聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書6章 ゲネサレトで病人をいやす その2

2008年06月04日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『この部分は用語や内容から見て、全体としてマルコの筆によるまとめの文と考えられる。
ゲネサレト地方でのイエスの活動が要約されている。
イエスはこの地方で律法学者やファリサイ派の人々と論争し、弟子たちを教えるが、それだけではなく、多くの病人をいやしたのだと福音書著者は言いたいのであろう。
ここでは悪霊追放は全く言及されていない。群集のあいだでのイエスの人気がまたも強調される。

イエスと弟子たちの舟は最初の目的地ベトサイダではなくゲネサレトに着く。
ゲネサレトはガリラヤ湖北西岸にひろがる肥沃な平原。そこにはイエスが宣教を開始したカファルナウムがある。
「渡る」「舟」「・・・し始めた」「病人」はマルコが好んで用いる言葉。
多くの人々がイエスの居場所を知って集まる、彼のもとに病人を連れてくる、病人がイエスの服にさわっていやされるという記述もこの福音書における他の編集句にも見出される。
治癒奇跡を求めてイエスのもとに殺到する群衆をマルコは批判しない。
批判の対象は―次に述べられるように―律法学者やファリサイ派の人々の敬虔である。』

新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『ゲネサレは、ガリラヤ湖の北西岸にある平原地帯である。
ゲネサレの人々は、イエスが来られたことを知ると、病人を担架に乗せて運んできた。
しかしこのゲネサレの人々も、イエスを悪霊を追い出し病気を治してくださる方としか考えていなかったようである。
彼らは、イエスの説く神の国の福音には関心がなく、病気の治癒にだけ異常な期待を持っていた。
そこに民衆の正直な、しかし醜い利己的な姿がある。
もっともこれはゲネサレの民衆だけの問題ではなく、いつの時代、どの民衆にも当てはまることである。
民衆が期待しているものと、イエスが民衆に与えようとしておられるものとの間には、本質的で決定的な違いが存在していた。

しかしそのような食い違いにもかかわらず、イエスは民衆の要望にこたえて、多くの病人をいやされた。
イエスは民衆の苦しみをそこまで知っておられたのであった。
真実の宗教は、人々を霊的真理に導くものであり、また民衆の必要にこたえるものでなければならないということを、このイエスの姿から教えられる。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまの深い憐れみに、感謝します。
弱く醜いわたしですが、深く憐れんでくださり、いつも守り、癒し、導いてくださることに、感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


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