一期一会

日々是好日な身辺雑記

日経書評と「The 500」

2012年07月31日 | 日記


日経新聞の書評は日曜日の朝刊と水曜日の夕刊に載る。
日曜日はその書評を含め(Sunday Nikkei)として3面で読書欄が構成され充実している。
水曜日の夕刊は(目利きが選ぶ今週の3冊)という★付きのオススメ本の欄があり、
18日に星四つ(読みごたえたっぷり、お薦め)で、「The 500」が紹介されていた。
マシュー・クワークという初めて聞く作家の本で、紹介文の中に
(ジョン・グリシャムの法律事務所に迫る・・・)と書いてあり興味をひかれた。

早速翌日から我が町の書店や通勤乗換駅の書店を探してみたが置いてなく、
Amazonで注文しようとも思ったが、週末に読む本が無かったので、
都心で勤務のカミさんに買ってきてもらう。

「The 500」は、19歳で海軍入隊し、その後苦学しハーヴァード・ロー・スクールを出た
主人公マイケル・フォードがロビイストのコンサルティング会社に入社、高額報酬を得て、
同じ会社に勤めるエール大学出のシニア・アソシエイトの女性アニーも恋人にし、
自身もシニアアソシエイトに昇進し、順調に成功の階段を上っていくが、
ある時会社トップの犯罪の秘密を知り、そこから対決していくという「法律事務所」と同じような展開である。

The 500の意味はアメリカを牛耳る超エリートの数は500人、それがタイトルの由来で、
ロビイストが非合法な方法で商務省の役人や下院議員へのロビー活動も出てくるが、
なんか今ひとつ説得力がない。

この本はワーナーブラザーズが6桁半ばから7桁の金額で映画化権を取得したらしいが、
確かに映画にしたら良いような筋立てではある。最後にちょっとしたドンデン返しもあるし。

Amazon comのサイトには「This is a real page turner」とあったが、
確かに3日程で読めたので、ページターナーであることは間違いない。

日経の書評の星での評価は、三ツ星は(読みごたえあり)、二つ星が(価格の価値はあり)、
一つ星は(話題作だが、ピンとこなかった)の定義であるが、どれにも当てはまりそうな気がする。

面白かったのだが、サスペンスとして深さがなく、(法律事務所に迫る・・・)は、
オーバーでジョン・グリシャムが怒るだろうというのが読み終えた感想である。

同じく日経の電子版で紹介されていたのを見て、先々週買い読んだのが「野いばら」。
(選考委員会満場一致の傑作歴史ロマン!) (日経小説大賞受賞)とあり、
書店で手に取り10ページ程読んだところで、面白そうだと思い買う。

イギリス出張中のビジネスマンが偶然コッツウォルズで150年前に英国軍人により書かれた手記を手にする。
そのノートには生麦事件が起きた頃の横浜を舞台に英国軍人と江戸幕府の武士、
その親類筋の武家の娘との交流が書かれている。

現在のコッツウオルズでの話と、ノートに書かれている幕末の横浜での話が交互に
清冽な文章で描かれている印象的な作品である。

唯、この二つの話の描き方に物足りなさを感じてしまう。
284ページの長編小説であるが短編小説を読んだような感じである。

なかなか自信をもって(お薦めです)と言える本に出会うのは難しい。
来週の休みには都心の書店に行き、そんな本を探すことにしよう。



南牧村キャンプ

2012年07月21日 | 山登り


赤岳を下山し、登山口の美濃戸に着いたところで晴れ間が出てきた。
横岳と硫黄岳行きを断念したことで、予定より2時間程早く下山したので、
当初予定していた八ヶ岳裾野の立場川キャンプ場をやめ、
相棒のゲンちゃんが前に行ったことがあるという群馬県の南牧村キャンプ場に変更し、車で向かう。
長野県の佐久の近くに南牧村(みなみまきむら)があるが、こちらは(なんもくむら)である。
途中、野辺山の近くで蕎麦を食べキャンプ場に15時半頃に着く。
長期滞在用のコテージやバンガローが中心の白樺の木に囲まれた綺麗なキャンプ場だ。
まだ夏も本格的になってないからか混んでいない。
早速テントを二つ張り、折り畳み式のテーブルや椅子をセッティングする。



暫くして5時からオープンするキャンプ場内のお風呂へ行く。
沸かし湯ではあるが、浴槽も大きく、傾斜に立っているので全面がガラス張りで、
そこから見える山並みが素晴らしい。
風呂から上がって缶ビールで乾杯。ツマミもナッツ、チーズ、サラミとテーブルに広げられる。

キャンプに関わるアルコール類、ツマミ、食材は全て彼が準備・持参し、後で精算するのだ。
アイスボックスや食器、キャンプ道具一式も含めてなので大変だ。
それと(シェフは二人いらない)との彼の言葉に従い、料理作りもお任せだ。
最初のビールを飲み終えたら、(もう一本どう?)と彼、(えっ!)と言いながらも付き合う。
普段、外で彼と飲んでもビールは一杯だけなのだ。それも飲み終えたら(次はワインにする?)と、またまたオススメ。
(食事前にこんなに飲んだら・・・)と言うと、(焼酎もあるから)と、
そういう意味ではなく・・・と思いながらも白ワインに移る。
身長180cmの大柄な彼はアルコール摂取許容量も違うのだろう。
いつも休日の夕食はビールやワインを飲みながら作るという彼。
今でいう(育メン)で、料理は年季が入っており、お手のもの。
ワインを飲みながらハンバーグ付きナポリタン、ジャーマンポテトという
ジャガイモとベーコンとタマネギを炒めたもの、
彼が家の裏庭で作ったキュウリ、トマトを使ったサラダを手際よく作った。
夕食の準備が終わった頃にはワインも空いて、焼酎に。
そんな夕食も満腹と、もう飲めないという状態で20時に終り、昨夜と同じくバタンキューと眠りにつく。



翌日は大きな蝉の鳴き声で4時に目が覚める。隣のゲンちゃんのテントからはイビキが聞こえる。
しばらくして寝袋から抜け出しキャンプ場を散歩。
5時には彼も起き、コーヒーを淹れる。起きて直ぐには食欲がわかないということで、
ウグイスの鳴き声を聞きながらコーヒーを飲み、まったりとした時間を過ごす。

1時間位そんな時間を過ごし、朝食の準備。ここでも(シェフは二人いらない)で、
(ラジオでも聞いてて)との彼の言葉に従う。何故かいつも(わたし食べる人)の立場になってしまう。
朝食はハムエッグとサラダにフランスパンとコーンスープ。そして私が持ってきたオレンジ。
このキャンプ場は山の傾斜にバンガローやコテージが建っており、
その間に少しテントサイトがあるという造りになっている。
我々のテーブルの下方が一家4家族でのバンガロー泊りの人達。
朝食はリゾットと味噌汁らしく、皆が美味しいを連発。
それを聞いていたゲンちゃん(リゾットも良いな)と。この探究心が料理上手になるコツか。

そんな朝食を済ませ、キャンプ場を出発したのが9時。
一般道を通り寄り道をしながら帰ろうということになる。南牧村は日本一の過疎地らしく、山間部の集落を通ると、
人の住んでいない廃屋の古民家が何軒もある。
彼と私の共通の関心事というか夢は「古民家での田舎ぐらし」なのだが、
ここ南牧村は色んな意味で住むには厳しそうである。

途中「道の駅」で野菜をお土産に買ったりしながら、上野村に向かう。
上野村は1985年{昭和60年)8月12日に日航ジャンボ機が墜落し、520名の方が亡くなった場所だ。
墜落現場の御巣鷹山から少し離れた場所に「慰霊の園」がある。
そこには合掌をイメージした高さ11mの慰霊塔と、
その後ろに身元の確認出来ない遺骨が123個の骨壷に入って納められている納骨堂がある。
線香をあげ、犠牲者の御冥福を祈る。

その納骨堂の前の石碑に犠牲者の名前刻まれている。
この事故で亡くなった(上を向いて歩こう)の歌手坂本九の名前を探したが見当たらず、
園内を歩いているうちに本名の(大島)を思い出し、再度戻り確認したら[大島 九(ひさし)]があった。
どういうわけか本名を覚えていたのは、小学生の頃の大人気歌手だったからだろう。
園内に遺族の句碑も立てられていた。その中に次のような句があった。

「空にちる 末子思えば 我悲し 不滅の命 生みおかずして」



この後、同じ上野村にあるリゾートエリア「天空回廊」に寄る。
ここにはバンガロー、森林キャンプサイト(まほーばの森)と川和自然公園を結ぶ
長さ225mの吊り橋がかけられている。
高さ90mのこの吊り橋から眼下に見る渓谷と森林の景色は素晴らしい。

ここで30分程過ごし、十国峠を抜け秩父の小鹿野町に出ることにする。
ここに彼が前に行った美味しい蕎麦屋があるということで、そこで昼食を取ることに
する。



その蕎麦屋(そば切り場 しのうち)は町から少し離れた場所にあり、普通の民家風な畳敷きの店内だった。
満席で暫く待つことになる。

彼は(おろし蕎麦)私は(天ぷら蕎麦)を食べる。確かに美味しい!
天ぷらも海老2本、イカ、野菜5種類と盛り沢山であったが、こういう美味しい蕎麦は
ザル蕎麦でも天ぷら蕎麦でもなく(もりそば)で蕎麦そのものを味わうのが良いのだろう。

さて、これから梅雨が明け本格的な夏になりそう。
海へも行きたいし、テニスで汗もながしたい。

八ヶ岳登山

2012年07月18日 | 山登り


週末三連休を利用し40年来の付合いの友人と八ヶ岳登山へ行ってきた。
出発の土曜日は3時に強い雨音で目が覚める。
天気が気になりベッドから抜けだし早速マピオンのピンポイント天気予報で確認したら
八ヶ岳は15時から雨の予報。
どうしようかと色々なケースを考えていたら、彼から「どうする?」との電話がある。
コースタイムからすると15時までには赤岳頂上に行けそうなので、
行くだけ行って現地で判断しようという結論になる。
予定通り6時に新所沢駅で待合せ、彼のワンボックスカーで圏央道、中央高速道を
走り登山口の美濃戸を目指す。

諏訪南インターを降り美濃戸に着いたのが9時半。
翌日までの駐車料金2,000円を払い登り始める。
八ヶ岳の主峰赤岳の直下にある行者小屋へは柳川南沢ルートをとる。
沢に沿っての川の渡りを繰り返し、唐松の原生林を登って行くと行者小屋へ到着11時50分。
晴れていると赤岳が見えるのだが、曇り空でガスがかかっていて全く見えない。
ここで標高2,354m、さすがに肌寒く汗をかいたシャツを着替え,
リュックからゴアテックスのアウタージャケットを取り出し着る。
ここでの天候の状態で判断しようということで出かけきたが、雨は何とか持ちそうなので、
持参したおにぎり弁当を食べ、赤岳を目指すことにする。

行者小屋から赤岳へのルートは地蔵尾根からと、阿弥陀岳からと文三郎尾根があり、
いづれも2時間位のコース。今回は直に登る文三郎尾根を登ることにする。
このルートは30年前に登ったことがあるがその当時は文三郎道と言われ、
地図にもそのように表記されていたが、現在は文三郎尾根となっている。
鉄の階段や鎖も作られ格段に登りやすくなっていた。だが疲れるのは同じ、歳のせいか?



中岳への分岐を過ぎ岩場を登り、2899mの赤岳の頂上に着いたのが14時半。
雨にも合わず登りきれたのは良いが風が強く、ガスも凄く何も見えない。
頂上での記念撮影もそこそこに赤岳頂上小屋に入る。
玄関にはストーブが焚かれ、受付のボードには最低気温6度と書かれている。
部屋は20人が入る2段ベッドの部屋。リニューアルされたということで中は綺麗になっていた。

早速着替え、食堂でビールと酒で乾杯。夕食は大人数なので5時から2回に分けて取る。
我々は1回目だったので、食事を済ませた後は部屋に戻り、今度は焼酎で〆。
山小屋の消灯は8時なのだが、〆を終えて布団に横になったら二人とも疲れと酔いで6時には寝てしまった。
翌朝は周りがゴソゴソうるさくなり目が覚めたのが3時。
4時半頃にご来光が拝めるかと思い外に出たが、昨日と同じく霧で見えなく、風も強く小雨が降っている。



5時からの朝食を済ませ、横岳、硫黄岳を目指し6時に赤岳頂上小屋を出る。
小雨模様で霧が深く視界は20m先くらいまで。痩せ尾根なので左側は断崖絶壁、
岩場を下って行くと30分程で赤岳天望荘へ着く。小屋の前にはこれから出発しようという人達が数名。
赤岳頂上の天候を聞かれて、風と霧の様子を伝えると、頂上行きを止める人と、
せっかく来たのだから・・と頂上を目指す人に分かれる。
我々もここで協議、視界不良ということで、あっさり横岳、硫黄岳行きを断念し、
地蔵尾根のルートで下山することにする。森林限界点までは鎖をつたい岩場を下って行く。
1時間半程で行者小屋に着く。いつものことながら、下りのほうが時間がかかる。
地図上のコースタイムより30分程遅い。行者小屋から美濃戸へは赤岳鉱泉へ廻り、柳川北沢のコースをとる。
南沢と比べ川の水量も多く流れも速い。横岳と硫黄岳行きをカットしたことで予定より2時間程早く美濃戸に着く。



八ヶ岳は30代の頃によく登った。手軽に電車とバスで登り口まで行けるのと、
2,800mクラスの山が連なっているので、森林限界点を超えてからの雄大な景色が楽しめる。
清里側から茅野側とアプローチを変えての山の楽しみ方も出来る。
40代中頃まで南アルプスの鳳凰三山や北アルプスの鎗、穂高、白馬等に登ってきた。

登山を本格的に始めたきっかけが新田次郎の「孤高の人」を読んでからだったと思う?
実在の人物(単独行の加藤文太郎)をモデルにしたこの本は山岳小説と称されることもあるが、
普通に小説として一級の作品だと思う。同じく新田次郎の、医師で登山家の今井通子をモデルにした
「銀嶺の人」や登山家の芳野満彦がモデルの「栄光の岩壁」も良い小説だった。オススメの三冊です。
山登りにハマっていた頃は月刊誌の「山と渓谷」やラインホルト・メスナーの本をよく読んでいた。

それにしても、今回感じたのは山登りをする女性が増えたこと!
山ガールと言われる若い女性や、ガールと言うには・・・という年代の女性まで、多くの女性が登っていた。
奥多摩や奥秩父の山と違い八ヶ岳は岩場もありそれなりの体力が必要、
本当に山登りが好きじゃないと登れない。
同じ部屋になった50代~60代と思われる女性6人のグループ、山形を深夜1時半に車で出発し
16時に赤岳の頂上に立ったとのこと!夕食の後も部屋で酒盛り、元気なものである。

我々の年代は一般的に女性の方が趣味や友人との交際等で自分の世界が広がるようである。
それに比べ男性の方は永年職業生活が中心になっていたので、
それが終わると交友関係も限られ、自分の世界が狭くなる傾向があるようだ。
{一期一会}との思いで、人との出会いを大事にし、趣味や好奇心を持つのが重要なのだろう。

八ヶ岳登山の写真をフォトチャンネルにアップしました。
インターネット上の公開サイトですので、本人判別の出来ない写真だけアップしました。
従いまして、サングラス着用もその為です。伊達ではありません。
目にマスキングをするツールも知ってますが、被告人でもないのに、それも奇妙なので。


去年は金峰山、瑞垣山と2回、2100m級に登ったが、今回の八ヶ岳は天候が悪かったが
森林限界点を超えて登る2900m級の山の別の面白さを再認識した。
普段ジョギングで脚を鍛えているつもりだが、山登りは太腿を中心とした別の筋肉の鍛錬が必要なようだ。
これからは奥秩父や丹沢の日帰り7時間コース位を数多く登り鍛えることにしよう。


晴走雨読の週末

2012年07月08日 | 日記



勿論、こんな(晴走雨読)四文字熟語はなく(晴耕雨読)をもじったもので、現在の休日の基本スタイルである。
そして今日は雨で走れなく、カミさんと娘も外出し留守でもあり、一日家でソファーに横たわりながら読書。

日曜日から半藤一利の「昭和史」を読み始めたが、なかなか読み進めなかった。
ミステリーのように(一気読み)は出来ないこともあるが、
今週は月曜日3時起きでのイタリアvsスペインのEURO2012決勝戦のTV観戦、
水曜日は外資IT会社時代の仕事仲間三人と市ヶ谷で呑み、焼酎2本を空け、
昨日は川越で友人ゲンちゃんと来週の八ヶ岳行きの打合せで一杯・・・という具合だったから。

この本は年数回行われる所沢のイベントホールでの古本市で買ったもので定価1600円が500円だった。
同じ著者の(幕末史)も2年前に読んだが、講談調でイマイチだったが、
先月読んだ「日本近代史」が昭和史の部分は少なかったことと、価格にも惹かれ買った。

講談調は相変わらずであるが、これも歴史を平易に解りやすく・・・という編集意図からなのだろう。
この本には1926年から終戦の1945年までの20年間の激動の時代が書かれている。

その20年間を年表的にまとめてみると、

●関東軍による張作霖暗殺事件。昭和3年(1928年)
●満州事変や日本軍謀略による上海事変の勃発とラストエンペラー溥儀による満州国の独立。昭和7年(1932年)
●国際連盟による日本の満州からの撤退勧告、それを無視しての国際連盟脱退。昭和8年(1933年)
●北京郊外の盧溝橋での銃撃戦、いわゆる盧溝橋事件に端を発しての日中戦争の始まり。昭和12年(1937年)
●日独伊三国軍事同盟の調印。昭和15年(1940年)
●真珠湾攻撃そして米国との太平洋戦争開戦。昭和16年(1941年)
●サイパン島陥落、連合艦隊フィリピン冲でほぼ全滅。昭和19年(1944年)
●東京大空襲で下町が大被害。広島、長崎に原爆投下。ポツダム宣言を受諾・終戦。昭和20年(1945年)

明治時代の日清戦争、日露戦争の勝利から日本は軍事優先の国家になったのだろうが 、
軍部の独走やそれを許した政府首脳の無能さや定見の無さが良く分かる。
特に第三次内閣までやり、「国民政府(蒋介石)を相手にせず」として日中戦争を
泥沼化した近衛文麿の責任は重大である。

そして笛や太鼓で国民を煽り、熱狂した世論を作った現在の朝日、毎日、読売の大新聞社の責任。
また太平洋戦争開戦時の熱狂ぶりは戦後を代表する評論家の小林秀雄や亀井勝一郎も同じだったのだ。

そんな中で全編を通して引用される永井荷風の日記が興味深かった。
日本に「中国を一撃すべし」の空気が満ちてきた頃の昭和11年2月の日記は次のように
書かれている。

「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。
政党の腐敗も軍人の暴行も、これを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。
個人の覚醒がせざるがために起こることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於いても
これは到底望むべからざる事なるべし」

熱狂の中で冷静に観察していたのである。

また2・26事件や各事変や開戦に関しての昭和天皇のスタンスが天皇の言葉として
「昭和天皇独白録」から引用されており、これが非常に興味深かった。
この本は文春文庫から出版されているようなので、早速読んでみよう。

それにしても大義なき戦争であり、日本の防衛線としての満州駐屯や、
資源確保の南進という理屈を付けても侵略戦争であることは明白である。

太平洋戦争の主な戦場での日本の兵隊さんの死亡数は・・・
*ガダルカナル島での戦死、餓死、病死18,300人 *ニューギニアでの戦死157,000人
*サイパン島での戦死30,000人 *フィリピンでの戦死470,000人*硫黄島で19、900人
*沖縄での戦死109,600人 赤紙一枚で招集され亡くなっていった人たちである。
その他に一般の市民が沖縄で100,000人、本土空襲で299,485人が亡くなっている。

また、8年間にわたる日中戦争の死者は411,610人。

太平洋戦争で敗色が濃厚になってきてからの特攻作戦により若い命を散らしていった人たちは
海軍2,632人、陸軍1,983人の合計4,615人。
この戦争での日本の死者は3,100,000人を超えている。
これだけの死者が20年の昭和史の結論。

この本の最後は「それにしても何とアホな戦争をしたものか」と締めくくられているが
その通りである。

6年前に亡くなった父親はフィリピンまで行って生還してきたのだが、
この本を読んであらためて大変な時代を生きてきたのだと思う。