聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記7章 ハマン、失脚する その2

2008年10月09日 | 旧約聖書日記
つづき

今回の聖書箇所での、旧約聖書略解と旧約聖書注解Ⅰの説明は、あらすじを書いただけのようで、あまり良くなかったので、
「新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社 だけを使用してみます。

「新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社 を、まとめて。
『本章を通して教えられる第一のことは、祈る者の条件についてである。
 祈る者の条件の第一は、神のみこころの成就を第一に求めることである。
エステルは神の御旨の働くことを信じている。
 祈る者の条件の第二は、大胆さと確信をもって神に近づくことである。
エステルは神が必ず聞いてくださるという確信がある。
 祈る者の条件の第三は、滅び行く同胞の救い無き状態を神に告げ、自分もその民と等しい立場に立つことである。
聖書における祈る聖徒たちは、モーセにしても、ダニエルにしても、パウロにしてもみなそうであった。
滅び行く同胞が救われるためには、いのちの書から名前が消されようとも、この身がのろわれようとも、と祈るのであった。
 最後に祈る者の第四の条件は、サタンに立ち向かうことである。
エステルはハマンと正面から対決して、その一撃をもってハマンの息の根を止めた。

本章における学びの第二の点は、古き人を十字架につけることである。
ハマンはサタンの型そのものであり、またサタンの支配下にある者である。
しかしハマンに見る自己顕示性や自己中心性はキリスト者の内心にもひそかに巣くっていないだろうか。
聖書はこのハマン的精神を「古き人」あるいは「肉」、人間の「うちに住みついている罪」などと呼んでいる。
犯した行為の罪、すなわち犯罪に対するところの性質の罪、すなわち原罪とも生得罪とも呼ばれるしろものである。
だから聖書において罪が解決され、罪から救われるという時に、むろんこの罪の解決とこの罪からの救いがうたわれていることは否定できない。

ここでハマンは木にかけられた。七十人訳では「彼を十字架につけよ」となっているが、エステル記の特徴のひとつは、このハマン、すなわち「古き人」が十字架につけられることである。
これは霊的解釈であり、ハマンはわれたの内にある古い人の型としても見ることができる。
聖書の真理とわれらの現実にずれは無いだろうか。このキリストの事実に信仰によって結び合わされ、「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とはっきりとあかしできるであろうか。
「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨て」と命じられているが、脱ぎ捨てる場所はただひとつ「十字架」である。
聖書はわれらの心に働きかけ、われらの内にある古き人の正体を暴露されるであろう。
しかしそれと共に聖霊はわれらの内に働きかけて十字架を仰がせ、かしこにその古き人がキリストと共に十字架につけられていることを信じさせて下さるであろう。
かくしてキリストがわれらの内に住み、生き、働き、キリストの御姿を形造ってくださるのである。

十字架は救いの終焉であるかに見えたが、実はサタンの終焉であった。
サタンがわれらに敵して計画したすべての悪しきわざの終焉であった。
結局、木にかけられて死んだのはモルデカイではなく、ハマンであった。
神はこうして十字架においてサタンに対し、罪に対して、完全にして永遠の勝利を取られたのである。』


本章における第三の教訓へ、つづく


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