聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エレミヤ書3章 悔い改めの呼びかけ・シオンへの帰還・悔い改めへの招き その4

2010年02月13日 | 旧約聖書日記
つづき


『3・14~18 シオンへの帰還
この単元は、バビロン捕囚期の後半以後に書かれたものであろう。
3・6~11と、3・12~13と、この単元を結んでいるのは、「背信の」という鍵語である。
ここでも「背信の子らよ、立ち帰れ」と悔い改めの呼びかけがなされているが、これは、捕囚に連れて行かれた、北の国からの帰還の呼びかけである。
ここで約束されていることは2つ。
一つは、主の心にかなう牧者であり、もう一つは、主の王座としてのエルサレムである。
主の心にかなう牧者の預言は、エゼキエル書の34章に詳しく展開されている。
諸国民が巡礼する聖所エルサレムの像はイザヤ2・2~5に見られる。
これらの諸国の民も、主の御名の下にエルサレムに集まり、再びかたくなで悪い心に従って歩むことをしないと言われる。
ユダの家とイスラエルの家は合流して、ダビデの時代のように一つの家となると言われる。
「家」は、「王朝」を指す。
捕囚前にエルサレムに置かれていた「主の契約の箱」は、恐らく、神殿を焼かれたときに失われてしまった。
これを造り直すという考えは否定されている。
バビロン捕囚の帰還の前後に語られた預言であるが、「背信の子」への悔い改めの言葉として、ここに置かれたのである。

3・19~25 悔い改めへの招き
この箇所は、2・1から始まった長い、イスラエルに対する悔い改めの呼びかけの結びである。
第一の単元3・19~22aは、神のイスラエルに対する特別の愛を述べるとともに、悔い改めをうながし、背きの罪の赦しを約束している。
第二の単元3・22b~25は、神の呼びかけに対するイスラエルの応答である。
「我々はあなたのもとに参ります」という言葉に始まるように、この単元の主語は一貫して「我々」である。
エレミヤは、孤独の預言者といわれるし、その理由も十分にあるが、好んで孤独となった人ではない。
むしろ、北イスラエルの人々に呼びかけ、ヨシヤ王の宗教改革に参加し、民のために何度も執り成しをした預言者である。
人々と共に、神に立ち帰る告白をするのにも、決してやぶさかな人ではなかった。
ただ、共同の信仰を告白したときに、その告白をどこまでも誠実に生き抜こうとすることによって、エレミヤは孤独にならざるをえなかったし、
彼が共に生きていた共同体を超えて、新しい共同体の生まれる時代を預言するに至ったのである。

第一の単元は、初めの神の愛と慈しみについて歌っている。
神はイスラエルに、あらゆる国の中で最も麗しい地を継がせようとした。
また、イスラエルは、神を「父」と呼んでいた。
にもかかわらず、神ではないものを「父」「母」と呼ぶようになった。
イスラエルの罪は、妻が夫を欺くような仕方でなされた。
このテーマも全体を通して反復されている。
かつて、彼らが淫行を行った「裸の山々」で、今彼らは、神に向かって、嘆き訴える声を上げている。
その現実を見て、神は、「背いたお前たちをいやす」と約束する。

22bからは、共同体による罪の懺悔と信仰の告白である。
かつて淫行を行った「山々での騒ぎ」、バアル宗教の影響を受けた祭りは偽りであり、この空しい偽りのゆえに、イスラエルは苦境に陥ったのである。
バアルは、「助けにならぬもの」であった。
主なる神にこそイスラエルの救いがあると彼らは今、告白する。
イスラエルがすべてのものを失ったのは、彼らがバアルに従ったからである。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
主である神に背き、
神でないものを神であると頼りにしてしまう、わたしたちの罪。
そうした罪をも、悔い改めて、何度も何度も「立ち帰れ」と繰り返し、呼び求めてくださる。
罪深いわたしたちを赦したまえ。
神おひとりを神と、主であると、信じさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン



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