遠藤周作の言葉だったと思う。「狐狸庵先生シリーズ」のなかに書いてあった記憶がある。太宰治も似たようなことを書いていた気がするがどうだったろう。本棚の何処かにあると思うが探すのも面倒だ。間違っていたらごめんなさいということで書き進める。
どういうことかというと、夜、布団に入った時など、ぼんやりしている時に、唐突に昔のとんでもなく恥ずかしいことを思い出す。思わずこの世から消えてしまいたくなるような大失敗。出来る事ならその時までかえって人生をやり直したい。よく消える消しゴムで消してしまいたい。そんな記憶が、忘れていた筈の記憶が、心の奥の底から、なんの脈絡もなくいきなり飛び出してくる。その時の狼狽する様を形容した言葉だ。
だれにでも一つや二つはあるだろうが、私には沢山ある。一つ浮かんでくると、引きずられるようにポツポツと浮かんできて死んでしまいたくなる。もっとも、どうせそのうち死ぬのだから死にたくはなっても本気で死のうとは思はないが、暗闇の中で自分の顔が熱くなるのがわかる。
それに私の場合、恥ずかしいことだけではない。言い訳になるが、そんなつもりは全くないのに結果的に約束を破ったり、人を裏切ることになったこともある。いずれも極悪非道の無礼千万、万死に値する行為だ。
だから「キャッと叫んでろくろっ首」ではすまない。「ウオーッと叫んで手で顔を覆う」はめになる。週に一回教会に通ったところで当然なんの贖罪にもならない。
それにしても、そんなことを思い出す回数が最近増えているように思う。
二階で仕事をしていて、コーヒーでも淹れようと一階に降りる。そのままコーヒーを淹れればいいが、トイレに行ったり、郵便を見たり、なにか少し他のことをすると最初の目的を忘れている。仕事机に戻って、コーヒーが無いのに気付く。これは老化というのだろうか。
何が言いたいのかと言うと、つまり、直前のことも忘れるのに、何故40年も50年も前の、昔の時間の底に残滓のようにこびり付いていた記憶を、時々鮮やかに思い出してしまうのか。これもやはり老化なのか。
仕様がない。そんな記憶は壺に入れて厳重に蓋をし、土に埋めて、踏み固め、重石を置いて二度と這い出てこないように隠しておこうか、でも、どうせそんなことをしても無駄な気もする。ならいっそのこと思いっきり思い出して、メモしておいて、週に一回教会で牧師さんの話を聴いているふりをしながら、というのは最近牧師さんの話が面白くないので、十字架に向かって罪の告白をしてこようか?
どんな記憶なのかって?そんなこと死んでも言わない。