聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

「聖書の読み方」加藤常昭 日本キリスト教団出版局

2006年11月01日 | 本の感想
なかなか本が読めない、活字嫌いなわたしですが、
どうしても自分の中で、聖書を読んでいっているけども、
これでいいのか?こういう読み方をしてていいのかが、はっきりしなくなってきたので、
昔々に読みかけて置いておいたこの本をひっぱり出してきて、読んだところです。

「聖書の読み方」加藤常昭 日本キリスト教団出版局
加藤常昭先生の本は、わりと持っているんですが、
そのどの本を読んでも、ず~っとこの先生の言っていることがよく分からない、
この先生の書いた本ははっきりしたことを言ってない、まわりくどい上に自分が分かるように答えが書かれてないって思っていました。
ので、勧められても、どうも好きになれないなあ。。。と思ってました。
が、ここ1年くらいでしょうか、わたしは洗礼を受けて今年で5年目になるんですが、
今頃、やっと先生の言われることが、分かってきました。
本を読んで、「そうや、そうなんや!」っていう風に心にすっと入って、答えが書かれていることが理解できるようになってきました。

で、この聖書の読み方も、今回また読んでみて、ほんとによかったです。
聖書を読む上で、どういう読み方をしていったらいいのか、答えが理解できました。
でも、自分なりに理解できても、まだ自分ではまだそこまでできてないっていう感じもしました。

少々、あちこちを抜粋させていただきますm(_ _)m
『信仰とは、自分をほんとうにたいせつにする心です。自分を生かす心です。
自分を押し殺そうとするような心ではないのです。
信じなかった時には思ってもみなかったように、自分がたいせつにされていること、自分の生命の重さをずしりと感じて生きていくこと、それが信仰です。
・・・・・
われわれは自分のいのちの尊さを見失っているのかもしれません。それだから自分を生かしきることができないのです。
・・・・・
キリストは十字架の道をみつめておられます。すでにその道を歩いておられるのです。
なんのためでしょうか。
われわれも同じように死ななければならないという模範を示すためなのでしょうか。
わたくしは思います。
それはわれわれの命を買いもどすためだったと言ってはいけないでしょうか。
・・・・・
われわれのいのちの値うちをもういちど正しくはかり直すためにキリストが死んでくださったと言えないでしょうか。
われわれの失われたいのちの価を知るためには、キリストの死の価の高さを知ればよいのです。
自分自身のいのちの重さはキリストの十字架の持つずしりとした重みによってのみはかりうるのです。
・・・・・
われわれが知るのは、自分自身が求めている自分のいのちが、すでにキリストによってはかられているということです。
自分が生きていく道が、というより、自分が生かされる道が、ひらかれていることを知るのです。
このようにキリストの中に自己を発見すること、ここにわれわれが聖書を読む目標があると言えるのではないでしょうか。
・・・・・
キリストによって自分が生かされる、自分のようなものでも生きる道がここにそなえられている。
それがキリストの恵みです。
先に、聖書の中に読みぬくべきものとして示されたキリストの恵みなのです。』


なによりもまず、積ん読ではなく、毎日聖書を読んでいくことが大切ですね(o^^o)
それから、教会の礼拝に行って、御言葉の語られている正しい理解を得ることが大切ですね。
ぼちぼちと進んでいきたいと思いますm(_ _)m


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