聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エレミヤ書2章 イスラエルの罪 その3

2009年10月11日 | 旧約聖書日記
つづき

旧約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 をまとめて。
『2・1~4・4までは、基本的に、長い北イスラエルに対する悔い改めの呼びかけである。

2章は、9単元に分けるのが適切であろう。
(1)4~8節(2)9~13節(3)14~16節(4)17~19節
(5)21~22節(6)23~25節(7)26~28節(8)29~32節(9)33~37節
さらに、4・4までを一連の預言と見るならば、以下の6単元を加える。
(10)3・1~5節(11)3・6~11節(12)3・12~13節
(13)3・19~22a節(14)3・22b~25節(15)4・1~2節(16)4・3~4節
以上が小見出し4つを含む、韻文の預言、「イスラエルへの呼びかけ」、全体の構造である。

 1~3節は、2・4~4・2に及ぶ長い、北イスラエルに呼びかける預言に、4・3~4と共に、二次的な導入と結びとして加筆されたものである。
エルサレムの人々に語りかける形をとっているが、内容的には、預言の主要部の導入にふさわしいものになっている。
1節は召命の記事に三度使われている「主の言葉がわたしに臨んだ」という言葉で、一章とのつながりを密接にしている。

内容は、夫としての神と、花嫁としてのイスラエルの蜜月のときの想起に主眼がある。
イスラエルの理想のときは、カナンに入る前の荒れ野の時代であった。
沃地に入ると、イスラエルはバアルに誘惑され、バアルと姦淫した。
それが、イスラエルの滅んだ理由である。
4節以下の預言の内容も、このテーマで貫かれている。
荒れ野は、蜜月の時代であり、植物にたとえれば、イスラエルは神が蒔いた収穫の初穂だったのであり、主なる神以外の何者もこれに手を触れることは許されなかった。

 4~8節は、本来の預言の一単元である。
預言は、ヤコブとイスラエルに語りかける形をとっている。
神がイスラエルを非難し訴えるのは、主を捨ててバアルに従ったということである。
バアルの名も何度か使われているが、むしろ「空しいもの」「助けにならぬもの」「神でないもの」などと呼ばれている。
4~8節は、イスラエルの背信の歴史と実態を振り返り、なぜそのようなことが起こりえたのかと神が問いかける形をとっている。
彼らは出エジプトの神のいますところが、どこであるか尋ねようともせず、
むしろ、神が与えられた豊かな地を汚し、忌まわしいものにしてしまった。
イスラエルの一般の人々と同様「律法を教える人たち」「指導者たち」「預言者たち」もバアルに従ったという。

 次の単元9~13節は、以上の罪状について、神がそれを公に告発し、当事者とその子孫に論争を挑む形をとっている。
10節は、罪状の重さを確かめるために、他の地域における類似の問題を調査させよという要求である。
キティムは、キプロス島をはじめ、東地中海の島々を指す。ケダルは、アラビアの部族の名である。
地中海の島々に渡っても、アラビア砂漠の部族を訪ねても、自分の神を取り替えたものはない。
しかも「神でないもの」と取り替えたと言うのである。
「神でないもの」とは、「助けにならぬもの」である。
真の神と、「神でないもの」とは、「生ける水の源」と「水をためることのできない、こわれた水溜め」との相違である。
イスラエルはなにゆえ、無用の業をするのか。
これこそ、自らの上に災いを招く行為ではないか。』


つづく



最新の画像もっと見る