行政書士・社会保険労務士 大原事務所

人生も多分半ばを過ぎて始めた士業。ボチボチ、そのくせドタバタ毎日が過ぎていく。

ジェットストリーム

2014-10-27 23:21:25 | 日記・エッセイ・コラム
 仕事をする時、全く静かなのも嫌なので音楽を流している。ラジオは仕事に集中出来ない。CDはそれほど数を持っていないので飽きてしまう。放っておいても何時間か色々な音楽が流れているように出来ないかなと考えていたら、良いのがあった。ユーチューブだ。著作権の事は良く分からないが、私が若い頃聞いた音楽が好きなだけ流れてくる。誰の選曲なのかミックスとかを探して流しておくと、長時間邪魔にもならず快い。仕事をしているパソコンで操作できるのも便利だ。
 何か良い音楽はないのかと探している時に古いジェットストリーム(FMラジオ番組)を見つけた。番組はFM東京(今はTOKYO FM というらしい)でいまも放送されている。著作権の関係だろう、古い物ばかりだがそれが私には丁度いい。懐かしい。
 でもこの番組、実を言うと昔はあまり好きではなかった。1970年代、東京に出て来て、汚い下宿で眠れない夜にラジオを点けると、低いキザな声のパーソナリティがパイロットになりきって芝居をしながらイージーリスニングを流す音楽番組という印象。その作られた世界は当時の私の生活とは全く無縁だった。飛行機に乗って世界を旅するなど想像もできなかった。だから殆ど聞かなかった。
 聞くようになったのは、就職してずいぶん経って、何とか少し生活に余裕もできてからである。AM局の深夜放送にはなじめない年齢になっていた。NHKのラジオ深夜便に親しむにはまだ若かった。何か寝ながら聞ける番組はと思って探していたらジェットストリームが聞こえてきた。相変わらずの内容、相変わらずの城達也と言う人の声。落ち着いた低く静かな声に騒がしくない音楽、寝ながら聞くつもりが、ビールを飲みながら、なにか読みながら最後まで聞くことが多かった。
 ただ、それも一時期。仕事も遊びも忙しくなり、そのうち結婚、子供が出来るという生活の変化の中、極たまにラジオを付けてまだやってるんだということに感心して、タイマーをかけて、最後まで聞けないで眠りに落ちた。
 1995年の春、この年は年頭に阪神大震災があり、一年を通して酷い殺人事件や宗教絡みの事件が相次ぐ嫌な年だったが、そんな大きな事件の中で、城達也という人が亡くなった事を何かで読んだ。何となく寂しい思いがした。
 それからは全く忘れていた。そして最近ユーチューブで見つけた訳だ。懐かしかった。私が学生のころの放送もある。あのわざとらしい設定も、当時の自分の生活とは全く違った世界も、ただ懐かしい。
 今、仕事中は音楽に迷うとジェットストリームを流している。ただし、一つ欠点がある。時々流れる城達也という人の声に仕事を中断して聞き入ってしまうことがある事だ。仕事が中断されて厄介である。昔キザだと思った声は低く魅力的にしか聞こえない。
 この人は1994年の年末の番組を最後にジェットストリームのパーソナリティを降りた。その時食道癌で、すでに余命の宣告を受けていた。病気のせいで思うように声が出なくなっていたことなどを最近知った。そして翌年2月下旬天国へ逝った。63歳だった。最後の放送もユーチューブにアップされているが、最後の最後まで最終回であることに全く触れていない。最後に落ち着いた声でそれまでの放送では一度も言わなかったという「さようなら」という言葉を使っている。病気の話も全く触れない。いつもと違うのは新しい番組の案内とその「さようなら」だけで、あとは最後まで、全くいつもと同じような仕事。声を聞く限り全くなんの力みも動揺もない。
 たいしたことないのだが私は心臓に持病がある。暫く前、外来の検査で心臓の血管に新たに狭い所が見つかったと言われた。
 「入院して検査はしてみますが、今度は細い血管が狭くなっているので新たな治療はできません。前に太い血管が細くなった時は金属の網(ステントという)を入れて太くしましたが、細い血管の場合はそういう治療が出来ないんです。バルーンを入れても無駄。すぐまた詰まります。医学の限界です」
 「治療出来ないとどうなるんでしょうか」
 「まあ、今でも生活に気を付けて、薬を飲んで、尚、今の状態になった訳ですから、かなり高い確率で近い将来詰まるでしょうねえ」
 「詰まるとどうなりますか」
 「死にます。詰まった血管の先の心臓の筋肉は死にますから」
 私は60歳。動揺した。心臓の一部が壊死しただけで死んでしまうのか?と聞くのも忘れるくらい呆然としていた。その医者は確かに死ぬと言った。ただ、動揺してまさかと思ってるうちに入院して検査。結果、外来での検査結果は間違いだと言われた。新たに狭くなっている血管は無かった。前に金属の網を入れたところも異常はないという。病状は進行していない。だから、動揺はしても、みっとなく周章狼狽ということは無かった。でも、これで余命をはっきり宣告されたら、しかもそれが二、三か月だとしたら、私はいつもの通り仕事が出来たろうか。みっともなく慌てふためき仕事にならなかったと思う。
 やはり、充実した人生を過ごした人は、死に際も潔いのかもしれない。私は今さら無理な気がするが。

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