物部の森

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日記風に書いてます。

【書籍】街場の現代思想

2008年08月27日 | Weblog
 『街場の現代思想』(内田樹著、文春文庫)を読む。

 この中で衝撃の一章があった。「文化資本とは何か」というタイトル。
 少し引用すると、

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 フランスは「階級」社会ではないが、「階層」社会である。そして、階層と階層の間には乗り越えることのできない「壁」がある。その「壁」は社会的地位や資産や権力や情報や学歴など、多様な要素によって構成されているが、ある階層に属する人間と別の階層に属する人間を決定的に隔てているのは「文化資本」の格差である。
              (中略)
 文化資本は「気がついたら、もう身についてた」ものであり、「気がついたら、身についていなかった」人は、すでのほとんど回復不能の遅れをとっている。
 芸術の鑑識眼についても美食についても作法についても、そのようなものを身につけたいと欲望を持つということはすでに「文化資本が身体化されている人」と、そうでない人との間に、歴然とした社会的な差異が生じていることの効果だからである。
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 学生の頃から何となく感じていたことを見事に言い表している。私の周りにも前者の「気がついたら文化資本が身についてた階層」に属する友人は何人かいた。共通スペックとして、親に品性がある、家は閑静な住宅地、学校は私学、アウトドア派。そういう奴らは、一緒にアホなことやってても何となく気品と余裕がある。下町で育った私には身に付けようのない何かハイソなものを彼らは持っている。
 それが筆者の言うところの「文化資本」なのだ。後天的な学習で習得できるものではないということがよーく分かった。私のような後者の階層に属する者が文化資本の獲得に努力するという身振りそのものが、もう「アウト」なのだ。しょせん私なんて後天学習型の文化平民、「寺田町のウンチク野郎」どまり。鋭すぎるよ、ウチダ先生~
コメント
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