京都市では今、新型インフルエンザの影響で旅行者、特に修学旅行の方が減りに減って、えらいことになってるようです。殆ど大丈夫だというのに。
そんなえらい状況になる二日前、既に近接の地で影響が出る中、謡蹟めぐりをやってきました。謡蹟(ようせき)というのは、能のお話の舞台となった所のことで、能の謡いである謡曲をたしなむ方の中には、この謡蹟めぐりをされる方がいます。
今回は左京区浄土寺真如町にある「東北院(とうぼくいん)」を書きます。ここは能の「東北」にちなむ場所で、東北と書いて「とうぼく」と読み、雲水山・東北院が正式な名だそうです。
門の正面から。横木が入って「入るな!」の意思表示でした。残念。
東北のお話は、旅の僧が東北院に咲誇る梅に見とれるところへ里の女が現れ、これは和泉式部縁の梅であると述べ、そこに見ゆる方丈は式部の寝室を残した物と言い、里の女自身がとても懐かしそうに語るので僧は問うと、実は梅の主と答えて消え失せます。
夜になり読経する僧の前に、ありし日姿の和泉式部の霊が現れ、歌舞の菩薩となった事を話し、和歌の徳を讃え舞を舞い、奥の方丈に入ったかと思えば、そこで僧の夢は覚める・・・というお話です。
謡曲史跡保存会の案内板。
歴史を感じる塀です。
傍らには石碑が。
さて、和泉式部縁の「軒端の梅(のきはのうめ)」ですが、いかんせん境内に入れないので、望遠で写すしかありませんでした。しかも狭い境内地には自動車が三台。
中へ入れないので門の外から覗いてみます。画像左側がいわゆる「軒端の梅」。右の建物が東北院です。
軒端の梅をもう少しズームで。もちろんこの梅は、何代目かの軒端の梅でしょうか。
もっとズームにして、東北院起源の案内板を写しました。
敷地には弁財天もお祀りされています。
境内には入れないし、表からあらかた見て写し終わって、ふと道路反対側の建物を見たら、「上京区」と記された住所板が。オイオイここが上京区だったのは相当昔のこと。昭和4年4月1日に上京区の一部が分割され左京区が設定されました。しかもこの板「岡崎真如堂町」となっているし、不思議な板だと思いました。
当日持参した地図では判明しませんでしたが、東北院お向かいの一角だけ、岡崎真如堂前町が飛び出すようになっていて、ここが浄土寺真如町との境界になります。住所板の「真如堂町」は「真如堂前町」の誤りでしょうか。しかし物もちがいい。80年前の板が現役とは。でもこのお宅、どう見ても80年前のモノとは思えないし、住所板だけを建物に取り付けたのかな。
東北院門前から西を見る。左側二軒だけが、岡崎真如堂前町。先の辻から向うは、吉田になります。要するに境界の端の地域ですね。
東北院門前から東を見る。道の両側とも浄土寺真如町です。道の突き当たり手前を右に行くと、地名のもとになった真如堂です。
ここまで書いて、実はこの東北院は移転したものなのです。それでも400年近くは経ており、移転前は今の御所の近くにありました。東北の方向に建っていたので「東北院」と呼ばれるようになったとの説もあり、旅の僧が和泉式部縁の梅と出会ったのは、洛中の東北院であったでしょうか。改めてその場を訪問しなければなりません。
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