で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1410回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』
妻を残し、幽霊となった夫の物語を静謐に綴るファンタジー・ドラマ。
切ないタッチで描き、各地の映画祭や映画賞で評判を呼んだ実験的幽霊譚。
主演は、劇中のほとんどを顔を隠したシーツ姿の幽霊として演じきり話題となったケイシー・アフレック。
監督と脚本と編集は、『セインツ -約束の果て-』、『ピートと秘密の友達』のデヴィッド・ロウリー。
物語。
アメリカ、テキサス州。
CとMは郊外の古びた一軒家に住む夫婦。幸せな日々は、突然、Cが交通事故にあってしまう。
病院で遺体と対面したMは、夫の亡骸にシーツを被せると、悲しみをこらえてその場を後にする。
亡くなったはずのCは、シーツを被ったまま静かに起き上がる。
彼の前に光のドアが現れるが、彼はそれを無視して自宅へと歩いていく。
出演。
ケイシー・アフレックが、夫のC。
ルーニー・マーラが、妻のM。
ケニーシャ・トンプソンが、医師。
リズ・カルデナスが、リンダ。
ジャレド・コップが、手品師。
ウィル・オールドハムが、予言者。
スタッフ。
製作は、トビー・ハルブルックス、ジェームズ・M・ジョンストン、アダム・ドナギー。
製作総指揮は、デヴィッド・マドックス。
撮影は、アンドリュー・ドロス・パレルモ。
プロダクションデザインは、ジェイド・ヒーリー、トム・ウォーカー。
衣装デザインは、アネル・ブロデュール。
音楽は、ダニエル・ハート。
現代アメリカ、幽霊になった夫が妻との愛を思い続けるファンタジー・ドラマ。
幽霊にある主題を託した実験的抒情系映像詩。スタンダードサイズに面取りフレームで素直に意図をこめて強めている。
動く写真になったルーニー・マーラの覚悟と顔さえほぼ見せないケイシー・アフレックに映画俳優という業の極地を見出し果てる。
『劇画オバQ』ならぬ『実験映画オバQ』とも言いたくなるが。
約40ページのシナリオから90分の画は漂い色づく。
背負いきったアンドリュー・ドロス・パレルモの撮影とダニエル・ハートの音楽が浄化し昇華する。
そこには、映画という存在への長く真直ぐに見えるほどカーブした愛がゆっくり揺らめき細くたなびきたる。
静謐なる時間と騒々しい空間で、星巡せる速度での思考と刹那数珠繋ぐ瞑想。
丸い穴から白い四角に像を結ぶ覆作。
おまけ。
原題は、『A GHOST STORY』。
『あるお化けのおはなし』。
上映時間は、92分。
製作国は、アメリカ。
映倫は、G。
受賞歴。
2017年のボストン・オンライン・映画評論家協会賞にて、ベストフィルム・オブ・ザ・イヤーの第9席に、選出。
2017年のボストン・映画評論家団体賞にて、最優秀編集賞をデヴィッド・ロウリーが、受賞。
2017年のシッチェス国際映画祭にて、最優秀撮影賞をアンドリュー・ドロス・パレルモが、Carnet Jove Jury Awardの最優秀長編映画賞をデヴィッド・ロウリーが、受賞。
2017年のファンタジア映画祭にて、AQCC Awardをデヴィッド・ロウリーが、受賞。
ほか、6冠。
キャッチコピーは、「自分がいなくなった世界で 残された妻を見守る一人の男の切なくも美しい物語 これは、記憶の旅の物語――」。
一部正しく、一部正しくない。この映画が目指した部分を情感押しに変えて、観賞価値にしようとしたのだろう。
ルーニー・マーラー押しの部分もあるのかも。
デヴィッド・ロウリーは日本ではあまり知られていないが、かなり気鋭の作家で、ロバート・レッドフォードが引退作で実話の映画化『The Old Man & the Gun 』(監督と脚本)を任せ(米国では公開され高評価を獲得)、『ピーター・パン』の実写化(監督と共同脚本)にも抜擢されている。リメイクのファンタジー映画『ピートと秘密の友達』、西部劇『セインツ -約束の果て- 』は今回の主演コンビによる作品で、どちらもオススメの秀作です。
音楽のダニエル・ハートは、デヴィッド・ロウリーの長編映画全作で音楽を担当。劇中曲であり、主人公が作曲した設定の曲は、彼のバンドであるDark Roomsの曲『I Get Overwhelmed』。
これまたラブストーリーで実験的映画の『COMET コメット』の音楽を担当していて、情緒を膨らましている。
このスタンダード(アスペクト比1:1.33)サイズで四隅を湾曲させたのは、額縁型フレーム(vignet ted edge)とも言われる。菱沼は面取りフレームと呼んでいます。
このチャレンジを十分な予算とスター二人で作り上げられる送受合わせての懐の深さに憧れ悶える。(予算は約1200万円で興収は約2億円)
ややネタバレ。
『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』と『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』を続けてシネマカリテで見たのだが、鏡像のような関係で面白かった。
前者は殺された画家の妻の復讐に行く木こりの夫が実体のある悪魔と戦い、空間を移動して、形のない妻の面影を求め、雄たけびを上げ、真っ赤な夜を描く。
後者は死んだミュージシャンの夫が残された主婦の妻を見続けるものの実体の自分は時間を移動して、形ある妻の面影を求め、無言のまま、まっ白な昼を描く。
なのに、どちらもアメリカのある側面を音楽を重要な題材として、がっつり描いている点は共通する。
実験的ホラー『私はゴースト』(面取りフレームも同じ)も同じ主題を含んでいたことを思い出す。
そして、実験的音楽映画『FRANK -フランク-』と同じ表現で全く違う主題を描き出していた。
ちなみに、この面取りフレームは『イーダ』でも採用されていた。この作品もある種、記憶の物語だったので、このサイズには記憶を喚起させるものがあると言える。
ちなみのちなみに、自作『はじめての家出』でもこの面取りフレームを別の表現として一部使っている。面取りされた絵本のイメージとして。
撮影は、Arri Alexa Mini, Panavision Ultra Speed and Super Speed Lenses、わずかにRed Weaponを使用とのこと。
テレンス・マリックやアピチャッポン・ウィーラセタクンのタッチとも比較されているが、おいらはイングマール・ベルイマンのそれを浮かべた。
ネタバレ。
そして、たぶん、これは、映画についての寓話であり詩。
シーツはスクリーンで、穴は映写機であり観客。家は映画館。
サイレントとトーキー、音楽、字幕、洋画、西部劇、移民が来て100年ほど前に始める、手紙(メッセージ)は隠されている、観客はせいぜい騒ぐことしかできないし、メッセージを探すけど見つけたらサヨウナラ。
映画は死を見せることができるメディアとも言われている。つまり死者(幽霊)のメディア。
そして、時間を操作出来る時間芸術。
この映画は、死が映画を纏って物語を見つめ続ける姿を見せる物語。
キャッチコピーで述べられる「記憶(メモリー=記録)と旅(移動=MOVE)」は、まさに映画のことを示してもいる。
CはCINEMA、MはMOVIEの頭文字なんじゃないかな。
だから、白い四角がいくつも映像モチーフとして描かれる。
家の壁、ペンキローラー、ベッド、ピアノの鍵盤、あの世へのドア、窓、病院の建物・・・・・・。
特に、メモは重要で、パイのメモ、隙間に入れるメモ、少女が石に隠す眼もと3つ出てくる。
場所の幌もそうかもな。
パンフでは『インターステラー』との類似を述べていた。あっちは黒い四角が出てたね。『2001年宇宙の旅』のモノリスへのオマージュだろう。
実は、キューブリックの元のイメージでは、モノリスは透明な板だったそう。実際に制作したが、そのクオリティからまだ技術的に難しいと分かり、黒に変更した。透明な板はある意味でスクリーンの用であったのではないか。
向かいの家の幽霊は、花柄のシーツだけどね。
幽霊同士は、テレパシーで会話出来るそう。
シーツを被っただけの幽霊ともいえる、が、しかし、なぜ古から幽霊がかような記号で描かれてきたのか、という疑問を刺激し、実際にそうであったから(世界中で人は遺体に布をかけるのか?)、とさえ思わせる。
共有知を、根源的記憶を、刺激する芸術の力を感じたり。
引用される文章は、ヴァージニア・ウルフが1921年の短編『憑かれた家』からのもので、落ちてきた本もこの短編が掲載されているもの。
デヴィッド・ロウリーのインタビューの引用。
ここにはデヴィッド・ロウリー自身が、仕事のためにLAに引っ越すか地元テキサスに留まるかで妻と喧嘩をした経験が背景となっている(彼ら夫婦は結局ダラスに家を買った)が、実は、そういった彼の個人的な心配のほかに製作にあたってもうひとつ、ユニークな逸話がある。ロウリーが、自身の偏愛するヴィンセント・ギャロの映画『ブラウン・バニー』の珍しいポスターを購入するかどうか迷っていたことが関わっているのである。
「数百ドルくらいのそのポスターを買うかどうかすごく悩んだんです。そういうものにお金を使うのはどうだろうか、そもそも家の壁に飾ったところで家自体がなくなったら全く無駄になるなとか……買ったとしても自己満足になってしまうし、自分が死んだら他人にとっては無意味なものになってしまう。でも、それをきっかけに死後のことや“家”というものについて、そして自分自身の存在意義について考えるようになりました。考えすぎて眠れなくなるほど悩みました。この件があったからこそ、この映画が生まれたとも言えるかもしれません。そしてこの映画を作ることで、その疑問の答えを見出すことにもなったのです。最終的にはポスターも買いました(笑)」
悲しみを食欲で見せた長回し(約4分)シーンはなかなかのグッとくるシーン。涙でなく王とで終わるところも。悲しみを飲み込もうとして、体が拒否したようにも受け取れる。
あの手紙に書いてあった文章は、脚本にはなく、ルーニー・マーラがMとしてCへ書いてもらったそうで、Cが見た後で処分され、何が書いてあったかは二人しか知らないそうです。
消えてしまったものへのノスタルジー、平和な日常の再発見による抒情などまで包み込んで、思考する余地と空白。空白って言葉が何て似合うんだろう。
その空白の輪郭線の中はあなたが埋めていいんだよ。