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国国宮めぐり 美作・播磨へ!!

2011-02-17 22:35:07 | 国国宮めぐり
《国国宮めぐり 美作・播磨へ!!》
なぜ国国宮めぐりなのか・・・今も当たり前に使われている旧国名・・・尾張名古屋、飛騨高山、越前海岸、三河弁、近江米・・・でも、案外そのルーツは知らないことが多いようです。

令制国(りょうせいこく)とは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位であった・・・令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。国府は府中と呼ばれることもあった・・・とあるサイトより

奈良時代の旧国名は65ほどあったらしい。淡路島、佐渡島、隠岐島、壱岐島、対馬なども独立した国であったようです。

そんな場所に立て、1300年前を偲んでみるのも旅の面白さかと思い、暇を見ては国府、国分寺(尼寺)、一宮を訪ねています。2月現在、一宮でカウントしたところ、49の国を訪れることができたようです。

国分寺・・・国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院。壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。正式名称は、国分寺(総国分寺は東大寺)が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺(総国分尼寺は法華寺)が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である・・・とあるサイトより

一宮・・・一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の選定基準を規定した文献資料はないとされるが、準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ・・・とあるサイトより


(美作国府)
美作をみまさかと読める人は少ないかもしれない。津山市内より県道68号を北上し、坂の上の高台に国衙跡の碑が建ち、現在はお寺さんになっていました。


(美作国分寺)
津山市内を東に抜け、加茂川を南に渡った高台に国分寺跡がありました。現在の国分寺は新しく、奈良時代の跡はこれから発掘がされるようで、民家や水田になっている場所は用地買収がされ、いづれは公園化されるようであった。


(美作国一宮)
国府跡を過ぎ、川沿いを上流に遡ったところに美作国一宮「中山神社」はあった。鳥居の前には樹齢〇年の木があり、歴史の古さを物語っていました。なぜか境内の木々が伐採?されていて、殺風景なのが気になりました。


(播磨国一宮)
津山インターより中国自動車道に乗り、兵庫県の山崎インターにて降りる。揖保川に沿って北上し、播磨国一宮の「伊和神社」に辿り着く。町名も一宮町・・・地元の方にも親しまれている神社のようで、社殿の前では新車のお払いをしてる最中でした。

国国宮めぐり 備中・備前へ!!

2011-02-14 11:41:44 | 国国宮めぐり
《国国宮めぐり 備中・備前へ!!》

国分寺に興味のない方でも、吉備路から眺める備中国分寺の五重塔の風景はご存知かと思う。その優美な塔は、1300年前の奈良時代そのままの風情があるように感じる。


(備中国府)
何度も迷い、ようやく国庁跡に・・・本格的な発掘調査はされていないようで、あくまでも言い伝えの場所のようであった。


(備中国分寺)
吉備路を旅する人は、その姿に圧倒される。奈良時代のものではないにしても、優美な五重塔は、そののどかな風景の中に溶け込んでいた。信仰心がなくても心が洗われる気分であった。


(備中一宮)
吉備津神社・・・三備一宮とある。備前、備中、備後を統括?する神社なのであろうか。その建物がまた素晴らしい・・・

備前国府・・・現在の岡山の市街からはずい分離れていた。広島同様、水害にあわないよう土地の高いところに国庁を造ったようで、今は住宅地の中の空き地となっていた。


(備前国分寺)
この国分寺は国府よりずい分離れていた。結構な山奥で、当時のお参りも大変だったようである。現在、塔の礎石が新しく設置され、公園化をするようであった。



(備前一宮)
吉備津彦神社・・・備前焼で出来た狛犬が待ち構えていた。

国国宮めぐり 安芸・伊予・備後へ!!

2011-02-06 21:37:49 | 国国宮めぐり
《国国宮めぐり 安芸・伊予・備後へ!!》
奈良時代に律令制で決められた国を巡るのも面白い。国府、国分寺、一宮を訪ねる旅を続けています。今回は、安芸国、伊予国、備後国、備中国、備前国、美作国、播磨国を回ってきました。

温故知新・・・千年を越える歴史の場所を訪ねたからと言って何かが変わるわけではないかもしれませんが、奈良、平安時代に生きた人々のエネルギーを感じ、少しでもあやかりたいというのが本音です。

安芸国府・・・安芸郡府中町として地名が残っている。現在の田所明神社の辺りに国庁があったらしい。当時、現在の広島市街はデルタ地帯と思われ、高台となる山裾に位置していたのであろう。

(安芸国分寺)
安芸国分寺・・・広島県西条(現・東広島市)の丘陵地にありました。現在の国分寺の裏手一帯が国分寺跡のようで、発掘調査も進み、整備がされるようです。かつての官道「山陽道」も近くを通っていたようで、丘からの穏やかな丘陵地の風景は、千年前の旅人も同じ思いで見たのでしょう。発掘された塔跡には17個の基壇が・・・七重塔であったという。


(伊予国一宮)
伊予国一宮「大山祇神社」・・・尾道よりしまなみ海道を渡り、大三島へ。ここは三島神社の総本山といわれ、島の名前もそこからという。鳥居をくぐって玉砂利の境内を行くと樹齢2600年と云われる楠木が・・・。朝の8時、毎日の日課として境内はくまなく掃除がされているようだ。

備後国府・・・広島県府中市にあったという。元町ツジ遺跡が国府だと云われ、発掘調査もされているという。その場所は地元の方でも知らないようであった。


(備後国分寺)
旧道沿いに行くとちょとした松並木が現れた。その入り口に建つ自然石の碑には国分寺と刻まれ、長い参道が現在の国分寺まで続いていた。その途中に金堂、講堂、塔などの遺跡があったという。


(備後国一宮)
福山市新市町に吉備津神社があった。名前は備中一宮と同じで、平安時代に分祀されたためとも。古い家並みの旧道を行くと、突然と左手に随神門が現れた。車でその下をくぐり、境内の広場へと・・・立派な銀杏の木がある。

神楽殿の横のロウバイが咲きはじめていた。