友人が突然いなくなった
もう10年近く前の話になる。友人、といっても業界の先輩で10歳以上年上の人だった。脳梗塞で倒れて、右腕と右脚に後遺症が残った。歩くことはできるが、右脚を少し引きずる。右腕は肩までは動いたが、肘から先は力が入らない。不自由ながら1人暮らしはできた。でも、脳梗塞は再発がある。その不安はあった。
病気のせいで、会社も定年まで勤めてはいたが、雇用延長は断って、年金暮らしだった。唯一の親族の息子さんは、少し離れたところに住んでいて、連絡を取るのも二、三か月
に一度というところ。そこで、親しい私が週に一度土曜日の朝、駅前の喫茶店で会っていた。
別にわざわざというわけではない。当時私は毎土曜日に午前中トレーニングジムに通っていて、ついでに朝食をかねてモーニングを食べに行っていただけだ。知人も朝食を作るのは面倒だというので、喫茶店に来ていた。それがいつの間にか約束した訳でもないのだが、それが安否確認になっていたわけだ。
ところが、ある土曜日、知人は喫茶店に居なかった。まあ、別に必ず来ると約束しているわけでもなかったし、来ないことを私に連絡する義務もないわけだから、私は気にも留めなかった。
ところが、翌週も来なかった。少しおせっかいかなとも思ったが、携帯に電話を入れてみた。
「電源がきれているか、電話のつながらないところにいます」
と音声が流れて繋がらない。
知人のアパートは駅の近くだったので行ってみた。居ない。ちいさなアパートの一階なので、裏窓の方にまわってみた。カーテンで部屋の中は見えないが、人気はないような気もする。
もう少し様子を見てみるか?それとも大家さんに事情を話して部屋の中を見てみるか?少し迷って共通の友人に電話をしてみた。
「もしかして、脳梗塞が再発して部屋の中で倒れてたりしてたらやばいから、見てみるかな?」
「そうだな。その方がいいかもしれない」
「お前、息子さんの電話番号知らないよな?」
「知らないけど、それも大家か不動産屋でわかるんじゃないの?アパート借りるときの保証人になってるだろう、多分」
「そうだな」
アパートの一階が不動産屋で、その不動産屋が大家さんだった。
「そういえば、このところ見てないよね。あの人外食だから、朝と夕方店の前を通って食事に行く時、見かけるんだけどね」
でも、勝手に部屋の中を見るわけにもいかないから、警察に立ち会ってもらおうということになって、近くの交番からおまわりさんに来てもらった。
立会いのもと、大家さんに鍵を開けてもらった。
おまわりさんは部屋に入らないで入口から覗いて、
「いないようですねえ。中入って確認してください」
と私にいった。
なんで私なんだ、入るのはあんただろう。死体があったらどうするんだい、と思って、でも下手に出て
「私が入っていいんですか?」
と訊いてみた。
「だって、私も令状があるわけではないから、入る権利はないんですよ。とりあえず立ち会ってるだけですから。そこのバスルームと、部屋の奥も確認してください」
そういわれると、そうかもしれないと思って、私が部屋の中に入った。
バスルームを開ける。少しドキドキする。バスタブの蓋は閉じてあった。
「一応開けて確認してください」
立ち会ってるだけという割には、指示が多い。
バスタブの中にもいなかった。不意に倒れてわざわざ丁寧にふたを閉める奴もいないから、当たり前と言えば当たり前だ。
次に部屋の奥に入って、と言っても6畳一間。顔を突っ込んだだけで、部屋中見渡せる。やはり誰もいない。散らかってもいないが、綺麗に片付いてもいない。ズボンが脱ぎ捨ててある。着替えてそのまま出たという感じ。
「何も事件性は無いようだねえ」
とおまわりさん。
別にどこにも変な様子はない。おまわりさんはもちろん、大家さんも、私もこれ以上部屋を調べる権利はない。
「息子さんの電話番号ってわかりますか?」
大家さんに訊いてみた。
「そうですね。事務所にあったと思います。連絡してみますよ」
あとは大家さんと、その息子さんに任せるとして、私は名刺を渡して帰った。
日曜日の夕方携帯が鳴った。
「私、Aの息子ですけど、貴方父とどういう関係なんですか」
知人の息子さんだった。何か誤解しているのか、いきなり電話してきておいて、いささか失礼な物言いだと思った。
少しムッとしたので、肉体関係はないよ、かなんか言ってやろうかとも思ったが、冗談を言ってる場合ではないので、出版社にいた時の友人だということ、一週間以上顔を見ていないこと、どこにいるかわからないこと、心配で大家さんに言ってあなたに連絡を取ってもらったこと等を話した。
息子さんも何もわからず、どうしようもなく、警察にきいても、特に情報はない、ご希望なら捜索願を出してくださいと言われたが、どうしようか悩んでいる、と言った。
私は、念の為に捜索願だけは出しておけばいいのではないかということと、共通の友人もいるので、何か手伝えることがあったら言ってくれと伝えて、電話を切った。
それから一週間。当の本人から電話かあった。
「いやあ、ご免、ご免、迷惑かけちゃったね。元気だよ」
あっけらかんとしている。
とりあえず、今度会った時に事情をきくということにした。
その事情というのは、外出した帰りの夕方、都内の盛り場を歩いていた。その道は風俗営業の店が多く、呼び込みが多いのはわかっていたが、駅まで近道なので通った。その時しつこい呼び込みが、不自由な右腕をつかんだそうだ。肩を回して振り払ったら、その女は尻餅をついたという。店の中から男が出できて騒ぎになって、警察がきた。女が、どうしても訴えるというので、その場で逮捕されたそうだ。
「あんたが悪くないのはわかってるんだけどねえ、訴えると言われれば、逮捕しないわけにもいかないんだよ。病院で診断書も取ってくるって言ってるしねえ」
といわれて、留置場に入っていたという。
兎に角、検事も忙しく、取り調べまでしっかり20日あまり警察に泊まった。検事の取り調べのあとは、あっさり不起訴ということで終わった。
まあ、本人から聞いた話だから、どこまで正確かは疑問はあるが(自分のことはどうしても少し飾って話すだろうから)、そんなに嘘はないだろう。でも、携帯を持ってるんだから、息子さんに位電話しとけばいいのに、というと、
「いきなり、息子に電話して、きかれてもいないのに、わざわざお父さん今留置場にいるって言うの?・・・言わないと思うよ」
加えて
「タバコは一日二本しか吸えないし、三食規則正しく出てくるし、甘いものは食べない。アルコールは禁止だもの、身体の調子が良くなった。これで脳梗塞の再発も無いかもしれないねえ。右腕も少し力がはいるようになった気がするもの」
本当に健康そうな笑顔で、タバコに火をつけた。