つづき
新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて
『「夜が明けるころ」は、原文は「第四夜警時頃」、つまりローマ軍の夜警時間の四番目、午前三時から六時である。
イエスは予め、弟子たちが逆風で「漕ぎ悩む」のを見る。
悩むは元来「試金石で擦る」を意味し、拷問をも表す。
夜が白みかける頃、イエスは湖の上を歩きながら彼らの方に来るが、イエスは彼ら(の側)を通り過ぎようとした。
「歩く」は「行ったり来たりする、歩き回る」で、七十人訳ヨブ9.8で「天を張り、・・・海の上を陸の上のように歩く」方としての神描写の中にも出る。
イエスの姿も神としての顕現である。
弟子たちの恐怖と驚きが二重に強調される。
まず、「弟子たち」、実際は「彼を見た者たち」は、「幽霊だと思い、大声で叫んだ。・・・」
イエスと分かり、風が止んだ後も彼らは驚愕していた。今度はイエスに対する桁外れな驚きである。
ここにマルコは自らの手で、直訳では、「(彼らは)パン(のこと)に基づいて理解しなかった、(しかし)彼らの心は固くされていたからである」と記す。
彼らがパンの奇跡を理解していれば、また心が硬化されていなければ、水上を歩くイエスを見ても、驚かなかった。
つまり、パンの奇跡がイエスを理解する鍵として理解されている。』
新共同訳 新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『イエスの湖上歩行はヨハネ福音書においても五千人の給食の直後に置かれている。
したがってこの二つの物語はすでにマルコ以前から一緒に伝えられ、マルコの記事もヨハネのそれもその共通の伝承に由来するものと思われる。
しかし、二つの物語は最初は別々に伝えられていたようである。
この物語では湖上を歩くというモティーフと逆風から弟子たちを救出するというモティーフが結合している。
「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいる」のを見て助けに来たイエスが彼らの「そばを通り過ぎようとされた」のはやや不自然であるように思われる。
マタイはこの句を取り除いている。
「風は静まった」という51節の短い言葉を除くと、この物語は湖上歩行だけの物語になる。
逆風のモティーフはマルコ以前の段階で付加されたのではなかろうか。
イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」という句は本来の湖上歩行の物語に属し、そこでは旧約聖書の神顕現になぞらえて、イエスを神的存在として示す役割を果たしていたと考えられる。
旧約聖書でヤハウェは嵐や海の支配者として描かれている。神的な力を持つ人間が水上を歩くというモティーフはヘレニズム世界にもあるが、旧約聖書ではヤハウェ自身について「海の高波を踏み砕かれる」といわれている。
「わたしだ」(エゴー・エイミ)も旧約聖書以来、新約聖書時代のユダヤ教において、神顕現の定式的言辞となっていた。
こうしてこの物語はイエスが神的・超自然的存在であることを証言する。』
新聖書講解シリーズ マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『マルコはここでも、弟子たちの訓練を扱っている。
群集を解散させると、イエスは祈るために山のほうへ向かわれた。祈りは神との交わり、神のみこころを知り、神の力を体得するひとときである。
イエスは、夜どんなに遅くても、朝どんなに早くても、またどんなに疲れていても、まず祈られた。
私たちも毎日の生活の中でまず祈りの時を持ち、神との交わりの時を過ごそう。
祈りによって、神のみこころを正しく知り、神の力によってすべての問題に対処することができるためである。
次に、弟子たちの苦しんでいる姿に注目してみよう。
弟子たちはイエスが湖の上を歩いて来られるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
自分の経験以上の出来事に遭遇するとおびえてしまい、疲れていると自分を見失い、不安な目にあうとあわてふためくのである。
人間とはいかに弱く、現実に対処できない存在であろうか。
弟子たちはイエスの存在と力に対して、不信仰で鈍感であったと記している。イエスを正しく理解し、常に信頼していることができなかったのだ。
私たちも、聖書を読み、キリストを信じていると告白していながら、困難にあうとすぐあわてふためいてしまう。
いざというとき、不信仰になってイエスを悲しませることのないように自らを引き締めていきたいものである。』
お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神であるイエスさまに信頼できますように。
どんな状況のときでも、祈りにおいて神さまと交わり、信じつづけることができますように。
お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン
新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて
『「夜が明けるころ」は、原文は「第四夜警時頃」、つまりローマ軍の夜警時間の四番目、午前三時から六時である。
イエスは予め、弟子たちが逆風で「漕ぎ悩む」のを見る。
悩むは元来「試金石で擦る」を意味し、拷問をも表す。
夜が白みかける頃、イエスは湖の上を歩きながら彼らの方に来るが、イエスは彼ら(の側)を通り過ぎようとした。
「歩く」は「行ったり来たりする、歩き回る」で、七十人訳ヨブ9.8で「天を張り、・・・海の上を陸の上のように歩く」方としての神描写の中にも出る。
イエスの姿も神としての顕現である。
弟子たちの恐怖と驚きが二重に強調される。
まず、「弟子たち」、実際は「彼を見た者たち」は、「幽霊だと思い、大声で叫んだ。・・・」
イエスと分かり、風が止んだ後も彼らは驚愕していた。今度はイエスに対する桁外れな驚きである。
ここにマルコは自らの手で、直訳では、「(彼らは)パン(のこと)に基づいて理解しなかった、(しかし)彼らの心は固くされていたからである」と記す。
彼らがパンの奇跡を理解していれば、また心が硬化されていなければ、水上を歩くイエスを見ても、驚かなかった。
つまり、パンの奇跡がイエスを理解する鍵として理解されている。』
新共同訳 新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『イエスの湖上歩行はヨハネ福音書においても五千人の給食の直後に置かれている。
したがってこの二つの物語はすでにマルコ以前から一緒に伝えられ、マルコの記事もヨハネのそれもその共通の伝承に由来するものと思われる。
しかし、二つの物語は最初は別々に伝えられていたようである。
この物語では湖上を歩くというモティーフと逆風から弟子たちを救出するというモティーフが結合している。
「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいる」のを見て助けに来たイエスが彼らの「そばを通り過ぎようとされた」のはやや不自然であるように思われる。
マタイはこの句を取り除いている。
「風は静まった」という51節の短い言葉を除くと、この物語は湖上歩行だけの物語になる。
逆風のモティーフはマルコ以前の段階で付加されたのではなかろうか。
イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」という句は本来の湖上歩行の物語に属し、そこでは旧約聖書の神顕現になぞらえて、イエスを神的存在として示す役割を果たしていたと考えられる。
旧約聖書でヤハウェは嵐や海の支配者として描かれている。神的な力を持つ人間が水上を歩くというモティーフはヘレニズム世界にもあるが、旧約聖書ではヤハウェ自身について「海の高波を踏み砕かれる」といわれている。
「わたしだ」(エゴー・エイミ)も旧約聖書以来、新約聖書時代のユダヤ教において、神顕現の定式的言辞となっていた。
こうしてこの物語はイエスが神的・超自然的存在であることを証言する。』
新聖書講解シリーズ マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『マルコはここでも、弟子たちの訓練を扱っている。
群集を解散させると、イエスは祈るために山のほうへ向かわれた。祈りは神との交わり、神のみこころを知り、神の力を体得するひとときである。
イエスは、夜どんなに遅くても、朝どんなに早くても、またどんなに疲れていても、まず祈られた。
私たちも毎日の生活の中でまず祈りの時を持ち、神との交わりの時を過ごそう。
祈りによって、神のみこころを正しく知り、神の力によってすべての問題に対処することができるためである。
次に、弟子たちの苦しんでいる姿に注目してみよう。
弟子たちはイエスが湖の上を歩いて来られるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
自分の経験以上の出来事に遭遇するとおびえてしまい、疲れていると自分を見失い、不安な目にあうとあわてふためくのである。
人間とはいかに弱く、現実に対処できない存在であろうか。
弟子たちはイエスの存在と力に対して、不信仰で鈍感であったと記している。イエスを正しく理解し、常に信頼していることができなかったのだ。
私たちも、聖書を読み、キリストを信じていると告白していながら、困難にあうとすぐあわてふためいてしまう。
いざというとき、不信仰になってイエスを悲しませることのないように自らを引き締めていきたいものである。』
お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神であるイエスさまに信頼できますように。
どんな状況のときでも、祈りにおいて神さまと交わり、信じつづけることができますように。
お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン