で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1055回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ロスト・エモーション』
リドリー・スコット製作総指揮による、『今日、キミに会えたら』などのドレイク・ドレマス監督によるアメリカ製のSFラブストーリー。
物語。
第三次世界大戦によって、地上の99.6%が破壊された近未来。
滅亡の危機に瀕した人類は、この元凶は感情だと結論付け、人類生存のために遺伝子操作で感情を排除した共同体"イコールズ"をつくり、存続の道を選んだ。"イコールズ"は保健安全局の監視下で清潔で静謐に管理され、へワイ的健康的に文明を発展させていた。
だが、感情を抑制できない状態になる【SOS】病が蔓延。
早急に治療方法の開発が進められてはいたが、まだ効果の薄い抑制薬しかできていなかった。
そこで、保険安全局によって、発症者は隔離施設に強制収容されていた。
ゆえに、発症はそれを隠した。
ある日、出版症に務めるサイラスは、発症者が飛び降り自殺するのを見たとき、同僚のニアにSOS病の兆候を見つけてしまう。
しかも、サイラスは自身にも、兆候があることに気づく。
原案は、ドレイク・ドレマス。
脚本は、ネイサン・パーカー。
出演。
ニコラス・ホルトが、歴史画家のサイラス。
クリステン・スチュワートが、記者のニア。
美形の二人なので、それだけで遺伝子操作による管理された人類というのを一目で表現しています。
ガイ・ピアースが、ジョナス。
ジャッキー・ウィーヴァーが医師のベス。
重要ですが、ポイントだけの出演です。
オーロラ・ペリノーが、アイリス。
ほかに、トビー・ハス、デヴィッド・セルビー、スコット・ローレンス、ベル・パウリー、など。
未来、第三次世界大戦の教訓から感情抑制の道を選んだ社会では恋は罪、そこで感情的になる病になった男女が恋をするSFラブストーリー。
静謐で劇的な感情をほの白い空間で描く。
安藤忠雄の建築を大々的にフューチャーしている。
いわば、清潔系SF版『ロミオとジュリエット』で短編的内容になっている。
ニコラス・ホルトの青い瞳がクリステン・スチュワートの淡い唇に触れたいと欲して気がふれるような衝動。
『時計じかけのオレンジ』『THX-1138』『2300年未来への旅』『ガタカ』『CODE46』『アイランド』などなどのSF映画の伝統芸を引き継ぐ秀作。
おまけ。
原題は、『EQUALS』。
『同等』『等しさ』などの意味になりますが、『同感』としたくなる。
そして、映画の途中に示され、ラストの変化する。
詳しくは下記のネタバレにて。
上映時間は、102分。
製作国は、アメリカ。
日本とシンガポールで撮影されたどこまでも無機質な白と緑の世界観も秀逸。
使われたロケ地は、長岡造形大学、ミホミュージアム、MOA美術館など。
ネタバレ。
SF版『ロミオとジュリエット』はまさによくあるSFの定番ネタですが、珍しく最後の展開が元ネタと同じになっている。
死を偽装し、その偽装を勘違いし、毒薬をあおって死ぬ、そして、残された方も死ぬ、あの展開。
そこをSF的にある種のオープンエンドに脚色している。
毒薬は【SOS】病の治療薬で、死ぬのは感情。
最後、サイラスがニアの隣に座り、彼女の手に己の手をそえるのは、まさに、カート・ヴォネガットの名言「愛は消えても、親切は残る」を物語にしたともとった。
愛情は感じなくても、記憶は残る。そこで苦しんでいる相手への思いやりが行動をとらせる。
それは本当の意味の"共感"(相手の感情を理解し共有すること。自分が同じように感じることではない。それは同感)を示そうとしたのではないか。
原題のイコールズの著したのが"同感"で、途中、サイラスとニアは同じ病になり同類になり、互いに愛情を抱く。だが、最後、サイラスは感情を失くし、ニアには残る。
しかし、記憶は残り、サイラスは共感し、親身を獲得する。
これは、ニアの仕事が事実を正確に記そうとする事実歴史記者で、サイラスが残ってない資料を画で表現する虚構歴史画家であることで示されており、最初の二人の状態は、途中でサイラスが事実歴史画家に変わり、二人は愛情という事実だが見せることができない愛情(=虚構かもしれないもの)を抱き、最後にはニアだけが自分の中にしかなく虚構のような愛情を抱いたままになりサイラスは愛情が無いにも関わらずあるような行動をとる。
これは、『エクス・マキナ』と近い題材を逆に描いている。
あちらは、最初からないAIの発展のテストとして、AIが愛情が持ち、人間に近づけるかを語りの中心に置き、その先を描いた。
今作では、人間が感情があるのが当たり前であるところから感情がなくなったにも関わらず、その先に生まれるものをラストに描き出している。
だが、ラストのラストに描いたがゆえに少し物足りなかった気もする。
手のアップで見せて人の中に、人の間にあるものに入らせようとしたのは感じた。
でも、2人が並んで何かを見ている画、もっと引いて、同じ列車に乗っている画を見せることで、逆に引いていくことで反対に中に入っていくこともできたのではないかしら。
その画を見せた多後で、もう一度、重ねた手が握り合うカットを入れるとか。
『卒業』では、ラストにバスに乗った二人を正面からとらえ、背にした窓に流れ去る過去を、座っている二人で現在を、二人が見る先に未来を、と示し、二人の表情の違いで観客を心の中に入らせようとした。
『セイ・エニシング』では、ラストに飛行機に乗った二人が一緒に見る表示ランプでその未来を示し、観客を心の中に入らせようとした。
重ねた手のアップで終わったことで、客観的になりもしたのではないか。
客観的にしたからこそ、なぜ彼は隣に座り手を添えたのかというオープンエンドになったともいえるのだが、単なるハッピーエンドにしたようにもとる人も増えたのではないかと思ったのだ。
けどね、『卒業』はあのダスティン・ホフマンの絶妙な表情でこれが喜劇にも悲劇にもとられるオープンエンドになっていたのだもの。
でも、あの重ねた手のアップからの真っ黒なエンドクレジットで見えてくるものもたくさんあるからなぁ。