Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

自転車、登山、テレマークスキー、カヌー・・・そんな情報が満載ですよ!!

峠旅 白川12峠を走る!!その1

2007-08-30 22:27:29 | Weblog
《峠旅 白川12峠を走る!!その1》

 峠を12も越えようというのは酔狂としか言いようが無い。これは決してスポーツではなく、あくまでもツーリング、12の峠旅を楽しもうというのが趣旨ではあるのだが。

 それは修行に近いものがある。標高600mから700m位の峠を一日で12も越えることは尋常ではない。まるで徳川家康の人生訓「重い荷を背負って遠い道を行くがごとし。あせらず、ゆっくりと!」そのままであった。

 去年は時計回りで「白川10峠100kmラン!」を走ったが、今年は逆回りで、それも峠を二つ増やし、距離も125kmとした。

 スタートは白川町役場前から。アバウトなコースは、名越峠、福地峠、蛭川峠、遠ヶ根峠、大多尾峠、桜峠、松坂峠、久野川峠、執幣峠、野多押峠、稲田峠、中屋峠の12を越えるルート。125km走って信号機がゼロというのも魅力である。

 基本ルールは、好きな時間にスタートし、早くゴールした人から自由解散。サポートは一切無く、早く走るのもノンビリと走るのも良しという勝手気ままな内容である。

 6時過ぎ、zenさん、Maxさんの三人で走り始める。町中を抜け、橋を渡って三川を目指す。ちなみに三川とは、白川、黒川、赤川の三つをさすのであろうか。

 藤井より最初の難関、名越(なごえ)峠への道に入る。これは取り敢えずの様子見?ここで調子を判断し、具合が悪ければリタイヤしようなどと弱気が起きる場所でもある。

 なんとか久田見へ上がり、追分より福地方面へと向かう。小さなアップダウンが続き、あせって走ると後半が持たないという思いで黙々と走る。

 鉄塔の建つ福地峠を越える。地図にある福地峠は間違いで、そちらは小倉坂というそうだ。後発のメンバーが何人か間違え、赤河(あこう)峠をおまけで越えたらしい。

 篠原で左折し、小さな峠を越えて中野方へ向かう。途中、Maxさんがパンクをしたようで、なかなか来ない。名所の坂折棚田を眺めながら待つが、見切りを付けて先行することにした。

 次の峠は蛭川峠、東濃の名山「笠置山」の北を越える峠で、蛭川側から上るとかなりの激坂となる。峠でMaxさんが追いついてきた。

 次は遠ヶ根峠。6月という時期は夏に近く、日差しが上ると結構暑い。ダラダラの緩い上りは脚に応え、辛いところであった。峠で飲むスポーツドリンクはぬるくても格別である。

 黒川に一度下り、さらに大多尾峠へ向かう。クルマはほとんど通ることのない静かな道で、会話を楽しみながら徐々に高度を上げて行く。途中の沢水は冷たく、ボトルとおなかを満タンにした。

 神土(かんど)へ下り、東白川中学の校庭で昼食とする。木陰に座り込み、自転車話に花を咲かせる。8時スタートの後発組がもう追いつく頃かと、道に目をやるが誰も来なかった。

 いよいよ今日の最難関となる桜峠へのチャレンジとなる。去年は下った坂ではあるが、その長さから困難さが想像できた。結果はそのとおり、もっとも苦しい上りとなり、何度も立ち止まって水分補給をする。峠の手前で後発組が追いついて来た。



峠旅 旧宮村から清見、馬瀬へと走る!

2007-08-29 22:27:28 | Weblog
《峠旅 旧宮村から清見、馬瀬へと走る!》

 以前より気になっていた道がある。岐阜県道453号宮清見線といい、旧の宮村寺元と清見村楢谷を結ぶ道路である。この道に沿って流れる宮川は、あの有名な高山市内を流れる川であり、小鳥川、高原川と合流し、神通川となって富山湾へ注いでいる。

 この源流には宮川防災ダムというものがあり、それも見るのも今回の目的であった。しっかりした道であるにもかかわらず、そこを自転車で走ったとか、モーターバイクで走ったとの記録も聞いたことがないのも走る切っ掛けとなった。

 先ずは旧萩原町中呂(下呂の北、上呂という地名もある)の禅昌寺駅より高山線に乗る。飛騨川に沿って走る鉄道の車窓は美しい。宮トンネルを抜けてすぐの飛騨一ノ宮駅で降りる。ちなみに飛騨国一ノ宮とはここにある水無(みなし)神社のことである。

 まるで迫力の無い葉桜の臥龍桜を観ながら自転車を組み立て、早々に走り始める。左前方の山の斜面にはモンデウス・スキー場が・・・。

 県道453号は宮川に沿って徐々に高度を上げて行く。この奥は国有林のようで、途中にある素掘りのトンネルから想像するには森林鉄道の跡のようである。

 「熊が目撃されました!」と去年の日付の看板があった。人家からも遠い谷の奥であれば熊が出てもおかしくはないが、ソロで走る身としては気が気ではない。無駄と思いつつ、チンカンベルを鳴らしてみるが。

 突然、前方に横切る動物が・・・それはカモシカで、運よくデジカメに収めることが出来た。その後、一気に崖を下って対岸へと逃げていった。

 川上(かおれ)岳への登山口を左に見送ると、道は勾配を増し、大きくカーブを描くようになる。やがて堰堤に宮川ダムと大きな看板?が見えてくる。

 ダム湖にはあまり水が無く、それほどの規模ではないようだ。峠への道を急ぐ。

 やがて無名の峠(仮称として川上越えとでも)に辿り着く。そこは笹原の別天地であった!・・・といいたいところであるが、展望もあまりなく、平凡な風景であった。冬であれば雪の北アルプスくらいは遠望できるかもしれないが。

 腹ごしらえをし、気分を一新して下りに入る。赤谷沿いの道は通る車もなく、思う存分にダウンヒルを楽しんだ。この素敵な贈り物があるから峠の上りも頑張れるような気がする。

 国道257号(せせらぎ街道)へ出る手前に頑丈なゲートがあった。道理で車も来ないはずである。要するに自転車専用道!?これは最高の贅沢かもしれない。

 面白くも無い“せせらぎ街道”をひたすら走る。レーサー系の方は好んで走るようであるが、私のようなツーリスト?には居心地が良くない。早く走れとせかされているようで・・・。

 道の駅「パスカル清見」に寄り、飛騨牛の串焼きとビー○で一杯といきたかったが、なぜか今日は理性?が働き、まじめに馬瀬方面へのトンネルへと入っていった。

 馬瀬川に沿った道は拡幅の改良工事が進み、かつてのひなびた風景は失われていた。水の流れは相変わらず綺麗で、鮎釣りの連中がちらほらと川の中に立っていた。

 爆走につぎ、また爆走?を繰り返し、旧の役場前も過ぎて「美輝の里」を目指す。ここは以前、名古屋のサイクリングクラブ「自転車で道を走ってみる会」さんがクラブラリーを開催したところである。

 ここより柿坂峠の上りに入る。この林道は開削されてから年数が経っているのか、道の両側の木々が大きく茂り、日陰の部分が多くて助かった。数日前の降雨のせいか、湧き水も多くて水分補給には困らない。

 右に左にカーブをこなし、高度を上げきったところが峠であった。素朴な地蔵さんが鎮座ましましていた。

 後は一気に下呂を目指して下るだけ。路面に転がる木の枝や、薄っすらと積もった砂利に気をつけながら禅昌寺駅へと戻った。

 ソロの峠旅も捨てがたい。美濃・飛騨にはまだまだ未知のルートが沢山ある。当分の間は自転車旅が楽しめそうで心が浮き浮きする。

ルートマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=fb3381b55f6263778fa7303c65442ae1

画像(期間限定)
http://album.nikon-image.com/nk/NK_AlbumPage.asp?key=1099777&un=42542

輪旅 山科から伏見を行く! 

2007-08-22 21:45:31 | Weblog
《輪旅 山科から伏見を行く!》

 天皇陵巡りは地味な趣味ではあるが、有名な神社仏閣や庭園巡りよりは発見が多くあり、スリリングでもある。

 私の趣味は地図を読むこと。じっくりと(一時間以上!?)地図を見ているといろんなモノが見えてくる。適度な細さでうねうねと続く道は旧街道。赤い文字で書かれた名所、特に歴史的な○○跡などは興味深い。

 京都も奥が深い・・・大極殿跡、羅城門跡、西寺跡、聚楽第跡、離宮とは何か。なぜ西陣というのか。室町幕府はどこにあったのか・・・等々。

 摂津富田駅に降り立つ。「せっつとんだ」と呼び、摂津とはこの辺りの旧国名である。今日の訪問地の最初は継体天皇陵。淀川より北に濠を廻らした前方後円墳は二つしかない。継体天皇陵と今城塚古墳であるが、どちらが本物かという論争があるらしい。

 第26代継体(けいたい)天皇陵:在位は?陵墓名は三島藍野陵という。名神高速道に沿った住宅街の真ん中に前方後円墳はあった。よく整備された濠は綺麗で、見応えがあり、そのグルリを一周してみた。

 次に訪れたのが今城塚古墳。荒れるに任せていたようで、最近、公園化するために工事が行われていた。人工的な手が入った古墳はつまらなくなるような気がするが。

 再度、鉄道に乗って山科へ移動する。これからが今日のメインである。

 第38代天智(てんち)天皇陵:在位は668~671、父は舒明天皇。陵墓名は山科陵。大化改新を行った中大兄皇子のことである。

 五条別れより南下して歓修寺を目指す。

 第60代醍醐(だいご)天皇陵:在位は897~930、父は宇多天皇。陵墓名は後山科陵。菅原道真が大宰府に左遷された時の天皇。

 第61代朱雀(すざく)天皇陵:在位は930~946、父は醍醐天皇。陵墓名は醍醐陵。在位中、平将門が関東で反乱を、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こした時の天皇。富士山も噴火したとか。

 醍醐寺。醍醐山に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院であり、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。世界遺産に登録され、国宝は18にものぼるという。

 明智藪。山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀は近江坂本城へ逃げ帰る途中、伏見の小栗栖で落ち武者狩に襲われ、最期を遂げた。

 第122代明治(めいじ)天皇陵:在位は1868~1912、父は孝明天皇。陵墓名は伏見桃山陵。明治天皇については書くまでもない。その陵墓は広大で、一つの山自体が墳丘という感じである。鳥居の向こうに見える円墳は、石を積み上げたもので、あまり派手には出来ない事情があったようだ。南方向には大和平野(盆地?)が眼下に広がっていた。

 第50代桓武(かんむ)天皇陵:在位は781~806、父は光仁天皇。陵墓名は柏原陵。皇妃は23名いたとか。平安京遷都や長岡京遷都、蝦夷征伐などで知られる。

 第74代鳥羽(とば)天皇陵:在位は1107~1123、父は堀河天皇。陵墓名は安楽寿院陵。安楽寿院という寺院自体が御陵というのは珍しい。

 第76代近衛(このえ)天皇陵:在位は1141~1155、父は鳥羽上皇。陵墓名は安楽寿院南陵。陵墓が多宝塔というのも珍しい。

 第72代白河(しらかわ)天皇陵:在位は1072~1086、父は後三条天皇。陵墓名は成菩提院陵。後に上皇となり、院の護衛として「北面の武士」を創設した。

 第54代仁明(にんみょう)天皇陵:在位は833~850、父は嵯峨天皇。陵墓名は深草陵。この頃に最澄らによる比叡山開山が行われた。

 深草十二帝陵:この御陵には12人の天皇が葬られている。第89代後深草天皇、第92代伏見天皇、第93代後伏見天皇、北朝の第4代後光厳天皇、同じく北朝5代後円融天皇、北朝6代で第100代目の後小松天皇、第101代称光天皇、第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇、第106代正親町天皇、第107代の後陽成天皇までの12帝である。

 第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇陵:在位は1221~1221?、父は順徳天皇。陵墓名は九條陵。4才で即位した帝は、「承久の乱」の勃発により鎌倉幕府により強制的に退位させられた。在位期間は81日という短さであった。日本天皇史上、「廃帝」とか「半帝」とか呼ばれる天皇が3人いる。第39代弘文天皇、第47代淳仁天皇、第85代 仲恭天皇である。

 東福寺。京都五山の一つで広大な境内に伽藍が並ぶ、紅葉の東福寺/通天橋として知られている。本堂、開山堂、三門、方丈、通天橋など見所は多い。

 第86代後堀河(ごほりかわ)天皇陵:在位は1221~1232、父は守貞親王(高倉天皇の子)。陵墓名は観音寺陵。鎌倉幕府の傀儡的位置づけの天皇であったとか。
「山の端を 分出づる月のはつかにも 見てこそ人は 人をこふなれ」

 第121代孝明(こうめい)天皇陵:在位は1847~1868、父は仁孝天皇。陵墓名は後月輪東山陵。徳川家に降嫁した和宮(かずのみや)は異母妹。この天皇は幕末維新のまっただ中を生き抜いた。

 泉湧寺。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。

 日本の歴史がドカンと一気にきたようで、その歴代の天皇陵を巡ると感慨深いものがある。

 武家政治の時代にあっても、日本の天皇家は存続し、武士は天皇より授かる位によって権威を持った。摂政関白太政大臣など。

 太政大臣(天皇を訓導する官僚):律令制度(飛鳥時代)の官僚最高位にある職で今でいう事務次官か。大臣というのも律令時代からあるとすれば随分古い官位?ではある。武家では平清盛、足利義満、豊臣秀吉などがその位に就いた。

 征夷大将軍、執権、管領などは武士の中での役職であって、天皇家とは関係がなかった。征夷大将軍/徳川家康でさえも太政大臣になれたのは死ぬ一ヶ月前であったとか。


輪旅 山城・大和・河内を行く! その2

2007-08-18 21:29:34 | Weblog
《輪旅 山城・大和・河内を行く! その2》

 天皇陵巡り、それは地味な旅ではあるが、興味を持って廻れば奥深い世界でもある。西暦2007年は、皇紀でいえば2667年になるとか・・・天皇陵巡りは天皇家124代、2667年を遡る旅でもある。

 陵墓自体は、初期の頃の濠を廻らした前方後円墳から、丘の一部を利用した円墳まで規模はそれぞれであるが、現地に立ち、その全容を眺めながら往時を想像してみるのも面白い。

 日本最古の官道といわれる竹内(たけのうち)街道は推古天皇の時代には存在したといい、現在の堺市、松原市、羽曳野市、太子町、葛城市へとつないでいた。

 このルートはシルクロードの終点でもあり、大陸から船で海を渡り、瀬戸内海を経て境湊へと上陸したという。そこより竹内街道を通って大和の明日香へともたらされた。

 竹内街道沿いには堺市の百舌鳥耳原古墳群、藤井寺市から羽曳野市に至る古市古墳群、太子町の古墳群が存在する。この街道沿いが日本の歴史に深く関わっていることは、実際に訪れてみて実感するものである。

 第17代履中(りちゅう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原南陵。全国に国司を置いて官事を記録させたという。濠を廻らした立派な前方後円墳であった。

 第16代仁徳(にんとく)天皇:在位は?父は応神天皇で陵墓名は百舌鳥耳原仲陵。その政治はまさしく「仁」と「徳」の聖王であったという。三重の濠を廻らした前方後円墳は世界最大で、一周すると3キロ弱あるという。

 第18代反正(はんぜい)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原北陵。

 今日のメンバーは、昨夜の宿で世話になったサイクリング仲間のM氏と、クラブつながりのI氏。I氏の案内で長尾街道、竹内街道と走って藤井寺市を目指す。I氏いわく、40年前に走ったときは畑に覆われた丘陵地だったとか。

 第14代仲哀(ちゅうあい)天皇:在位は?父は日本武尊で陵墓名は恵我長野西陵。
濠を廻らした前方後円墳であった。

 藤井寺といえば葛井寺、西国三十三札所の第5番にあたる。聖武天皇の発願で行基が創建したという。折角なのでお参りをする。

 第19代允恭(いんぎょう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は恵我長野北陵。前方後円墳の濠は干上がって草原になっていた。

 これよりは竹内街道となる国道166号を走って太子町を目指した。二上山の山裾を行く街道沿いは河内ぶどうの産地とかで、山の中腹まで栽培されたぶどう畑は見ごたえがあった。

 第31代用明(ようめい)天皇:在位は585~587、父は欽明天皇で陵墓名は河内磯長原陵。仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の篤い人物だったという。聖徳太子の父であり、推古天皇の兄でもある。長い坂を上った丘からは南河内の風景が眼下に広がっていた。

 叡福寺:上之太子とも呼ばれ(ちなみに中之太子は野中寺)聖徳太子の廟所でもある。国重要文化財の多宝塔は立派であった。

 最終、河内源氏の墓所を訪れ、石川に沿った南河内サイクルラインを走って帰途に着いた。

 天皇陵巡り・・・それはイマジネーションの世界でしかない。遠くにこんもりとした丘が見えると、それが天皇陵であり、千年、二千年の歴史を経ていると想像するだけで感動がある。

 宮内庁により厳重な管理がされており、その墳丘は手付かずの自然林でもある。陵墓を囲む濠はゆったりとたたずみ、昔と変わらずに青い空を映していた。


輪旅 山城・大和・河内を行く! その1

2007-08-14 22:37:51 | Weblog
《輪旅 山城・大和・河内を行く! その1》

 旧国名は律令制の時代、全国に60幾つ決められた。今でも美濃だとか、飛騨だとか当たり前に使われているが、その経緯を知る人は少ない。当然、国であるからにはそれぞれに国司(県知事)がおり、国府(県庁)があったということである。

 今回の自転車旅のテーマは、旧街道、旧首都?、天皇陵など歴史を辿る旅でもある。まあ、普通の方なら興味も持たないマイナーな場所を訪れてきたということである。

 天皇陵、それは世界で唯一、万世一系といわれ、125代続く日本国の天皇の陵墓である。よって124の天皇陵が存在し、宮内庁が厳重に管理をしている。

 山背古道、山城といえば今の京都府で山背は古い表現のようである。簡単にいえば当時の奈良と京都(正確には滋賀)を結んだ道である。大和から木津、宇治、山科、近江へとつないでいた。

 城陽駅に降り立ち、山背古道を忠実に走ることにする。駅前に簡単な案内板があるものの、観光案内はまだ閉まっており、ルートマップは入手出来なかった。町中にも案内板らしきものはなく、城陽市では熱心でないように感じた。

 水渡(みと)神社、この地域では結構な格式の神社であるようで、うっそうとした森の横を通り過ぎる。

 古道は南山城の山裾をまさしく縫うように木津方面へと続いていた。いわゆる官道ではないようで、真っ直ぐに整備はされておらず、民家の庭先や梅の畑の中を通っていた。

 道は木津川の氾濫原を避け、山裾の高台を通っているため、展望は申し分がない。生駒山や信貴山が西南方向に眺められた。

 有難いのは道に埋め込まれた山のマーク。それぞれに個人の名前が記入されていて道への愛着を感じさせてくれる。これがルート選択の参考になって大いに助かった。

 上狛よりは木津川にそって東進し、加茂町を目指す。次の目的地は恭仁京跡、奈良時代に聖武天皇が四年間だけ都を置いた場所である。

 今時珍しい木造校舎の恭仁小学校の横に遺跡はあった。それほど広くはないものの、木立に囲まれは原っぱは十分に当時の面影が残っていると感じた。四年後に都は紫香楽宮へと遷都され、その後は山城国分寺として七重の塔が建てられたといい、その立派な礎石が今も残っていた。

 加茂の駅前のコンビニにておにぎりとビール?のランチを済ませ、再び奈良を目指す。

 梅谷口の交差点を右折し、坂を上ると国境食堂というお店があった。ここが山城国と大和国の境であったのであろうか。

 いよいよ大和の天皇陵巡りの始まりである。これより先は超が付くマイナーな話であるため、興味のない方はパスをされたほうがよいでしょう。

 第43代元明(げんめい)天皇陵:女帝、在位は707~715、皇宮は平城京。父は天智天皇。奈保山東陵は小さな丘の南面に位置していた。風土記の編さんや郷里制の実施に努められたとか。

 第44代元正(げんしょう)天皇陵:女帝、在位は715~724、皇宮は平城京。母は元明天皇。奈保山西陵は小さな丘に位置していた。律令制の整備に努められたとか。

 第45代聖武(しょうむ)天皇陵:在位は724~749、皇宮は平城京、恭仁宮、紫香楽宮、難波宮、平城京へと転々とした。父は文武天皇。佐保山南陵は東大寺の近くの丘にある。全国の国分寺の建立や総本山である東大寺・大仏殿を建立された。

 これよりは「歴史の道」なるルートにて大和を巡ることになる。

 第51代平城(へいぜい)天皇陵:在位は806~809、皇宮は平安京。父は桓武天皇。楊梅陵は平城宮のすぐ北にあり、周りは民家となっていた。

 第13代成務(せいむ)天皇陵:在位は?、皇宮は近江国志賀の高穴穂宮?父は景行天皇。陵墓は狭城盾列池後陵という。

 平城京跡。いわずと知れた奈良の都跡である。その広大な敷地にかつての都(首都機能?)があったというものの、今では復元された朱雀門と復元中の大極殿?のみが建っている。

 第11代垂仁(すいにん)天皇陵:在位は?、皇宮は宮纏向珠城宮。父は崇神天皇。陵墓は菅原伏見東陵といい、周りに濠を廻らした立派な前方後円墳であった。

 唐招提寺。お寺の名前は、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いで付けられたとか。金堂や講堂など国宝が多数あるというが、生憎と解体修理中とかで、囲いで覆われていた。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった。

 薬師寺。ついに憧れの東塔(三重の塔)に出会うことが出来た。明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサは、この塔を指して『凍れる音楽』と表現したという。一生に一度は見ていただきたい天平文化の大遺産といえる。

 初日の旅はここで打ち止め。大和郡山駅より関西線に乗り、堺市に住む友人宅へと急いだ。