行政書士・社会保険労務士 大原事務所

人生も多分半ばを過ぎて始めた士業。ボチボチ、そのくせドタバタ毎日が過ぎていく。

大腸ポリープ切除 ①

2015-07-28 14:46:57 | 日記・エッセイ・コラム

 過日、大腸ポリープ切除というのをやった。私の場合、心臓病の関係で血液を固まりにくくする作用のある薬を二種類も飲んでいる。そのせいで、入院期間が長くなって5泊。やれやれである。もっとも、稼ぎの悪い自営業者なので、保険に二つも入っていると、入院していた方が実入りが多いというのだから喜ぶべきか、悲しむべきか。

 さて、手術は痛くないという話だったが、痛かった。と言ってもポリープを切り取るのが痛いわけではない。腸の内側というのは痛覚がなく、痛みを感じないという。腸のなかに生理的食塩水(多分)だの空気だのをどんどん入れてふくらますので、丁度ガスがたまった時や下痢の時の様な差し込む痛みが徐々に強くなり、何とか耐えているという状態が手術の途中からずっと続いた。

 脂汗を流しながら唸っている私を見て、

 「我慢しないで、おならをしてくださいね」

 と言ってくれるのだが、そう言われて出るものなら出している。出そうとして出るものではない。そのくせ私の意思とは無関係に風船の口を開いたように時々勢いよく出る。その度に全部出てくれと思うが、全部は出ない。その上、ガスが出て少し楽になったような感じがすると、大腸はしぼんでしまって、追加でまた空気だの生理的食塩水だのを入れる。痛みは無くならない。

そんな中、私の大腸に内視鏡を入れてポリープを切り取る。前の日から食事を少なくして、今日は絶食。加えて大量の下剤を飲んで腸のなかには空っぽにしているのだから、ガスは臭くないのだろうが、医者と言うのも大変な商売だ。

 

 おならといえば、もう随分前だが、腹具合の悪い時があった。やたらにガスがたまる。ガスはたまるが、適当に出て行くので、べつに特に辛くはない。辛くはないが、いつもお腹が張っているようで不快だった。

 私も所構わずブーブーおならをするようなことはしない。人前では気を使う。特に当たり前だが電車の中ではしない。歯を食いしばってでも我慢する。

 会社の帰り、その頃住んでいた小田急線の玉川学園前まで新宿から電車に乗った。どうも腹が張る。でも何とか玉川学園前駅まで我慢した。降りてホームの端で電車の行き交う音にまぎらせて放屁。まだすっきりはしないがなんとか張りは取れた。

 ところが、駅を出て自宅のある横浜市緑区の方へ歩き始めた途端、不意に実に気持ち良くおならが出た。それが女子高校生4~5人の集団とすれ違ったと同時だった。一歩、一歩、歩くごとに区切りよくブッツ、ブッツ、ブッーツと三回。おまけに最後は長く伸びて綺麗にリズムを刻んだ。我慢しようがなかった。高校生だけでなく、周りを歩いている人にしっかり聞かれてしまった。しまったと思ったが、もう遅い。でも、久しぶりに腸の中がすっきりした感じ。フーッとため息をついた。すると突然後方でけたたましい笑い声が。振り返ると、さっきの女子高校生の集団が立ち止まったり、座り込んだりして大騒ぎで笑っている。私を指さすわけでなく、非難するわけでもないが、彼女たちの笑い声の原因は間違いなく私だろうと思った。

私は軽くなったお腹で、やや足早に角を曲がって自宅の方へ坂を上った。

ところで大腸ポリープ切除の話はまた次回。

 

 

 

 

 

 

 


海の日の海女祭り

2015-07-22 09:26:03 | 日記・エッセイ・コラム

 千葉の外房、白浜には女房の親の家がある。

 子供が幼い頃、夏は海水浴、それ以外の季節は釣りにと一年中よく出かけた。夏は特によく行った。もっとも白浜には良い海水浴場はない。名前と違う黒い砂の浜辺があるだけ。岩場が多く、砂浜は少ない。

 近くの町、館山、千倉、和田町などには比較的綺麗で、広い海水浴場があって、サーフィンが出来るところもある。息子が大きくなってブギーボードを始めてからは、そちらの浜に行くことが多かった。

 ここは、昔から海女さんの多い所である。海女さんの家に生まれた女性は子供の頃から素潜り漁を仕込まれる。嫁に来た女性は大変で、同じように仕込まれるのだが、成長してからではなかなかうまくいかなくて、水の事故で亡くなる人もいたと聞く。

 でも、鍛えられた海女さんは、稼ぎも大したもので、素潜り漁が解禁になる4箇月程の間に、アワビやサザエを採って平均的なサラリーマンの年収分ぐらい稼ぐ人もいたそうだ。

 その白浜町では毎年海の日に「海女祭り」がある

 海女さんのイメージはどういうものだろう。

 三島由紀夫の「潮騒」が映画になった時、主人公の海女さん役で記憶にあるのは吉永小百合と山口百恵。この二人のせいで海女さんは美人、可憐、細身というイメージが勝手に定着した。

 でも美人かどうかは別にして、実際は違う。海女さんは命がけで身一つで潜っていく。その身体で一家の生活をささえる。当然肩も腕も脚も筋肉で盛りあがっている。色も黒い。

 初めて海女祭りを見に行った7月20日の夜。8時頃だったか、真っ暗な野島崎灯台の近くの港に赤々と2列の松明がともる。その松明の中を海女さんが何十人もが2列になって海から上がってくる。がっしりした体つき、顔は日焼けして真っ黒だ。男勝りというより、男より勇ましい。一緒に見ていた3つの息子は、驚いたのか、私にしがみついてきた。

 女房の親戚の海女さんが見えた。

 「おばさんがいるよ。お手々ふってごらん」

 と言ったが、息子の体は硬いままだった。

 

 その次の夏だったと思う、伊勢志摩に旅行した。観光バスで連れて行かれて、海女さんのショーを見た。

 低い崖のような所に展望台があって、そこから近くの海面を見ろと言われる。するとその内海の海面に5人程の海女さんが桶を持って現れて、一斉に何回か潜って貝を採ってくる。というより取ってくる振りをしていたのかもしれない。海面に顔が上がってくると桶につかまりながら息を整えるためだという磯笛を吹く。

 女性はみんな細身の美人、男勝りの筋肉とは無縁。色白である。吉永小百合や山口百恵より細面。

 白浜の海女さんを知っている私は

 「ありえない」と呟いた。

 別にショーの海女さんに文句を言ったつもりはない。

 子供が大きくなって、最近は行っていない。久しぶりにネットで海女祭りのポスターをみた。ポスターの女性は、あの伊勢志摩のショーに出てくる海女さんと同じ。若く、色白で、筋肉質とは無縁のあり得ない海女さんたちだった。

 こちらの方にも別に文句をつけるつもりはない。

 尚、以前は曜日にかかわらず海女祭りは海の日だったが、今は違うようだ。今年は18日だった。海女祭りはメーンの催事が夜なので、翌日が休みの日が良いとずっと思っていた。地域の宿泊施設も潤うだろう。


なんという名前だったか、あの網の傘のようなもの

2015-07-20 11:44:31 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日書いた食べ物にかぶせる「なんという名前だったか、あの網の傘のようなもの」

 思い出せなくて、すっきりしないので、ネットで調べてみた。最近は本当に便利だ。たいていの疑問はネットで解決する。昔、中学や高校の時、家にPCがあったら勉強も進んだのにって、そんな訳ないか。ゲームとエッチサイトのサーフィンで勉強どころではなかったろう。

 そういえば、15年以上前、息子が小学校の頃から家にはパソコンがある。仕事で使っていたので、触るな、と言っておいたが、私のいないとき触っているのは知っていた。追認である。怒っても仕方ない。学校でもパソコンの授業はあった。お父さんのファイルは絶対に開くな、とだけ厳命した。

 息子はパソコンの検索の仕方は知っていても、長い間履歴の削除の仕方は知らなかったらしい。中学生になったころ、夜、パソコンを開いて、何となく検索履歴を見てみた。奴の好きな恐竜関係のワードやサイトに交じって、母親がみたら腰を抜かしそうな検索ワードと履歴が遠慮がちに出てきた。

 おっぱいだの、巨乳だのカワイイものだ。健全に育っているようで安心した。

 でも、「検索履歴は消しておけ、お父さんも消している」とは言わなかった。

 奴の検索履歴を見るのは私の密かな楽しみだったが、暫くして、履歴が残ることに気付いたらしく、消してしまうようになった。

 そのことに関して、私も奴もなにも言わない。

 高校生になって、アルバイトで自分のパソコンを買った。今はもう二十歳をとっくに過ぎて、自分のパソコンで何を見ようと勝手。たまに覗きたい衝動に駆られるがとっくの昔にパソコンのリテラシーは彼の方がはるかに上。ガードが固く、PCは勿論、奴が居間に置き忘れたスマホの中だって私には覗けない。

 ああ、話がとんでもない方に行ってしまった。

 あの「食べ物にかぶせる網の傘のような物」は「蠅帳(ハエチョウ)」というそうだ。百均でも売っているようなので、早速買って来ようと思う。昔はちゃぶ台の上にかぶせて食べ物に蠅がたからないようにした道具。今でも案外使えそうな気がするが、どうだろう。いちいちラップをするのは面倒だ。作ってから食べるまでの少しの間、蠅は滅多に見ないが、ほこりよけにもなるような気がするが。

ネットをみると商品名が「キッチンパラソル」になっているものが多い。なるほどね、とも思うが、和製英語だろう。なんか背中がムズムズする。「蠅帳」という名前がピンとこないのか?地域によっては「蠅入らず」ともいうようだ。私は「蠅入らず」と呼ぶことにした。

 


賞味期限

2015-07-18 12:01:17 | 日記・エッセイ・コラム

 昼すこし前の時間、自宅近くの小さなスーパーは前日の売れ残りのパンなどが30%引きで売られる。ひる飯を買いに来る客のためのサービスなのだろう、昼を過ぎると売れてしまって安くなっているものは殆ど無い。

 家で仕事をしている日は、いつも買いに行く。まだ賞味期限内、今日食べるには充分。好きなコロッケパンがあったりすると二つ買って来て賞味期限など無視して、翌日も食べたりする

 責任はもたないが、賞味期限など私は気にしない。口に入れて変な味がすれば食べられないのだ。吐き出せばいい。私が子供の頃はみんなそうだった。

 まだ冷蔵庫のなかった頃、あまった食べ物は家のなかの風通しのいい涼しい所になんという名前だったか、網の傘のようなものをかけて置いてあったりした。それは蒸かした芋だったり、トウモロコシだったり。

「母ちゃん!これ食べられるん?」と訊くと

 母はにおいをかいで、少し口の中に入れて

 「大丈夫じゃ、食べんかね」と言って私にくれた。

 もちろん、たまに食べられないと思う物もあったようで

 「こりゃいかん。暑なったら足がはやい」

 と言って、ゴミ箱ではなく裏の畑に捨てて土で覆った。

 前にも書いたかも知れないが、

*食べられるかどうかなど口にいれてみればわかる

*たいていの物は火を通せば大丈夫

この二つが、私の食にたいする主義である。

これは冷蔵庫が普及して、衛生観念が進み、食糧事情が格段に良くなった今も変わらない。

もっとも、この二つの主義をまねしてなにかあっても私は一切責任は持たない。株取引と同じ、どっかの政治家と同じですべて自己責任。

 尚、家人は絶対に私のマネはしない。

 曰く

 「馬鹿じゃないの!」

 「何時かそれで死ぬよ!」

 「野蛮人!」

 など、あらんかぎりの罵詈雑言で私を非難する。

「そうかい、そうかい、株主そうかい」とばかりにわたしはそんな非難を無視する。

第一、柿やいちじく、バナナだって少しわるくなって、傷む寸前が一番美味い。肉だってそうだ。それでも私は大人になって、お腹をこわしたことなど一度もない。

 


熱帯夜と腰痛と腹巻

2015-07-15 22:43:37 | 日記・エッセイ・コラム

 幼い頃、何故あんなにお腹を冷やしたのか?たびたびお腹が痛いといって母をこまらせた。

 そこで、腹巻をさせられた。夏も冬も寝る時は何時も。腹巻が腹痛予防、治療は浣腸だった。

 「子供の病気で医者へ行くのは一回浣腸して様子を見てからでええ」

 乱暴な話だが、母は、大事(おおごと)になったらどうするんじゃ、と心配する父に苦笑しながら、何時もそう言っていた。准看護婦とかで近くの病院で少し働いていたことがあって、ある程度医学の知識もあったようだ。

 腹巻は小学校へあがるころはもうしていなかったと思う。その後30歳を過ぎるまで縁がなかった。ところが30歳を過ぎた頃、仕事で腰を痛めた。出版社に勤めていたが、本を扱う仕事の職業病のようなものだ。それから長く腰痛とつきあうことになった。なかなか治らない。少し良くなるとまた痛くなる。

或るとき、公園の芝生に30分程座っただけで、翌日朝起き上がれない位痛みが出た。

 「駄目ですよ!芝生の上に直に座るなんて、芝生でもすぐ下が土だから冷えるんです。腰痛は冷やしたら駄目。そうだ、腹巻をしてください。痛い所が隠れるようにして」

 冷やしたら駄目なんて聞いてなかったぞ!と思いながら、腹巻はすぐに買って、早速その日から使った。腰の調子はびっくりするほどよくなった。

 それ以来去年の夏まで腹巻は欠かせなかった。どんな暑い夏でも外さないで過ごした。暑いと思ってとってしまうと何となくひんやりして不快だった。ところが、去年の夏、熱帯夜の夜、急に、腹巻が暑くてたまらなくなった。それまでもそういうことは何度かあったが、どんなに暑い日でも、腹巻をとると、今度は腰のあたりが寒くて眠れなくなるので、仕方なくしたままでいた。でも去年の7月の熱帯夜は違った。たまらなくなって腹巻を外したら、涼しくてよく眠れた。どうせまた腰が冷たくなってすぐすることになるだろうと思いながら、そのままひと夏を過ごした。

 去年のそんなことなど忘れていた昨夜、暑くて暑くて、特にお腹のあたりが熱を持ったように暑くなって、去年腹巻を外したのを思い出した。さっそくとってみた。気持ちいい。

 何故去年から腹巻をしないで夏が過ごせるようになったか、原因は分からない。毎日の腰痛体操と、ストレッチの御蔭もあって、ここ10年近く酷い腰痛はない。そのせいなのか?この年になって、腰痛が全快するわけもないと思うのだが。