戸隠古道歩き2日目の昨日14日(月)は朝食を済ませた8:00に戸隠小舎を出発し、越後道を歩き奥社から鏡池と廻った。中社から奥社までは三十丁とされているので3.2kmくらいだろう。越後道をしばらく歩くと左側に見えてくるのが女人結界石で、寛政七年(1795)に建てられた石碑には、(右 奥院中院 左 中院へ女人道)と刻まれている。仏教では修行場を女人禁制としたので、右は奥院を経て中院へ行く道で、男道と呼ばれていた。左は奥社に寄れない女性たちが越後道から中院へ行く道で女人道と呼ばれていた。

(女人結界石)

(越後道からの戸隠山)

(大鳥居)

(随神門)


(奥社への杉並木)


奥社の参道口の大鳥居からまっすぐに2kmの参道が続き、その入り口には下馬と刻まれた石碑が立っている。山門である隋神門は宝永七年(1710)の建立で、屋根は茅葺きで戸隠神社の中で最も古い建造物である。隋神門を過ぎると樹齢四百年以上の杉並木が続く。この杉並木は慶長十七年(1612)に植樹され、参道を挟んで両側に80本ずつあるらしい。
(髙妻山神鏡碑)

戸隠連邦の最高峰、2353mの高妻山へは修験者の登山道である大澤通りがあり、石碑には(高妻山神境 大澤長武津信 大澤通刈分)と刻まれている。文久二年(1862)高妻山に仏心という修験者が、青銅の神境を安置した。現在でも高妻山の頂上に残っているらしい。
その仏心が慶応元年(1865)に、草木を刈って道を造る大澤通刈分を成し遂げており、神鏡碑はその時の記念碑と言われている。
(法華多宝塔)

宝永二年(1705)に建てられた法華多宝塔は法華経に由来するもので、戸隠寺だった時代の遺物である。
(奥社への石段)

(九頭龍神社)

奥社本殿の左側にあるのが九頭龍神社で、嘉祥二年(849)の開山とされている。宝光社から中社への途中にある火之御子社で戸隠神社五社と言う。御朱印を授与しているのが、奥社•中社•宝光社の三社で、どこも列をなしていた。
(戸隠神社奥社)

奥社本殿は度重なる雪崩で崩壊したこともあり、現在の本殿は昭和54年(1979)に建てられたコンクリート造りであるが、社の奥は洞窟になっており、修験者の行場である洞窟から戸隠信仰が発達したとされる。
(戸隠神社奥社)

奥社本殿は度重なる雪崩で崩壊したこともあり、現在の本殿は昭和54年(1979)に建てられたコンクリート造りであるが、社の奥は洞窟になっており、修験者の行場である洞窟から戸隠信仰が発達したとされる。

(熊避け鈴)


隋神門を出ると右へ鏡池への道があり、熊出没注意の看板が立てられ、途中の道には熊除け鈴があった。ここからは持参したものを鳴らしながら歩いたが、この鈴が小さいので鳴る音も小さい。北アルプスの3000m級の山は、登山口の標高も高いので熊出没の話は聞かなくて、この鈴も奥多摩や奥秩父の山用として買ったものだが、これからは低山登りの方が多くなるので、大きめの鈴に買い換えよう。鏡池への遊歩道を歩き進めると、右手に杖を持つ不思議な感じの女の人の石像が立っていた。
(鏡池)




今年の夏は猛暑と、7月から9月中旬にかけての前立腺癌検査で、夏山登山が出来なかったが、晴れ渡ったこの日の天気で、鏡池から戸隠連峰がはっきりと望めたので、少しはリカバリー出来た気分だ。当初戸隠山登山も考えたが、戸隠山から九頭龍山への縦走路が切り立った狭い尾根で、蟻のようにはってわたる姿から(蟻のと渡り)と呼ばれ、数年に一度は転落死がある難所なので、登山は断念した。
(そばの実)

1時間に1本のバス時間に合わせ、鏡池から戸隠蕎麦の有名店(そばの実)に11時にたどり着いたが、既に店の前には順番待ちの人達が多数いて、店の人に待ち時間の予想を尋ねたら、1時間とのことだったので諦めた。
(善光寺)



戸隠からのバスを善光寺大門前で降りて、一応善光寺を参拝したが、2度目なのと、その大きさと多くの参拝者から短めの参拝だった。そして14時という遅めの昼食は、参道の店での蕎麦にしたが、前日と同じく特にどうということもなかった。蕎麦については少しばかりうるさいのだ。
長野駅には15時頃に着いたが、新幹線の指定席券は20時台まで完売で、長野始発のあさま622号の自由席で帰ってきたが、軽井沢からは立ち席の乗客でいっぱいとなった。
今回の戸隠古道歩きでの三社巡りは、天気にも恵まれ、その歴史的遺物や戸隠連峰の絶景も見れて良かった。次の古道歩きは熊野古道か木曽路の宿場巡りを考えている。