Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その3

2007-03-30 22:42:49 | Weblog
≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その3≫

 福島正則陣跡。それは月見の宮、春日神社の大杉の元にあった。正則は名古屋の郊外、今の美和町に生まれる。(正則保育園や正則小学校が現存)この美和町からは蜂須賀小六や豊臣秀次など7名の大名を輩出しているという。

 天正11年(1583)、賤ヶ岳の合戦では七本槍の筆頭として活躍し、のち尾張・清洲城24万石の城主となる。今も残る名古屋の掘川は加藤清正と造ったとか。

 秀吉の縁戚であり、出世頭でもある正則は朝鮮の役でも活躍をするが、ここで石田三成との確執が生まれる。

 結果、正則は加藤清正同様に家康の東軍に付く。その褒賞として安芸(広島)備後49万石の藩主となる。

 しかし、豊臣家への忠誠心は根強く、それを疑った徳川幕府は福島家の追い落としに動いた。名目は武家諸法度違反、台風で壊れた広島城の石垣を幕府の許可を得ずに修復したという罪により信州・川中島4万5千石へ改易(左遷)させられる。

 悲運の武将、その波乱万丈の一生は苛酷な戦国時代を生き抜いてきた大名の中でも興味深いものがある。加藤清正と同じく、彼も老獪な家康の策略にはめられた一人であろう。


輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その2

2007-03-27 22:32:43 | Weblog
≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その2≫

 小早川秀秋陣跡。三方を小高い山に囲まれた関ヶ原の南西に位置し、その標高は293mである。数字からすれば大したことのない丘のように思えるが、自転車で上がってみるとなかなかの高さであった。未舗装の林道にペダルをクルクルと漕いで登って行く。

 峰越しの切り通しより右折し、尾根上の歩道をさらに西進すると、その陣跡へと至る。台地状になった頂上には今でも土塁が残り、その一角からは白く雪をまとった伊吹山が遠望できた。当然のことだが、関ヶ原の盆地は全て見渡せ、天満山や笹尾山も一望の下であった。

 松尾山のいただきより、合戦の模様を眺めながら小早川秀秋は何を考えていたのか。北の政所ねねの甥として長浜で生まれ、三歳で秀吉の養子となる。しかし、秀吉に実子となる秀頼が生まれるとすぐに小早川家へ養子に出された。

 そのあたりの鬱積した思いが豊臣家への反目となったのか、世に言う寝返りへと思いが動いた。その急峻な北斜面を1万5千の兵は転げるように西軍へと向かい、この戦いの家康勝利に大きく貢献することになる。

 関ヶ原後、小早川秀秋は石田三成の居城、佐和山城攻めの先鋒を家康に申し出る。心から家康への忠誠心を表すためか、それとも三成への恨みがあったためか。

 戦後、小早川秀秋は備前(岡山)美作五十万石を家康より拝領するが、21歳の若さで狂死することになる。家康が寝返りを画策したとの評判をかき消すために毒(阿片)をもられたとも・・・徳川家の汚名とならぬように。小早川家の2本の鎌を交差させた旗印は不気味でもある。

輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その1

2007-03-24 22:04:02 | Weblog
≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その1≫

 慶長5年9月15日、天下分け目の戦いが不破の地、関ヶ原で行われた。太閤秀吉亡きあとの跡目争いでもあるこの戦(いくさ)は、戦国時代をしぶとく生き抜いてきた徳川家康にとって、天下取りのラストチャンスでもあった。今川義元、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉・・・それぞれの生きざまを見てきた家康にとっては、この時を逃しては征夷大将軍になれないと思ったに違いない。

 豊臣派の総大将は毛利輝元、副大将として宇喜多秀家が立つが、実質の総指揮官は石田三成であったことは周知の事実である。なぜ三成なのか・・・名目は、豊臣家の嫡子である秀頼に天下を継がせるためなのか。それとも三成自身に野望があったのか。

 片や東軍(これは合戦の後から名付けられた)の総大将は徳川家康。信長や秀吉に仕え、数々の戦(いくさ)から天下取りへのノウハウは十分に学習していた家康にすれば、武将としての最後の仕上のようなモノであったことであろう。

 豊臣政権での五大老は、徳川家康(筆頭家老)、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(後に上杉景勝)。石田三成は格下の五奉行職であった。秀吉が亡くなるのが慶長3年9月。その翌年に前田利家が亡くなったのも家康にとってはチャンス到来である。その時、秀頼は7歳であった。

 戦国時代、中国地方の大名は毛利元就を中心にそれなりのバランスを保っていた。そこへ天下取りの秀吉が現れ、その支配化に置かれたのはのちのちのトラウマになっていたことであろう。秀吉さえいなくなれば、豊臣家にそれほどの忠誠心はない。

 信長や秀吉に仕えた尾張や三河の武士ほどの恩義もない。それが関ヶ原の合戦での士気に現れているようにも思える。毛利秀元や吉川広家、長束正家、長曽我部盛親は最後まで動かなかった。

 結果、石田三成には西軍を一枚岩にできるだけの技量がなかったというのが敗因ではないか。当時の大名の力関係でいえば家康の実力はピカ一であり、なぜ自分達が三成のために戦わなければならないのかと。

 先ずは関ヶ原歴史民族資料館で予備知識を得る。合戦のアウトラインを知ることが古戦場巡りの興味をアップさせてくれる。

 床几(しょうぎ)場。合戦後、家康がここで各武将が取ってきた首級の首実験をしたところ。生首を見ながら、その武将の位によって褒美が決まったわけで、成果によっては何十万石という一国の城が貰えるわけである。

 余談ではあるが、他人の取った首を拾ってきて差し出す輩もいるわけで、笹の才蔵と呼ばれた可児才蔵は取った首の口へ目印の笹を入れていたという。

 東首塚。この戦いに参戦したのは15万人、命を落とした者は8千人とか。首実検の済んだ後は東と西の首塚に埋葬されたという。その横を通る国鉄東海道線の工事の時には多くの頭蓋骨が出てきたという。ここは井伊直政と松平忠吉の陣跡でもある。

 井伊直政陣跡。本多忠勝、榊原康政、酒井忠次との4人を徳川四天王という。鎧具足から旗指し物など全てを赤一色にした井伊の赤揃えは有名である。のち、井伊家は彦根三十五万石となり、近年には彦根市長も務めるという名家でもある。

 桃配山。関ヶ原の変より溯ること900年、ここは壬申の乱の舞台でもあった。その戦いに勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が、ここで地元民からプレゼントされた桃を配下の兵士達に配って士気を上げたという。後に勝利し、その古事にあやかって家康が桃配山に陣を構えたのであろう。この高台から眺める笹尾山は手に取れるような位置であることを実感した。

 本多忠勝陣跡。民家の路地を入った位置にその碑はあった。徳川四天王の一人で、その後、桑名十万石を拝領する。桑名城の北に立派な銅像が建ってたのを覚えている。

 島津豊久。西軍の敗色が濃くなり、敵陣突破を果たして牧田方面へ敗走した島津義弘隊は、本多忠勝や井伊直政の軍勢に烏頭坂で追いつかれ、ここで甥にあたる豊久は惟新(義弘)と名乗って敵と戦い、討ち死にをする。その後、義弘は薩摩まで無事に逃げ帰る。










輪旅 柳生の里から奈良の都へ!

2007-03-22 21:33:09 | Weblog
≪輪旅 柳生の里から奈良の都へ!≫

 太平記の舞台ともなった笠置山の麓にあるJR関西線・笠置駅よりスタートする。昭和の時代がそのまま残ったような町中を過ぎ、柳生の里へ続く県道4号をゆっくりと上がって行く。時間は10時近いが、狭い谷筋を行く道にはまだ日が差さない。

 道を上り詰めたところが柳生の里であった。高原状の山間に開けた長閑な田舎風景で、とても剣豪の里というイメージは感じさせない。先ずは柳生一族の菩提寺となる芳徳禅寺へと向かう。石畳の急坂に自転車を押して上がる。

 池を配した庭を抜けると本堂へと至る。高台となるこの場所から見下ろす柳生の里は日本の現風景というに相応しい。

 次ぎに訪れのは柳生藩家老屋敷。かつて作家の山岡荘八が所有し、「春の坂道」の構想を練った場所だそうだ。その屋敷の立派な石垣に感動した。

 国道369号をひた走り、円成寺を目指す。長閑な田舎風景が続く静かな道を走っていると、猪の皮が竿に天日干しされているのに出くわした。

 途中、寄り道を予定していた夜支布(やぎゅう)山口神社は見付けることができなかった。

 円成寺、その浄土庭園や多宝塔は素晴らしいものとのことであったが、時間の都合でパスする。

 その先より、東海自然歩道を行くMTB組みと分かれる。かつての柳生街道は自然歩道となり、柳生石舟斎、宗矩、十兵衛や、宮本武蔵、荒木又右衛門などが奈良の町へと足繁く通った道であろう。その先の石切峠にある峠茶屋は、今も草餅などを商っているそうだが、生憎、今の時期は店を閉めていた。

 峠より先は滝坂道といい、沢沿いに付けられた急峻な石畳の道となる。そこには首切り地蔵や朝日観音、夕日観音 、寝仏などが奉られているとのことだが生憎と見ていない。

 今回は春日山の原生林の中を行く林道を駆け降りた。とても静かで、古都・奈良のもう一つの面に触れた気分であった。

 降り立ったところが奈良公園の一部となる春日大社。遅い昼食を済ませて、東大寺を訪れた。運慶、快慶作の仁王像を安置する南大門。世界最大となる木造建築の大仏殿。そして現存する世界最大の金銅仏。これはもう人類の財産といえる壮大なものではないかと思えた。

 帰路は県道44号にて加茂、笠置へと取る。後で気が付いたのであるが、この加茂という場所は、奈良時代に聖武天皇が首都とした恭仁(くに)京があった場所で、その跡地が後の山城(山背)国・国分寺となったそうである。今でも薬師堂や七重塔の礎石が残っているという。是非とも次回は訪れてみたい。

 大和青垣国定公園の一部を走った今回のプランは盛り沢山であった。観光地としての派手なイメージの奈良ではあるが、一歩、山間地に入れば素適な風景が多く残り、自転車でノンビリと走るには持って来いの場所であるというのが印象である。ちなみに青垣とは、大和の周辺、特に東部の山々を青垣山と呼ぶところからだそうだ。

輪旅 古都散策ラン その3!

2007-03-02 18:59:06 | Weblog
≪輪旅 古都散策ラン その3!≫

 仁和寺の大きな山門前を過ぎると福王寺の三叉路へ至る。右に取れば周山街道となり、高雄の高山寺から弓削へと行く道である。今回は左に取り、宇田野から広沢池へと向かう。
 嵯峨野は京都市内の北西隅に位置し、まだまだ田舎の風情が残っている。大覚寺から天龍寺と周る。

 大覚寺は嵯峨天皇の離宮を寺とした後、鎌倉時代には亀山天皇や後宇多天皇がここで院政を行い嵯峨御所と呼ばれた。南北朝時代の大覚寺統/南朝として知られる格式高い門跡寺院でもある。隣接する大沢池は平安貴族の舟遊びの場で、月見の場所として有名だそうだ。

 天龍寺。ここは後醍醐天皇の冥福祈願のため、足利尊氏が建立した臨済宗天龍寺派の総本山。尊氏は、この寺の造営資金獲得のために元との貿易を再開し、幕府公認の貿易船「天龍寺船」を運航させたといわれている。

 嵯峨野の名所としても人気のある竹林を抜け、遊歩道の坂を下って行くと渡月橋へと出た。桂川に架かるこの橋はあまりにも有名で、観光客がぞろぞろとうごめいていた。

 橋を渡って更に南下する。次の訪問地は松尾大社、ここは大山咋神と市杵島姫命の二神を祀る。 大宝元年(七〇一)秦忌寸都理が、松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、当地に社殿を建立したのが起りと伝え、平安時代には皇城鎮護の神として、また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めているそうだ。

 ちょうどこの日は節分祭で、近所の氏子で賑わっていた。出雲神楽が奉納され、弓矢が射られて祭りは最高潮となった。ここは酒の神様でもあるらしく、多くの酒樽が奉納されているのが壮観であった。

 次に訪れたのは苔寺として有名な西芳寺。ここは暦応2年(1339)、藤原親秀が夢窓疎石を招いて再建した寺。有名な西芳寺庭園は夢窓疎石の作庭による。史跡、特別名勝に指定されていて、池泉回遊式、枯山水の二段構えとなっているという。拝観料は三千円、それも事前予約が必要という「いけず」なお寺さんでもあった。一見さんお断り!??

 時間は夕方の4時、京都をぐるっと一回りのプランもここで打ち止めとする。まあ、焦って走り回るのも風情がないというか大人気がない。また次回に後半を訪れることにして京都駅へと急いだ。

 途中、京都で最も有名?な中華料理店へ入り、餃子とビールで感動の旅に感謝したことは言うまでもない。