Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅 中山道・・・加納宿から愛知川宿へ!!

2007-09-30 22:10:23 | Weblog
《輪旅 中山道…加納宿から愛知川宿へ!!》

 壮大なプランといえばまさしくこれではないか。私の自転車の大先輩、OさんとTさんが北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで日本列島を自転車で縦断しようというのである。

 お二人の年齢は60代半ば。失礼ながらどこにでも居るオジ(お爺?)さんなのであるが、なんと往年のキャンピング車にバッグを四つ(フォーサイド)とフロントバッグの計5つを自転車にくっ付け、日本列島の中央部を縦断しようというのである。

 装備の重量は30キロとか、日数は50日を予定しているそうである。その行程は毎日、旅先からノートパソコンでブログにアップされ、仲間がそれを見てコメントするという算段である。

 加納宿・・・今回は走っていないが、今も江戸時代の加納城跡が残っている。和傘で有名。

 河渡宿・・・長良川の渡し場があったところ。時代は違うが、ここにある国枝サイクルはホイール組みの名人とかで、今も競輪選手からの依頼があるという。

 美江寺宿・・・中山道は神社の前で90度折れ曲がる。宿はずれの農村風景が素敵であった。揖斐川を渡ったところが呂久、小簾紅園(おずこうえん)には皇女和宮の有名な「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそ
すれ」の歌碑がある。

 赤坂宿・・・北に位置する金生山は石灰岩の山で、化石が今も採れるという。宿はずれの青墓は源義朝も寄ったという歴史の里、小栗判官・照手姫 伝説もある。美濃国分寺跡も近い。

 垂井宿・・・美濃一宮の南宮大社がある。いまだに当時の旅籠が営業を続けている。

 関ヶ原宿・・・いわずと知れた天下分け目の合戦があったところ。多くの史跡が残っている。また、壬申の乱の跡でもある。川が血で染まったという黒血川がある。

 今須宿・・・妙応寺は岐阜でも最古の寺とか。宿はずれの「寝物語の里」が美濃と近江の境となる。

 柏原宿・・・往時の建物が多く残っている。伊吹もぐさの産地でもあり、今も盛業している「亀屋佐京商店」の店頭には福助人形が飾ってある。

 番場宿・・・「まぶたの母」の番場の忠太郎は架空の人物ではあるが、あまりにも有名である。

 鳥居本宿・・・琵琶湖を見ながら?摺針峠を越えると鳥居本宿。赤玉神教丸本舗の建物は立派である。雨合羽の看板は見所。

 高宮宿・・・多賀大社への大鳥居がある。提灯屋など、当時の面影が濃く、ゆっくりと散歩をしてみたい宿場である。

 愛知川宿・・・今も繁盛?してる商店街があるが、宿の面影は少ない。この先の五個荘で中山道から外れ、近江商人発祥の地、五個荘を散策してみた。

 最後は今日の終着となる能登川、お二人を宿へ送り、ビールをご馳走になってから帰りの電車に乗った。

 10月6日、お二人が無事に日本縦断を果たされ、佐多岬へ到達されたとの知らせを受けた。


輪旅 八ヶ岳一周・・・麦草峠を越えて!! その2

2007-09-29 21:25:00 | Weblog
《輪旅 八ヶ岳一周…麦草峠を越えて!! その2》

 二日目、朝一で小海町の海尻へ下りる。海からはほど遠い信州の佐久に、海にちなむ地名があることは不思議であるが、それはかつてここが海の底であった名残りであろうか。

 今日も快晴、残雪を抱く八ヶ岳の眺めが素晴らしい。高原野菜の畑の中を疾走する。

 交通量の多い国道141号を避け、小海線の下をくぐって林道を上って行く。結構な勾配で汗を掻くことになるが、新緑の始まりかけた高原は爽やかで、とても気分が良い。

 海ノ口牧場から八ヶ岳牧場への高原ルートは今回のハイライトコースといえる。八ヶ岳を右手に眺めながら雄大な裾野を自転車で走るのは至福のひと時であった。左手には奥秩父の山々も遠望できた。

 日本で一番高い位置にあるという野辺山駅に寄る。ここで自転車関連の本を執筆されているS氏夫妻と合流し、野辺山高原を案内していただいた。

 高原野菜畑のど真ん中にポツンと立つ梨ノ木は見ごたえがあった。年月を経て生き続ける大木には不思議な生命力を感じる。進化したと思い込んでいる人間にも真似の出来ないパワーを持ているようだ。

 次に訪れたのが宇宙電波観測所、その巨大なパラボラアンテナは異様でもあり、また宇宙を探るというロマンも感じた。

 ここでS氏夫妻と別れ、小海線沿いに小淵沢を目指す。途中、清里の駅前を訪れたが、かつての賑わいは無くなっていた。

 大泉、小泉と快適な下りを楽しむ。途中、有名な演歌歌手が営む美術館があった。

 三分一湧水を見学し、小淵沢駅より帰る仲間と分かれる。後は県道「茅野小淵沢韮崎線」をひたすら走って富士見町役場へと戻った。

 自転車で八ヶ岳を一周する今回のプランは走り応えがあった。標高2千mオーバーの麦草峠、刻々と変化する八ヶ岳の風景、雄大な野辺山高原・・・自転車ならではの体験が出来たことに感謝したい。

輪旅 八ヶ岳一周・・・麦草峠を越えて!! その1

2007-09-20 22:05:26 | Weblog
《輪旅 八ヶ岳一周…麦草峠を越えて!! その1》

 年に一度、ランドナー乗りが集まるイベントがある。参加の資格は泥除け付きのランドナーで、フロントバッグ付き(私はなぜかサドルバッグ仕様!?)ハンドルはドロップというのが基本ルールである。

 アバウトなコースは、富士見~茅野~蓼科~麦草峠~松原湖(泊)~小海~野辺山~清里~小淵沢~富士見という八ヶ岳を一周するものである。

 富士見町役場からスタートし、国道20号を茅野に向かって走る。途中、仲間がランプのレンズを落とすが、運悪く後続のトラックに踏まれてしまったという。

 茅野の駅前には25名あまりの参加者が集まっていた。主催者?より簡単な説明を受けた後、それぞれが蓼科に向かって国道152号を走り始める。

 芹ヶ沢より国道299号に入り、徐々に坂を上るようになる。楽しみにしていた八ヶ岳の眺めは春霞の向こうのようであった。

 この辺りは肥沃な土地のようで、広大な農地が広がっていた。蓼科自由農園というマーケットが途中にあり、この辺りのペンションやオーベルジュのオーナーシェフが新鮮な材料を求めてやってくるそうである。

 横谷渓谷の入り口付近より本格的な上りとなる。気の早い仲間は蕎麦屋に入ってお腹を満たしているようだ。少しでも高度を上げておきたいという思いで更にペダルを漕ぐ。

 国道299号は一般道路ではないようで、大型トラックが行き来する道ではない。交通量が少ないのはありがたいが、観光道路特有の傾斜のきつさは脚に応える。ただひたすら上って行く。

 標高1900m付近が森林限界なのか、低潅木帯となって視界が一気に広がった。気温も低くなり、短パンでは肌寒さを感じる。道路脇にはわずかながら残雪があった。

 勾配が緩くなり、高原状になったところが峠である。麦草ヒュッテの看板に従って右折し、小屋の中へと入った。室内はストーブが焚かれ、冷たい飲み物でのどを潤す。

 峠はヒュッテよりすぐ先、標高はなんと二千メートルオーバーで2127mと表示されていた。茅野の駅よりほとんど登りっぱなしというハードさであった。標識をバックに記念?写真を撮る。

 峠よりはお駄賃となるダウンヒルの始まり。ウィンドブレーカーを着こんで冷えに備える。至福のひと時でもある。

 白樺の林を縫って快調に飛ばす。前方には佐久平の景色が広がり、遠くには浅間山らしき影も見える。

 残雪を抱く八ヶ岳の東面が望めるようになると松原湖は近い。硫黄岳の爆裂火口であろうか、険しい崖は迫力があった。

 坂を下りきったところが今日の宿となる松原湖のペンション。噂では日本で始めてのペンションとか、そこが今宵の宿である。

画像(期間限定)
http://album.nikon-image.com/nk/NK_AlbumPage.asp?key=1053672&un=56921&m=2&s=0

輪旅 保津峡から嵯峨野、下鴨神社を訪れる!!

2007-09-09 21:48:33 | Weblog
《輪旅 保津峡から嵯峨野、下鴨神社を訪れる!!》

 これは私の個人的趣味、天皇陵巡りのリポートです。興味のない方はパスされることをお勧めします。

 JR山陰線保津峡駅に降り立つ。鉄橋の上に駅があるというのも珍しいが、直ぐ下が保津峡で眺めが良いのも感動的である。

 自転車を組み立て、小さな谷を遡って水尾を目指す。嵐山から4キロほどしか離れていないのに、そこはまったくの山中で、車一台がやっとの道を辿っていった。

 京都市右京区水尾、人口は160人で、かつては丹波と山城をつなぐ重要な道として賑わったという。ゆずの産地でもあり、今もゆず風呂などが楽しめるという。

 水尾といえば第56代清和天皇の隠居地でもあり、天皇陵もここに設けられた。小川を渡り、15分ほど登ったところに陵墓はあった。

 第56代清和(せいわ)天皇陵:在位は858~876、父は文徳天皇。陵墓名は水尾山陵。清和源氏の祖でもある。

 次に嵯峨野を目指す。トロッコ列車の走る保津川沿いに下ってゆくと六丁峠に出会う。そこを下りたところが嵯峨野。街道に沿って古風な民家が並び、土産物屋街になっていた。

 第52代嵯峨(さが)天皇陵:在位は809~823、父は桓武天皇。陵墓名は嵯峨山上陵。陵墓は嵯峨野の北に位置し、山の中腹にあった。市内の眺めが良いことは言うまでもない。

 大覚寺の北を東に進む。この辺りは田園地帯で、とても京都とは思えない景色が広がっていた。その先に後宇多天皇陵はあった。

 第91代後宇多(ごうだ)天皇陵:在位は1274~1287、父は亀山天皇。陵墓名は蓮華峯寺陵。在位中に元寇があった。

 広沢の池を通って次を目指す。

 第55代文徳(もんとく)天皇陵:在位は850~858、父は仁明天皇。陵墓名は田邑陵。民家のところより階段を上がり、左下にため池を見ながら、その奥に陵墓はあった。

 福王子の交差点を北へ向かう。

 第64代円融(えんゆう)天皇陵:在位は969~984、父は村上天皇。陵墓名は後村上陵。藤原氏の勢力争いに翻弄されたという。

 第62代村上(むらかみ)天皇陵:在位は946~967、父は醍醐天皇。陵墓名は村上陵。平安文化を開花させた天皇といわれる。

 仁和寺の角を曲がって坂を上って行く。かなり上がった山中に陵墓はあった。

 第59代宇多(うだ)天皇陵:在位は887~897、父は光孝天皇。陵墓名は大内山陵。菅原道真の栄華盛衰は宇多天皇とともにあったという。

 次に竜安寺へ向かう。天皇陵は駐車場の奥から入ったところであった。

 第69代後朱雀(ごすざく)天皇陵:在位は1036~1045、父は一条天皇。陵墓名は円乗寺陵。主導権は藤原一族にあったとか。

 第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇陵:在位は1045~1068、父は後朱雀天皇。陵墓名は円教寺陵。宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が出現し、栄華を極めた藤原氏の 没落がはじまり、歴史は「武士の時代」へと移行してゆく。

 第71代後三条(ごさんじょう)天皇陵:在位は1068~1072、父は後朱雀天皇。陵墓名は円宗寺陵。荘園整理令の発布などをしたという。

 第66代一条(いちじょう)天皇陵:在位は986~1011、父は円融天皇。陵墓名は円融寺北陵。清少納言や紫式部、和泉式部がこの頃に活躍した。

 第73代堀河(ほりかわ)天皇陵:在位は1086~1107、父は白河天皇。陵墓名は後円教寺陵。天皇は、和歌、音曲、文芸にいそしんだという。

 第78代二条(にじょう)天皇陵:在位は1158~1165、父は後白河天皇。陵墓名は香隆寺陵。1159年、「平治の乱」が勃発した。

 第65代花山(かざん)天皇陵:在位は984~986、父は冷泉天皇。陵墓名は紙屋上陵。在位中は銭貨の流通を図り、荘園の増大を抑制するなど積極的な政治を行った。

 第67代三条(さんじょう)天皇陵:在位は1011~1016、父は冷泉天皇。陵墓名は北山陵。大文字山のすぐ麓にこの陵はある。

 金閣寺前より千本鞍馬口、掘川紫明、下鴨神社へと走る。この道沿いは昔の商店街が残り、本当の京都の風情が残っているように感じた。

 下鴨神社。世界遺産の建物は凄いの一言、京都の真ん中に巨大な自然の森が残っていた。

 出町柳まで下り、そこより東進して京都大学の前へ至る。

 第94代後二条(ごにじょう)天皇陵:在位は1301~1308、父は後宇多天皇。陵墓名は北白河陵。陵墓は京都大学のそばにあった。

 銀閣寺の近く、白川通今出川の手前より旧道らしき道を南下する。

 第68代後一条(ごいちじょう)天皇陵:在位は1016~1036、父は一条天皇。陵墓名は菩提樹院陵。この帝の治世に、刀伊(とい)の入寇や平忠常の乱などが起こっている。

 第57代陽成(ようぜい)天皇陵:在位は876~884、父は清和天皇。陵墓名は神楽岡東陵。のちに武家の棟梁となる清和源氏は実際は陽成源氏との説もある。

 最後は聖護院に立ち寄り、鴨川の河川敷に作られたサイクリングロードを走って京都駅へと戻った。









峠旅 鈴鹿山系・武平峠から安楽越へ!!

2007-09-09 17:45:07 | Weblog
《峠旅 鈴鹿山系・武平峠から安楽越へ!!》

 かつて鈴鹿セブンマウンテンといわれ、今も登山者でにぎわうエリアである。北は霊仙山に始まり、南は那須ヶ原山までの長大な山稜は登山初心者でも楽しめる。

 この鈴鹿山系には、北から鞍掛峠、石榑峠、武平峠、安楽越、鈴鹿峠の五つが主な峠道で、今回は武平峠と安楽越にチャレンジしてきた。

 集合は菰野町役場、異様に立派な建物で、湯の山温泉や御在所岳からの観光収入が多いのであろかと要らぬ心配をしてみる。

 今日のメンバーは三人、早々に仕度をして走り始める。先ずは御在所岳へのゴンドラリフトの下をくぐり、鈴鹿スカイラインをひたすら上ることになる。

 車は思ったほど多くはなく、滋賀県の水口あたりから四日市への抜け道として利用されているようだ。良く整備された道ではあるが、かつての有料道路だけに勾配の設計は急であった。

 健脚のお二人ははるか前方を走っているようで、一人黙々と坂を上って行く。雨こそ降ってはいないが、梅雨時でもあり、振り返って見える四日市の市街は霞んでいた。

 つづら折れを幾つかこなし、広い駐車場のあるところが峠であった。そのすぐ先がトンネルで、本当の峠はその上にあるようだが、歩きでしか訪れることは出来ない。

 通り雨であろうか、パラッと来たので雨具を着ける。大河原までのダウンヒルは豪快で気分の良いものであった。野洲川ダムを右に見て、右に左にとカーブをこなして行く。

 国民宿舎「かもしか荘」で休憩を取る。日帰り温泉も出来るようだが、それは次回とし、近くの食堂に入ってランチを楽しんだ。

 鮎川、黒川と過ぎ、笹路(そそろ)より左折して山女原(あけびはら)を目指す。昔は辺鄙な場所であったかもしれないが、道路が整備されて山奥という感じはなかった。

 さらに奥へ進むと安楽越の道標に出会う。大津京(天智天皇)の時代、都を守護するため、古代三関と呼ばれる関が設置されたという。不破の関、愛発の関、鈴鹿の関で、鈴鹿峠は安楽越より4キロほど西南に位置する。

 安楽越は勾配の厳しい鈴鹿峠を避けて通る間道であったという。とくに伊勢側は急峻で、現在の国道1号も大きなカーブを描いて鈴鹿山系を越えている。

 林道然とした車一台がやっとの道をノンビリと上がって行く。歴史のある道だけに両側の木々は生い茂り、強い日差しをさえぎってくれるのが有難い。

 峠は切り通しになっていて、むき出しの崖は工事現場のようで味気なかった。道路の拡幅工事のせいであろうが、お地蔵さんが祭られた、ひなびた峠を想像していただけにがっかりであった。もっとも、往時の峠はここでなく、自然の藪の中に残っているという話であった。所詮、自転車で走って通れる峠なんて今時の贋峠でしかないのかもしれない。

 石水渓を目指して下りに入る。自然林が続く素敵な道で、今日の一押し区間でもある。樹木が茂っているだけに路面は苔むしており、細心のブレーキングが要求される。

 安楽の集落付近まで下ると、第二名神の橋脚が林立する場所へと出る。その風景は異様で、「人間様はここまでやるか!」という印象を持つ。ギリシャのパルテノン神殿??くらいが丁度良い・・・。

 野登小学校のところを左折し、県道11号に沿って北上をする。鈴鹿山系の山裾を辿る県道は昔の雰囲気が漂っていて嬉しくなる。改良工事が始まっているが、そのままにしておいて欲しいところである。途中に出会う茶畑の風景は一見の価値ありであった。

 今日の旅の安全に感謝して、椿大神社を訪れる。正式にはつばきおおかみやしろといい、別名を猿田彦大本宮といい、猿田彦大神を祀る神社の総本社とされている。伊勢国一宮でもある。

 水沢の集落を過ぎ、ゴルフ場の西側を越えれば湯の山温泉の近くへと出る。小さな道の駅で土産を仕入れ、無事に菰野町役場へと戻り着いた。

 距離にして70キロ弱、標高差も適度?で、ワンデイ・ツーリングにはお勧めのコースかと思う。紅葉の時期にでも再訪したいところであるが、鈴鹿スカイラインが渋滞しては興醒めかもしれない。

コースマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=ad7e3a39d7be3b492c7e213adb683103

画像(期間限定)
http://album.nikon-image.com/nk/NK_AlbumPage.asp?key=1071917&un=56921&m=2&s=0