聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 レビを弟子にする

2006年05月09日 | 新約聖書日記
◆レビを弟子にする
『 2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。
多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」』
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書より)

新約聖書略解をまとめて
『ここで徴税人レビが招かれる。
律法に即した「正しい」生き方をする義人と対比された罪人がいる。
徴税人も「異邦人」との接触の多さなどから罪人に数えられる。
イエスが「食事の席に・・・」は、食事のために「横たわる」ことで、
多くの徴税人・罪人も彼と弟子たちと「一緒に横たわっていた」。
「実に大勢の人が・・・」は、徴税人・罪人にかけることができる。レビの追随は、その模範例である。
そこに律法に従って生活しない罪人から自らを分離したファリサイ派律法学者が登場して「どうして・・・」と問う。
律法に従い、義人として生きる自負から発せられた問いである。
それに答えるイエスの言葉の前半は、癒しを求めて殺到した人々を想起させる。
罪人として排除された人々には、それ以上の切望があろう。
後半は、義人であるために、罪人を作る人たちに向けて、
そのような差別が作られるところで、イエスとイエスを派遣した方(神)はどちらの側に立つかを明らかにする。
ここで再びレビの招きが模範的実例となる。
そこにも神の支配の特色が見える。』

昨日の投稿でわからなかったことが、やっと分かってきました。
昨日の箇所から、神の支配の特色をひとつづつ表していかれているのだと分かりました。
昨日の聖書の箇所では、
病気と罪との連関から解放される神の支配の特色を表されて、
今日の聖書の箇所では、
イエスさまと神さまは、罪人の側に立たれることを表されています。
お祈りします。
天の父なる神様
神の愛を知らせてくださって、感謝です。
律法を守る正しさを求めて、律法を行えない罪人を差別したり排斥したりすることを良しとせず、
罪人の側に立って、赦し愛してくださる、神の愛に感謝です。
人間は、律法を守ることができない弱い者でありますが、その弱さをを知り、赦し、なお愛してくださる、神の愛を思います。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


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