聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記7章 ハマン、失脚する その3

2008年10月10日 | 旧約聖書日記
「新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社、
つづき

『本章における第三の教訓は、この世における神の民の存在の価値についてである。
実は「事実、その迫害者は王の損失を償うことができないのです」と訳されている本章4節の後半は、難解な文章で、テキストに破損があると考える者も多い。
事実、新共同訳聖書ではこの部分は訳されていない。
口語訳聖書は「わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」と訳している。
この訳に従えば、ユダヤ人が救われるなら、王が受け取れるはずの銀一万タラントは損失となるであろうが、そんな損失とユダヤ人の難儀は比較にならない、と解釈できる。
新改訳聖書に従えば、ユダヤ人が虐殺されることによって受ける王の損失は計り知れないものがあると解釈できる。ここは新改訳聖書に従って解釈するのが妥当であると思われるので、その線に従って考えてみたい。
実はペルシャ帝国内においてユダヤ人達は、市民としてまた役人として、相当の貢献を国家にもたらしていたと思われる。
そのユダヤ人を絶滅させてしまうことは、ペルシャ帝国にとっては計り知れない損失で、銀一万タラントをもってしてもとても埋め合わせできるものではないというのである。

一国における神の民の存在の価値は大きい。それは祈りと信仰という見えざる世界における国家への貢献ばかりでなく、一市民として目に見える社会における貢献においても、神の民の存在の価値は大きくなければならない。
キリスト者は、神の国とカイザルの国の両方に属している。
そしてその両方の国において責任を問われている。
神の国にとってなくてはならない人物は、カイザルの国においても同様である。
「その迫害者は、王の損失を償うことができないのです」
国家・社会・職場において、いかなる代価を支払っても決してその損失を補うことができないほどのキリスト者の存在でありたい。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
エステルのように神に信頼することができますように。
ハマンのような自分の内なる罪を、十字架につけることができますように。
信じ、祈り求め、この世において行動ができる者になれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン




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