菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

人間社会の最小単位。 『イニシェリン島の精霊』(追記あり)

2023年02月04日 00時00分40秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2184回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 


『イニシェリン島の精霊』

 

 

 

アイルランドの孤島で、純朴な男が親友から突然理由不明で絶縁宣言される悲喜劇。

 

監督と脚本は、『セブン・サイコパス』、『スリー・ビルボード』のマーティン・マクドナー。

主演は、『ヒットマンズ・レクイエム』でも組んだコリン・ファレルとブレンダン・グリーソン。

 

 

物語。

1923年、内戦が続くアイルランドの孤島“イニシェリン島”。ここは島民全員が顔見知りののどかな島。
中年に足を踏み入れた純朴な酪農家パードリックと初老のアマチュア音楽家コルムは、長年友情を育んできた親友。誘い合って、いつものパブに繰り出すのが日課。
だが、ある日、パードリックはコルムから絶交を宣言をされる。
だが、その理由も分からず困惑する。

 

 

出演。

コリン・ファレル (パードリック・スーリヤバイン)
ブレンダン・グリーソン (コルム・ドハーティ)

ケリー・コンドン (シボーン・スーリヤバイン/妹)
バリー・コーガン/キオーガン (ドミニク・カーニー/警官の息子)
ゲイリー・ライドン (パーダー・カーニー/パット・ショート/警官)

シーラ・フィットン (マコーミック夫人)
ブリッド・ニ・ニーチテイン (オリオーダン夫人/雑貨屋)
ジョン・ケニー (ゲーリー/パブ店主)
デヴィッド・パース (神父)
アーロン・モナハン (デクラン/音大生)

 

 

スタッフ。

製作:グレアム・ブロードベント、ピート・チャーニン
製作総指揮:ダニエル・バトセク、オリー・マッデン、ダーモット・マキヨン、ベン・ナイト

撮影:ベン・デイヴィス
プロダクションデザイン:マーク・ティルデスリー
衣装デザイン:イマー・ニー・ヴァルドウニグ
編集:ミッケル・E・G・ニルソン
音楽:カーター・バーウェル

 

 

 

『イニシェリン島の精霊』を鑑賞。
1923年の内戦中のアイルランド、酪農家が親友から理由不明で突然絶交宣言される悲喜劇。
簡単にはくくれないジャンル、ミニマムで深みとコクのあるミステリーで、サスペンスで、ブラックコメディ。
不条理コメディの部分が強いので、劇場はけっこう笑い声が上がってましたよ。
噛めば噛むほど味の出る寓話。
監督と脚本は、『スリー・ビルボード』で当代随一のオリジナルかつ玄妙なる物語創作者と認知されたマーティン・マクドナー。今作も古典の傑作の誕生に立ち会ったかのような気分を味わえます。
この映画は揺れで語られる。
開巻、男が体を楽しそうに揺らしながらどこかに向かう。この揺れと表情と歩いていく姿だけで、彼の人となりまでわかるという素晴らしい演技で、これだけでもうこの映画が大丈夫だとういう太鼓判が押される。
コリン・ファレルが揺れまくる。楽し気に、不安げに、困惑に、寂しさに、倫理的に、と。眉毛も八の字に揺れる。この揺れ幅がこの映画の物語の幅となる。そして、周囲も揺れまくらせる。ブレンダン・グリーソンは関係を揺らし、弦を揺らし、空気を揺らす。バリー・コーガンは前後に揺れ、酔いと物理的に揺れる。ケリー・コンドンは首を揺らし、配慮を揺らし、裾を揺らす。それぞれの揺れは波の高さを意識させて、4人がアカデミー賞にノミネートされるのも頷ける。
イニシュリン島は高い木が無く、自然はあまり揺れない。
映画内では、サイズの違う相似形が並べられる。それは、思考をクレッシェンドか大なり、デクレッシェンドか小なり、にさせ、フラクタルを形作る。(蓄音機のラッパのように)
爆発音とドアを鳴らす音、海とエール(酒)、崖とテーブル、爆発と煙……。
それは、曲名とマコーミック夫人の言葉もそう。彼女の言葉の二つもまた並べられる。
緻密に並べて、あなたの世界の観方をグリッサンドさせて、縮図を右目に、拡大図を左目に、ピアニッシモを右耳に、フォルテッシモを左耳に届ける。
それは、内戦と彼らを向き合わせる。
こういう映画ならではの高度な技法は、思考や感覚を揺らす。
マーティン・マクドナーは、この二人とは『ヒットマンズ・レクイエム』でも組んでおり、その共振で何かを振るわせ、割ろうとする。
欠損を強く意識させる構図になっている。それは風景に関しても。
邦題の「精霊」は、バンシーのことで、劇中でも少し説明され、数度触れられる。バンシーは死の際に叫ぶ女の怪物。叫びと歌も並べられる。
厳しい自然を写し取った撮影が、現実を寓話にする。
それは、内戦の事情を全く説明しないことでも。(1923年の設定なので、アイルランド内戦)
その切られるものは場所と呼応しており、それは神話の語りを思わせる。
関係を濃く描き出すための狙いを感じる。
黙っていたことが吐き出されることで世界が揺れる。
1923年アイルランド内戦、2023年のちょうど百年前だ。
人間社会の最小単位を意識させる島作。


 

 

おまけ。

原題は、『THE BANSHEES OF INISHERIN』。
『イニシェリンのバンシーたち』。

劇中に出てくる曲名より。

バンシー(英語: banshee、アイルランド語: bean sidhe)は、アイルランドおよびスコットランドに伝わる妖精。人の死を叫び声で予告するという。
バンシーの叫びが聞こえた家では近いうちに死者が出るとされるが、死が近い人の家すべてに現れるというわけではなく、純粋なケルトやゲール系の家族のもとにしか来ないともいわれる。
バンシーが叫び声を上げるのは、死者が勇敢な人物か、聖なる人物であった証ともいう(そうでない場合もある)。
アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる一族の死を伝えたといわれる。
アイルランド地方に伝わる説では、バンシーは長い黒髪で緑色の服に灰色のマントを着た女性の姿をしているとされる。
バンシーは、「マックかオーで始まる」姓の家に属すると言われ、「浅瀬の濯ぎ女」あるいは「水辺のすすぎ女(little washer by the ford)」という名でも知られている。
(wikiより)

今作だと、マコーミック(McCormick)夫人がまんま当てはまる。

バンシーズと複数なのはなんででしょうね?

 

2022年の作品。

 

製作国:イギリス / アメリカ / アイルランド
上映時間:114分
映倫:PG12

 

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン  

 

 

コリン・ファレルは、バリー・コーガンと『聖なる鹿殺し』で共演している。

 

ちなみに、大なりは、英語ではmore thanまたはgreat than。小なりは、less than。

 

 

 

イニシェリン島の精霊|サーチライト・ピクチャーズ公式

映画『イニシェリン島の精霊』マーティン・マクドナー×主演コリン・ファレル、アイルランドの孤島の物語 - ファッションプレス

映画『イニシェリン島の精霊』物語ネタバレ「彼はなぜ親友を拒否したのか?」 - EIGASKI

Martin McDonagh Wins Best Screenplay Award for The Banshees of Inisherin at  Venice Film Festival - Achill Tourism

The Banshees of Inisherin at an AMC Theatre near you.

 

 

 

ややネタバレ。

イニシュリン島は架空だが、イニシュモア島がモデルと思われる(イニシュがつく島は他にもある)。実際に、この島とアキル島で撮影もされている。

車の使用が禁止されており、撮影でも馬車や自転車を現地調達して撮影したそう。

 

 

『ひつじ村の兄弟』を思い出した。
もっといえば、『ゴドーを待ちながら』を思い出した。


 

指切りは、そこまでエキセントリックではない。
今でも約束するとき指切り(形骸化しているが残っている)する。(西洋にも指切りはある)
日本でも昔、実際に指を切って、約束をしていたんです。(切り落とす場合も切り傷だけの場合もありました)
女郎が恋心を伝える時に指の先を切って愛しい人に渡す風習が150年ほど前に日本でもありましたし、ヤクザの指詰めなら20年前は普通の描写たりえた。(謝罪だけでなく、約束で指を渡すのもありました。手を切って血判を押すのと同じ。しかもあの時アイルランドは戦争中で感覚が少し麻痺している)

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

内戦というか共に同じ土地で暮らす者同士の諍い、争いの原点についても寓話。

愛の反対語が無関心ならば、ラストの浜の二人は、まるで憎しみという親密さで結ばれた、離れられない。いわば仇友となる。

島の俯瞰の風景を写す画に見える線は、石垣。
それぞれの領地、区切り、スペースを見せているとも言える。

 

設定では、1923年。
ちょうどアイルランド内戦があった(1922年6月から1923年5月まで)。
この前に、現在のアイルランド共和国(南アイルランド)がアイルランド自由国を宣言し、UKからの17世紀以来の支配から独立を求めて戦争を起こした(この時、アイルランド解放戦線(IRA)が誕生する)。
アイルランドは、イングランドからは条件付きで独立できたのだが、問題は、北アイルランドと南アイルランドは宗教と考え方が違うことで揉めて内戦になる。
(1921年の英愛条約をめぐり、賛成派のアイルランド自由国暫定政府派と拒否派のアイルランド共和国軍の間に内戦が発生した)
そして、内戦の方が独立戦争より死者が多くなり、激しい戦争となってしまう。

内戦理由は、宗教、種族だけでなく、親イングランドと反イングランドなどがあるが、このアイルランドとイングランドとの関係は、現代的にはウクライナとロシアの関係にも近いし、内戦は今も世界中で起きていることを象徴している。

 

切られる5本の指は、ユナイテッド・キングダムこと英国(UK。正確には、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)を示しているのかも。
UKは、4つの国による連合国家(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド)だが、分け方次第で、アイルランド共和国は、南アイルランドと北アイルランドになり、5つになるので。

ブリテン島、アラン島、イニシュリン島の関係もある意味では、フラクタルとも言える。(ゆえに、架空の島にしたのではないか)

指を落とすと演奏は出来なくなるが、音楽家は別に指がなくても作曲は出来る。
モリコーネも楽器を弾かずに作曲していたし、耳が聞こえなくてもベートーベンは作曲していた。

戦争まで膨らませ、意識を向かせることで物語の価値に広がりを与えているが、もっと根源的な人間の性質的なことにも踏み込んでいると言える。
これがおっさん二人ではなく、熟年夫婦だったらどうか。
全く会話が無くなった熟年夫婦は、それでも暮らし続けているのはなぜか。
夫婦にしてしまうと愛情の話や血縁になるので、親友だと思っていた同士にしたのが絶妙。
これに近いのをニール・サイモンが『サンシャイン・ボーイズ』で行っている。


パードリックは純朴でいい奴だったが、この事件でやな奴になっていく。
いい奴ではせいぜい15年しか残らない。やな奴でもモーツァルトは200年後も残っている。
これは、ある意味では、戦争での武功と似ている。

 

思想や思考、知能のズレにおける争い、議論は、なぜか物理的な攻撃になっていく。
争っていると、物理的な事件(事故)が起きてしまいがち。

どっちか島一番の馬鹿か、という思考の仕方がそれを表している。
兄妹でさえ知能と学力の差がある。
仲良くできているパードリックとドミニクの間にもある。
ともに知能が高く学力があるコルムとシボーンの間にもある。
このズレをどう埋めるのか。
宗教における信心や解釈の違いもそこには描かれる。
神父はその教えよりも自分の感情にそって捻じ曲げてしまう。

マーティン・マクドナーは、この知識や知能、思想や情報、立場の違いを元にした作劇、テーマを大事にしている。

人は同じではない。
だが、同じところに住まなければならない。
今作は、バベルの塔の物語に近いところがある。
違う言葉をしゃべるようになり、意思疎通が出来なくなったから、人類は争うお湯になった。
違う言葉とは言語そのものではなく、知能のズレによる同じ言語でも違う言葉を使うこととも言える。
音楽であり、宗教が出てくるのは、同じなのに回想が違う言葉を使うものだからだろう。

 

一方通行のコミュニケーションだったものがディスコミュニケーションの宣言により、双方向になる、という皮肉を描き出しているとも言える。
パードリックがコルムの意見を尊重しないように、コルムもまたパードリックの意見を尊重しない。
それは、シボーンでさえもドミニクの意見を尊重しない。
結局、人間は自分勝手に生きていたい。
この自分勝手同士とどう折り合いをつけて暮らしていくのか。

 

今作は、5つの関係が描かれる。
・友人関係(コルムとパードック、パードックとドミニク)
・血縁関係(兄妹、父子)
・一つ間を挟んだ知人関係(コルムとシボーン、シボーンとドミニク、パードックと警官の父、シボーンとマコーミック夫人、コルムとデクラン)
・住民関係(北の町民、南の町民)
・上下関係(警官の父とドミニク、警官と庶民、指揮者と演奏者)

これは、そのまま英国、隣り合わせた国で内戦をしている国の関係にも置き換えられる。
日本で言うなら、朝鮮半島でも似た感じがある。つまり、日本、韓国、北朝鮮、中国とロシア、アメリカ。

ドミニクは父親から性暴力を受けている。
パードリックは知っていて、それを止めることが出来ない。
だが、パードリックはそれを言わないことで、ドミニクの生活を守ってもいる(彼に生活能力がないので)。
言わないことで関係を守っているという意味では、絶縁宣言前のコルムとパードリックの関係とも相似している。
シボーンも島を出たいと兄に黙っていた。
ドミニクもシボーンに思いを伝える。
みなが黙っていたことを吐き出すことで、関係が壊れていく。

その意味では、マコーミック夫人が予言をパードリックに伝えるのもそれと呼応していると言えるのかもしれない。

 

夫婦関係は示されない。
夫人は出てくるし、ドミニクの母、パードリックの両親も、デクランでさえ母がいない、動物でさえつがいは出てこない。
上下関係を見せるためか。
喪失を見せるためか。
キリスト教の三角の関係(父と子と精霊)の欠損によるアンバランスを見せるためか。(邦題はそこを埋めようとしたのかな)
パードリックとコルムの関係をそう見せるためか。
愛情を排除するためか。(ドミニクの愛情も拒否される)
そこには、同性愛も含まれる。

警官の父がせんずりしたまま眠っているのは、観る造酒がそれぐらい強いということを示しているのかしらね。
だから、それを飲むドミニクやパートリックは泥酔する。

犬(友になり、家畜を見張る、上の立場)と家畜(下の立場)の関係もある。
だが、パードリックはロバのジェニーを友にしている。
ロバ(ドンキー)は間抜け、のろまの代名詞。

 

2という数字はこの予言でも使われる。
これは、作意として、比較すべきものとして示していると思われる。

 

マコーミック夫人は、バンシーであり、シェークスピア劇における預言者でもある。
二つの死は、ロバのジェニーとドミニク。
ジェニーはコルムの指による窒息死。

ドミニクの死をどうとらえるか。
1:好意の告白による絶望の自殺 →宗教的に自殺は出来ないので、知能が関わる。
2:事故 →シボーンを近づいたときに事故を起こしかけているし、彼はよく水辺に行き、呑むことも多かった。
3:父による殺人 →彼自身「親父は人を殺したことがある」と言っている。

どれにしろ、パードリックがいい奴を辞め、コルムと同じようにドミニクが彼からは距離をとり、二人の関りが薄くなったことで、起きた悲劇と言える。

これをジェニーと同じように、コルムによってもたらされた死と見るなら、コルムによりパードックが離れたので2か3になるが、誰かにより偶然の死がもたらされたと考える。
どちらも窒息死(ドミニクは水死)としたとき、失恋の窒息であり、それによる憂さ晴らしの密造酒(指に当たる)で酔って崖に落ちた事故死であり、シボーンとパードックと警官の父が間接的に殺したと言えるので、2が有力。(ジェニーも間接的な事故死なので)

ただ、ドミニクは、ある意味でフール・オン・ザ・ヒル(丘の上の愚者)でもある。
その点で、キリスト教(この内戦はプロテスタントとカソリックのキリスト教同士の争いでもある)から離れて自殺出来るとも言える。

 

同性愛への嫌悪の要素が全体から漂う。
コルムは教会で、神父に言われて、男性に性的な欲求を持ったことはないと言っている。
警官の父は、ドミニクに性暴力を行っている。
パードリックは、結婚しようとしないし、警官の父をとがめない。
コルムは女性にモテると言われているのに、結婚していない。
ドミニクは知能の問題で、シボーンに拒否されたように見えるが、もしかすると、シボーンもまた同性愛者なのかもしれない。(結婚しなければ一人前でないという考えへの反発や賢い女性への差別かもしれないが)
コルムがパードリックと絶交をしたのは、同性愛者と思われることに耐えられなくなったからかもしれない。
もしくは、そうだと自分で気づいてしまったからか。
コルム自身、敬虔なキリスト教徒(カソリック)ではないと言っているのは、どこかで同性愛を否定する聖書の教えへの拒否だったのか。
指を切る行為は、ある意味で、男根を切ることと重ねられる。

コルムは、話しかけるなと言うが、パードリックを殴れない。
自分を傷つける。
パードリックも優しいのだ。

 

『スリー・ビルボード』にも同性愛のテーマが隠れていた。
それは、同性愛を嫌悪するとか同性愛の人々ではなく、自分とは違う指向をもつ相手、社旗とは違う指向を持つ自分自身とどう向き合うかということで。
それは、今作でも通底する。

 

マーティン・マクドナーには、舞台劇で『アラン諸島三部作』がある。
これは『イニシュマン島のビリー』(1996)、『ウィー・トーマス』(2001)、『イニシィアのバンシー』なのだが、三部作と言いつつ三作目の『イニシィアのバンシー』は発表されておらず、本人が「全然うまくいかなかった」と述べており、刊行も上演もされていない。そして、「今作はこれの発想を元にしている部分はあるが、物語は全然違う」というようなこと言っているとのこと。
『イニシュマン島のビリー』では足の悪い青年がロバート・フラハティ監督の映画に出ようとする話、『ウィー・トーマス』はIRAの幹部の猫殺しの犯人探しする話。今作の音楽や動物、IRAなど、近い題材がちょこちょこある。
ちなみに、マーティン・マクドナー自身はロンドン生まれロンドン育ちで、英国籍とアイルランド国籍を持っている。両親がアラン諸島出身なのでそちらで過ごすことも多かったので、アラン諸島の文化が体に馴染んでいるそう。
ちなみに、兄のジョン・マイケル・マクドナーも映画監督・脚本家で、ちょっと毛色が違う作風だが、ベルリン映画祭や英国アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得ている。

私はマーティン・マクドナー戯曲作では、『ハングマン』(日本版)を観劇したことがある。立場と情報のズレが起こす、首吊りについてのブラックコメディで、めちゃくちゃ面白かったんだよなぁ。最高傑作とも言われる『ウォー・トーマス』も見たいなぁ。

 

 

 

バンシーズと複数なのはなんででしょうね?
マコーミック夫人とシボーンということだろうか。
シボーンがふったことでドミニクが、不在なことで、ジェニーが死んだとも言えるから。
キリスト教に反発すること自体を指しているのか。
父と子と精霊の整理絵が悲劇をもたらすなら、父と子もまた悲劇の音を奏でると思える。

 

パードリックはジェニーの死には動揺するが、ドミニクの死には動揺しない。
人は、動物の死には慈愛を発揮するが、人には発揮しないことって感じないかい?
直接の自体とは関係ないものが被害、死さえ被るのが戦争だとも言っているようにも見える。

パードリックはいい奴だが、コルムとパブのマスターとドミニクとシボーンしか関わってこない。つまり、ドミニクとそう変わらないのだ。
コルム=パードリックであり、パードリック=ドミニクといえる。ここもまた相似形がある。
だが、ドミニクの方がパードリックを見捨てるのだ。


戦争においては、人の死を喜ぶところがある。(敵の死だけでなく、英雄的な味方の死も。自己犠牲のを美とさえする)
劇中で語られるように、バンシーは死を喜ぶのだ。
死を喜ぶ人々=バンシーズともとれる。

 

戦争は現実を寓話にしてしまう。

パードリックは優しいから永に火をつける。
それほどまでにジェニーを思っていたから、復讐せざる得ない。(『ジョン・ウィック』は犬を殺されてマフィアを全滅させます)
でも、同じようには犬のサムは殺さない。
時間も告知する。
家だけを焼くと。
そして、コルムは気づく。ドミニクやシボーンのようにパードリックは優しく、自分が優しくないと。


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追記。

エイプリルフールと言っているので、1923年4月が物語の中心。
アイルランド内戦は一応の結末を迎えるのが、1923年の5月。
この物語は、まさに内戦の終わりと呼応している。
その後、一つの国ながら二つの議会をもつ捻じれた国になる。

アイルランド内戦が、劇中のすぐ後の5月に終了するのを知らなくても、この時から続いてなんども紛争があって、100年後の今もアイルランド共和国が北と南で複雑な関係のままであることはよく知られています。(昨年も北アイルランド議会で南北統一掲げるシン・フェイン党が第1党になったのがニュースになっていました)
つまり、今アイルランドが複雑な過去をもったまま一緒に暮らしていることは悲しい現実でもあり、希望でもある(今は戦争にはなっていないという意味では)。
でも、そうやってその土地の人々の生活と歴史は続いていくものでもある。
例えば、韓国と北朝鮮が統一された後の朝鮮半島のことならアイメージしやすいだろうか
同じ土地に住んでいるのだから、その過去と違いをを抱えながら、それでも一緒に暮らしていかねばならない。
離婚しても夫婦が子供を通して人生の時間を重ねざる得ないのも似ているかも。

 

例えば、東西ドイツは一つに戻れた。(外からはそのように見えているだけかもしれませんが)

もしこれから北方領土が戻ってきた時のこと(別にどちらとも内戦していたわけではないが)を想像するとき、その文化の違いをどう受け入れていくのか、なんてことも想像してしまった。

 

この物語では、夫婦やつがいを出さないようにしている。
みな一人か、夫か妻がいない状態。(音大生のデクランでさえ母が死んでいる)
パードリックからは妹のシボーンも去るし、ドミニクは死ぬ。
それは、内戦(死)の痛みのようにも、孤独を伝えているようにも、受け取れる。なにより、死を想像させる。(デクランは実際にそう口にする)
その欠損が何らかの行動に駆り立てる。(店主の夫人は攻撃的になり、警官は子供とその友人に攻撃を加える)

 

寓話として考えれば、パードリックやコルムは一人の人間ではなく、集団の象徴だとも受け取れる。
実際、現代的に言えば、一人の人間もまた複数の人格の集合体でもある。
最後、憎しみを抱えながら、ともに関係を繋いでいくことが出来る。
なぜなら、パードリックは優しいから復讐を行うから。家を焼くと知らせて、犬を逃がして。
あのエンディングは、あの二人は絶交からよりを戻したともいえる。(この経験でパードリックが痛みと共に面白くなったとも考えられる)
それは、今のアイルランドを写しているとはいえないか。
人は生きている過去を一緒に抱えながら生きて行かざるを得ないのだから。
だから、このエンディングは複雑ながら、希望というか展望を示している。
だから、二人は対峙するのではなく、同じ方を向いて並んで立つ。
この物語の冒頭からできなかった状態にようやくなるのだ。
こういうのをホープ(期待)エンディングとよんでいる。
ハッピーへはまだ距離があるが、そちらの方へ歩んでいこうとする終わり方。

 

 

感想で、コルムがパードリックと絶交した訳が分からないというのを見ますが、コルム自身が退屈だからと言っています。
そんな理由では、言われても納得できないという人の心の頑なさを描いているとも言える。
言葉にしても理解できないことがあることを示している。
言葉の裏には別の意味がありそうだと。
納得できないと人は理解しない。

 

ライトモチーフ演出をしている映画では、繰り返しは非常に意味を持つ。
ここでは、腰かけるという行為もその一つ。
パブの椅子や家の椅子もそうだが、外で腰かけている場所に注目してみると、パードリックは港の岸壁に腰かけ、コルムは石垣に腰かけるところがある。
これが二人の立場を意味していると考えると、パードリックはドミニクと同じところで低いところの縁(土)に腰かける。コルムは生きていくための知恵で作ったし井垣の高いところに腰かけている。
この死井垣は、風が強く土が飛んでしまうのを防ぐために何百年も前につくられたもので、そもそもあのあたりの島は岩盤がむき出しになった地形で、天然の土がほとんどなく土自体を人間がつくって敷き、それを守るために石垣をつくっていったそう。そこまでして、あそこで暮らそうとしたわけだ。
ちなみに、あの近には5000年以上前の巨石の遺跡が残っている。
その視点で考えると、コルムは石垣(守る者)で、パードリックは土(守られる者)とも見える。
シボーンはコルムjのおかげで兄をそこまで守らなくてもよかった。
だが、コルムがその立場を捨てた時、シボーンは逃げる。そもそも、コルムの宣言の前にシボーンは本土の就職先に応募している。兄から離れるつもりだったのだ。
もしかしたら、シボーンのそれを知って、コルムは絶交を決断したのかもしれない。(マコーミック夫人の別の予言をコルムも聞いたのかも)
パードリックは守られていた。
だが、みなはついにそれを切り捨てようとする。
いや、自分を生きようとするとはそういうことだ。
だが、優しいコルムとシボーンは警官の父がドミニクにするようにはできなかった。
シボーンは島を出ていくことで自分の人生を生きることにした。
彼女のように出ていくこともできないコルムは自分の人生のために、理解力のないパードリックのために自分を傷つけてその覚悟を伝えようとする。右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すキリスト教の精神に近いかもしれない。
ドミニクもある意味で切り捨てられて死んだ。
だが、ドミニクもみなが気づかない知性があった。
そして、パードリックにもコルムやシボーンの気づかない知性がある。
なにより、パードリックも、コルムも、シボーン(兄妹の母も)も優しいが、それでも現実は厳しい。
宗教はその時、助けになるのか。

この物語は、欠損の物語だと前述したが、その欠損は宗教とも考えられるのかもしれない。
宗教では争いは止められない。(アイルランド内戦は宗教的な争いという面もある)
実際、コルムとパードリックの争いを神父は止めることは出来ない。
コルムは教会に通うがそこまで信じてないと言い切る。(あのあたりの島では土着の宗教が信じられている島もあるそう)
精霊としたことでキリスト教の物語であることを邦題は示したが、バンシーを魔女とすれば、アンチキリストの存在となる。
宗教はドミニクを救わず、パードリックも救ってはくれない。

コルムには良心がある。
コルムはパードリックに、警官の父がドミニクにやるようには出来ない(警官はパードリックも殴ります)。
コルムは自分を傷つけることで、自分の人生を生きたいのだとわからせようとする。なぜなら、そこまでしないとパードリックは分からないだろうから。
でも、シボーンは分かってしまったのかもしれない。コルムの本気を。
(シボーンは兄を守ると言いながらも、コルムに任せようとしていた。絶交宣言前に本土の仕事に応募している)

 

コルムが自分を傷つけるのはおかしいが、警官の父がドミニクを傷つけるのはしょうがない行為だと納得してはいなかったか?
ドミニクとパードリックの罪に警官が暴力で罰する。
コルムは自分の罪に、自分を罰する。
ドミニクが死んだように、パードリックも死ぬ可能性がある。(酔っての事故死は二人共に可能性がある)
ならば、コルムと警官の違いはなんでしょう?

 

これは、良心の物語とも言えるのかもしれない。
良心を捨てた時、ドミニクもパードリックから離れる。

カート・ボネガットの言葉を思い出す。
「愛は消えても、親切は残る」
彼の小説『ジェイル・バード』の冒頭に書かれている言葉だ。
だが、この物語は告げる。愛も親切も残らないと。
残るのは、優れた実績、憎しみだけ?
なら、あの石垣は優れた実績か、それとも優しさか。

 

もう一つ思い出したのは、ムンクの絵画『叫び』。
あれは、どこかからの叫びを聞いた人が耳を塞いでいるところを描いたもの。
あれがコルムに思えたのだ。
それは、内戦の爆発の音でもあるし、老いでもある。
それは死の音だ。
島の人にも聞こえている。
シボーンにも聞こえているだろう。
だが、パードリックとドミニクには聞こえていないのだ。
パードリックが言う「誰と誰が戦いいるのが知らないが、がんばれ」は皮肉ではなく、本当に分かってない可能性がある。彼には自国の内戦の状況が分からないし興味がないのだとしたら、それは誰かの怒りを買うかもしれない。



冒頭で、コルムの部屋には、各国の仮面(日本の能面もある)があるので世界に目を向けている(旅に出たかった人間なのかもしれない)。
シボーンがそれを為す皮肉。
コルムは、仮面をかぶっているという子tも示される。
それは、優しさかパードリックの友人という仮面か。
マーティン・マクドナーは日本好きで、彼の作中では、ヤクザ映画への言及がたびたびされる。北野武映画のファンでもあり、指切りに関してはそこからの発想の可能性もある。(パードリックとシボーン兄妹は『その男、凶暴につき』の兄妹からかも)

コルムの部屋に勝手に入るパードリックは勝手に部屋に入るロバのジェニーと重ねられる。

 

コルムは鳩の意味だそう。

アイルランド語の小ネタもけっこうあるそう。

 

崖の上にいる黒い影は誰か?
ドミニクか、いや、マコーミック夫人の可能性もあるな。

 

 

同じ映画を見て、分かる人と分からない人の間にも溝が生まれる。
映画を好むという共通点をもって同じ場所にいるのに。

 

 

 

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