR」。スペイン語で愛している。劇中でも何度か言われる言葉。つまり、愛のない状態から愛に気づく物語。

 

それは、幾度もの死によって表現される。
洗濯物を干す横でパコが死んだふりをしてクレオも死んだふりをする、映画の中での死、デモによる殺人、死産。

それは、愛の終わりや別れとしても表現される。夫が愛人の元へ行き、兄弟は喧嘩ばかり、フェルミンは逃げ、

空と飛ぶものは逃避や死の象徴として幾度も現れる。雨や雹はもちろん日差しも意識的に画面に注がれる。映画館のスクリーンでは飛行機で逃げるシーンと宇宙で別れるシーン、新生児の保育器の上に天井から崩れた瓦礫、人間大砲、武道の先生の後ろでは飛行機が飛び、ラスト空に向けられたカメラは二度飛行機が飛ぶ。

 

対比も活用される。
ラモンとアデラは順調で映画(映画は死を映すメディアと言われている)とクレオとフェルミンはベッドでセックス(妊娠するので生を産む行為)、離婚のことを告げた後の家族の後ろでは結婚式。

 

それは水に例えられるという黄金期から映画が磨いてきた映像表現を活用して届けられる。
床掃除のための洗剤と水、濡れた洗濯物が干され、雨や雹が降り注ぎ、蝋は溶けて燃え、森の火事を消し、地面は水たまりを湛え、破水し、海は波が押しては返す、死と生繰り返すように。

 

美術でも棺桶のように箱に入ること、外に出ることが生と死を表わす。
特に、二つの箱に入ることが強いイメージになっている。
車が狭い通路に入る(道でさえトラックに挟まれる)、映画館とラブホテルの部屋、広い家の家政婦用の狭い部屋、新生児は病院と保育器、映画館で飛行機、映画館で宇宙服、部屋の中の銃の中の弾丸、病院でエレベーターと手術室、家具店、クレオ自身が空間と子宮という二つの箱になる。

そこからどう出ていくか。

ホテルの部屋で見た演武をバスで行き車で行き広場で見る、海辺のテント(開かれた箱)からから水の中に閉じ込められた子どもを助ける。部屋の中の本棚から本が出される。

 

これは、カメラワークにも生かされており、横の動きと縦の動きと前後のが同じように生と死を表現する。
画面構成はレイヤーになっており、日本的構図と言われる分断されたレイアウトでも表現される。
上に上がる動きはなるべく映されない、それは希望だから。それは冒頭の俯瞰で画面下に流れていく水、カメラが水平になってから奥でクレオが掃除する姿が映される。

もちろん、白黒自体が生と死だ。

そう、地上や空で、死や終わりが訪れる時、同時に対比として愛や命が現れてくる。
水は濡らすが太陽は乾かき空に上がる、というように。
狭い部屋を上がれば、屋上の上に空は広がっている。
そして、閉じ込める箱だと思ったものは車のようにどこかに運んでくれ、空も飛んでいる。

 

 

武道のシーンで先生と同じようにクレオは揺れないが、それが海で子供らを助ける伏線になっているのだろうか? 

通路ギリギリの車で、父親の事情より欲望が先走る性格、そして、自分がコントロールできると思っていることが一発でわかる。彼の出番が少ないことからそこに時間を割いているのだろう。

 

犬のクソの数の放置は黒い忌まわしきものを画面に感じさせているのかしらね。

 

 

映画の冒頭、水は洗い流すと示し、海で辛い思いが洗い流される、物語がオープニングで示される、西洋映画作劇がきっちり組み込まれている。つまり、水で洗い流される。洗濯ものは濡れ、そして、陽で乾くのだ。
そして、水の中に映る飛行機はラストに実際に空を飛んでいる姿が映される。

すべてはクレオの心の中であったことが分かる。

映画館でスクリーンを見ている私たちがすでに二つの箱の中にいる。その心はクレオと呼応する。
今という箱の中にある過去という箱の中を覗き見るようなものだから。

 

 

 

流れる映画は、ルイ・ド・フィネス監督『大進撃』(1966)、ジョン・スタージェスの『宇宙からの脱出』(1969)。
コメディとサスペンスで、ここにも対比がある。
『宇宙からの脱出』の原題は、『MAROONED』でここにもROMAが隠れていたり。

 

海で抱き合う家族とクレオは三角形になっているなど、キリスト教的モチーフが込められ、ダビデ像などキリスト教的モチーフを用いてつくられた美術が引用されている。

 

アルフォンソ・キュアロンの映画話法が詰め込まれた集大成のような作品にもなっていた。
若者が薄い愛に苦しめられ、大きな喪失を抱え、孤独と戦い、水際で愛や命を取り戻す。出産、バカンス、家事労働、宇宙。旅に行くオアハカは『天国の口、楽園の終わり』で立ち寄った場所だ。
『宇宙からの脱出』が『ゼロ・グラビティ』のインスパイア元なのね。

 

アルフォンソ・キュアロンの『ROMA』インタビューより。
「学生時代から映画を作る上でもっと時間が欲しいと思っていた。(ロケハンなど撮影準備期間6ヶ月)、撮影期間もポストプロダクションの時間ももっと多く欲しいと思ったんだ(撮影は108日間、ポスプロは973時間<約6ヶ月間の作業>)」

 

多くはカラーでの撮影され、白黒に変換されている。これによりグリーンバックなどで画像を切り抜きすることが容易になったうえ、センサーの感度をフルに活用できている。
従来の白黒のようなハイコントラストにならないように、屋内撮影ではかなりライトを使うもの、ワイドレンズなので多くは屋外の離れたところから大型ライトをいくつも立てて当てている。

最後の海のシーンは芝居の他に露出を変えた空舞台も撮影し、デジタル作業で二つを組み合わせて画調を整えている。

 

 

撮影後、完成された映画をみたエマニュエル・ルベツキ撮影監督は、素晴らしかった、今まで見た中で最も好きな映画の1本になった、と称賛しているが撮影方法には驚いたという。「とても複雑な俳優たちの動きを、ダンサーを撮るように撮影している。でも必ずしも人物の動きに合わせているわけではなく、別のテンポでカメラを動かして、複雑なジャズの曲のように全体を構成してるね。カメラが物語を再検証しているような気がして、でもそれが何か感情を生み出していて力強さを感じる。何かを描くためにカメラが存在しているというよりも、映像それ自体が映画になっている気がしたよ。でも僕と映画を作る時と違い、俳優に対してほぼ平行にカメラを置くことが多かったのは何故なんだろう」とアルフォンソ・キュアロンに問うている。
アルフォンソ・キュアロンはそれに「なるたけ客観的な視線を持った映画にしたかったんだ。幽霊になって過去を覗き込むように、何かを判断したりコメントを付け加えたりすることなく、見ていたかったんだ。過去の出来事それ自体が雄弁だからね。俳優の動きやカメラワーク、効果音までも事前に脚本の段階で書き込んでいたんだけど、それらの動きががとても複雑だったから、脚本を読んだ他の映画スタッフには初め冗談かと思われたけどね」と答えている。(ネットの記事より引用)

 

 

 

 

クレオは字幕の説明で出るように、メキシコの先住民(少数部族)の出身。そこが孤独をさらに深くする。

最後に、実際の家政婦であるリボことリボリア・ロドリゲス(彼女に取材をして物語をつくっている)に映画は捧げられている。

 

 

 

 _____________________________

追記。

フェルミンは武装集団アルコネス(鷹)の一員。

劇中の暴動は、6月10日事件。逮捕学生の支援のために集まった1万人の学生・職員の無許可デモに武装集団アルコネスが襲い掛かり、竹槍などで殺害にまで至った。だが、この事件を政府は公式には認めていない。(キネマ旬報の記事より)

 

 

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