Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

自転車、登山、テレマークスキー、カヌー・・・そんな情報が満載ですよ!!

輪旅・垂井から彦根へ!

2006-08-29 21:53:15 | Weblog
≪輪旅・垂井から彦根へ!≫

『垂井宿』
 垂井宿の横を流れる相川の北に美濃路の追分があり、中山道から分かれて大垣宿、墨俣宿、起宿、萩原宿、稲葉宿、清須宿、名古屋宿、宮宿と58キロの行程である。江戸時代には朝鮮通信使、琉球使節団、お茶壺道中が通り、ベトナムから来た象が通ったことでも有名である。近くの南宮大社は美濃一宮でもある。

 今も営業を続けている当時は旅籠であった亀丸屋旅館の前を通り過ぎ、関ヶ原を目指す。野上の辺りには今も松並木が残っている。

『関ヶ原宿』
 古戦場で知られているが、壬申の乱の舞台でもあった。桃配山や黒血川に名残りがある。歴史の好きな方なら一日居ても飽きない場所でもある。不破の関があったことでも知られている。

 常磐御前の墓を右に見送り、ちょっとした峠を越えると今須に入る。

『今須宿』
 JRの高架を潜った先に古刹の妙応寺がある。この先で美濃国と近江国の境があり、寝物語の里としても知られる。

 山間の静かな道を下って行くと柏原へ至る。楓の並木が珍しい。

『柏原宿』
 伊吹もぐさで有名なところであり、張りぼての大きな福助を観る予定であったが、生憎と休業日であった。ここで京都からの客人二人と待ち合わせる。近くの清滝寺には近江源氏佐々木氏の末裔である京極氏の歴代の墓があり、歴史に興味のある方は必見である。

 更に道を下り、醒ヶ井を目指す。

『醒ヶ井宿』
 日本武尊が伊吹山の闘いで病に倒れ、その熱を居醒の清水で癒したという伝説がある。今もこんこんと涌き出る泉はとても透明感があり、見ているだけで心が安らぐ。この時期、用水には梅花藻の花が咲いていた。

『番場宿』
 長谷川伸の戯曲「瞼の母」の忠太郎は有名である。また、六波羅探題北条仲時の墓がある蓮華寺を訪れ、歴史に触れてみるのも面白い。鎌倉時代末期の動乱で430名が番場の地で自刃し、蓮華寺の境内に葬られているという。

 名神高速道沿いの坂を越え、三叉路を右に折れると摺針(磨針とも)峠は近い。摺針の地名の由来は弘法大師だそうで、まだ修行の身のころ、峠を通りかかると老婆が斧を摺って針にするのだという。気の遠くなる作業に弘法大師は己の修行の未熟さを恥じたと言う。
  「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」
 数年前まで「望湖堂」という茶屋が残っていて、そこからの琵琶湖の展望が素晴らしかったとも聞く。

 峠を一気に下って左折すると鳥居本宿へと入って行く。自転車で走り抜けるには惜しい宿場で、江戸時代から続く懐中胃薬「赤玉神教丸」を製造販売している有川家の豪壮な家構を今も見ることができる。また、雨合羽を商っていた古い看板が軒先につり下がっているのも興味深い。

 左中山道、右彦根道の道標に従い(当日は間違えて手前で曲がったが)朝鮮人街道に沿って彦根へ向かう。石田三成が城を構えた佐和山をトンネルで潜り、彦根の城下へと入って行く。

 彦根城(別名は金亀城)は国宝である。関ヶ原の合戦で功績のあった井伊直政が城主となり、明治の廃藩置県まで14代の伊井氏が彦根を治めたという。その後も伊井家が市長を何度か務めたとも聞く。その城の築材には、小谷城、長浜城、佐和山城、安土城、大津城から移されたものも多いそうだ。

 昼食は蔦の絡まる懐かしい雰囲気の洋食屋さん「スイス」で頂く。30年前?に戻ったような価格設定が嬉しい。その後は琵琶湖畔沿いに北上し、道の駅で一服。更に天野川に沿って三島池を目指し、伊吹山の山裾を通って関ヶ原、垂井へと戻った。

 歴史に触れる旅としての自転車はベストマッチだと感じている。中山道という歴史道を走ってみると、新興の道にはない重みや癒しを感じる。また、そこを信長や秀吉や家康など、歴史上の有名人物が通ったと想像するだけで感動できる。城の存在も重要で、町のシンボルでもあり、心の拠り所とすればその価値は大きい。明治の時代に近代化という名目で多くの城が壊され、日本の財産を多く失ったことは残念である。


川旅・暴れ天竜を下る!その2

2006-08-28 21:27:15 | Weblog
≪川旅・暴れ天竜を下る!その2≫

 時又は飯田市の中心より南7キロ位の位置にあり、天竜下りの弁天港から時又港の終着でもある。天竜下りにはもう一つあり、姑射橋の下から唐笠港までを下る2つがある。これは今回初めて知ったことではあるが、上流は鵞流峡を通るためにかなり過激なコースであり、下流は比較的穏やかな瀞や淵を行くのんびりコースであるようだ。

 今日の夜は時又でキャンプの予定である。港の近くに素敵なキャンプサイトを見付ける。トイレがあって、東屋があり、水場もあって無料という好条件の場所で、オマケにテントの下は芝生で快適な一夜を過すことが出来た。

 夜の部のメニューは豚シャブ、男ばかりのグループには下ごしらえが簡単で手早く準備出きるのが良い。それと、今日のスペシャルメニューは飯田名物?の馬刺し。地元のスーパーで値打ちに買うことができ、良く冷えた恵比寿ビールとのマッチングは最高であった。余談ではあるが、飯田は珍味の宝庫で、ザザ虫、ハチノコ、イナゴなどにも次回はチャレンジしてみたい。

 翌日は時又港から唐笠港への川下り。今回は車を先に唐笠駅にパーキングし、飯田線で時又へと戻った。川下りスタイルのオッさん4人が手ぶらで電車に乗っているのも無様な感じではあるが、これから下る天竜を車窓から眺めて盛り上がっていた。

 Tさん曰く、「今日は楽々ですよ!」の言葉に周りの景色を見るのにも余裕を感じる。天気は上々、鼻歌混じりに小さな瀬へと入って行く。前方に両岸が切り立ち、崖の上部にホテルが見え始めると天竜峡である。流れは比較的穏やかで、上部に架かる姑射橋をバックに記念写真を撮る。

 吊り橋の下を通過し、飯田線の鉄橋を潜る辺りでちょとした瀬が現れた。カヌー下りでの橋脚は結構怖い存在で、その周りでは変な流れが発生していて不気味である。ましてや、艇を真横にぶつければ凄まじいパワーでカヌーはポキリと折れてしまうという怖い存在だ。

 その後はのんびりカヌー旅が待っていた。両岸は切り立っていて、道路や民家もなく、部分的に現れる飯田線だけが人口物という区間である。流れは緩くなるために漕ぐ必要はあるが原始のままの景色が続くために飽きがこない。

 瀞場の岸に無人の屋形船が停めてあった。船縁には缶ビールや地酒などの飲物が並べてあり、川下りの観光客向けの売店のようだ。時間がまだ早いためにまだ人影が無かった。

 休憩を兼ねて白砂の河原に上陸してみる。そこは人の気配が一切無い変わりに動物の足跡が多数あり、多分それは水を飲みに来たカモシカであろうと思われた。充実した二日間の川旅も終わりに近いという余裕からか、ライフジャケットを着けたまま泳いでみる。多少、水は冷たいものの水質は綺麗で気持ち良く泳げた。

 長瀞橋の手前の左岸が唐笠港であった。数羽のアヒルがガアガアと迎えに泳いで来て歓迎してくれる。後で知ったことであるが、これは天竜下りの観光客を出迎える演出のようであり、無賃の川下りのカヌー客はお呼びでないようであった。

 上陸地点を間違え、観光土産屋の中を通ってカヌーを移動したためにひと悶着あったが、無事に二日目の川下りも終えることができた。

 下條村の道の駅で美味な信州?蕎麦をいただき、次回のカヌー旅の約束をして仲間と別れた。一人旅も楽しいが、大勢での旅も素敵である。今回のプランニングをしていただいたTさん、激沈にもめげずに漕ぎ切ったMさん、いつも優しい目で安全に気を配ってくれているKさん、頼りになるカヌー仲間達にあらためて感謝を申し上げたい。


川旅・暴れ天竜を下る!その1

2006-08-25 20:05:03 | Weblog
≪川旅・暴れ天竜を下る!その1≫

 数年前、天竜川の水源から河口までを自転車で走ったことがある。水源は汚染が進んだ諏訪湖で、とても綺麗とは言えない水の流れを眺めながら一泊二日で河口となる遠州灘まで230キロを走り切った。途中より合流する河川もあるため、多少は水も綺麗になっていったが、佐久間ダム辺りのダム湖でまた汚れていったのが記憶にある。

 その自転車ツーリング途中、天竜峡の橋より見下ろした天竜川はゆったりと流れ、その渓谷を川下りの船が長閑に過ぎっていったのが記憶にある。今回はその天竜川をカヌーで下ることとなった。

 スタートは高森町と豊丘村の境となる明神橋を予定していたが、生憎とその日の夜は花火大会で、準備のために河川敷へは進入禁止となっていた。仕方なく、少し下流にある阿島橋の近くよりスタートとした。

 以前より聞いていた噂では、天竜川はとてもパワフルな流れで、ウェーブも凄いのが立ち、激沈(要するにカヌーがひっくり返ること)も覚悟というワイルドな川下りになるという。今回は安全対策も含めてウェットスーツを新調し、低体温症にも備えた。ヘルメットも必携である。

 平年よりも水量は少ないという。やや濁りがあり、緊張感が高まってくる。ベテランのTさんやKさんのラインを忠実に辿り、安全第一で下って行くが、遠くに瀬の音が聞こえ始めると思わずパドルを握る手に力が入ってしまう。

 瀬に入れば、あとは度胸の世界。どんな波や流れの変化があっても必死にパドルを動かすしか方法はない。多少でも加速している方が安定は良いようだ。もう一つの危機は瀬の終わり付近。ボイルという水流の湧き上がりが曲者で、艇が浮いた状態になって不安定となり、バランスを崩す羽目となる。まあ、カヌーの楽しみは、刻々と変化する水の流れを読み、それをどう乗りこなすかにあるようだ。

 適度な瀬と瀞場を繰り返し、南原橋を過ぎるとクランクに入る。後ろから来た天竜下りの船をやり過ごす。観光気分の乗客より手を振られ、柄にもなく手を振って答えた。若い女性にはカヌー乗りの印象を良く見せたいという下心もあったが・・・。

 覚悟を決めてクランクに入る。その先は鵞流(がりゅう)峡という最難関で、両岸が数十メートルという断崖が1キロ程続き、その真っ只中の急流で沈をすれば時又港まで流される派目となるそうだ。「所帯持ちのすることではない!」と心で反省しながら、艇はそれに逆らって急流へと突入していった。

 Tさん曰く、例年よりは水量が少ないため、瀬の大きさは大した事はないと・・・それでもウェーブの立った瀬でファルトボートは上下に揺られ、バンバンと水面を叩く状態となり、生きた心地がしない。スプレースカートに掛かる水飛沫は艇の内部にも侵入し、足元を濡らし始める。また、その大きな飛沫は顔面にも容赦なく掛かり、口の中へ入ってゴホゴホと咽る羽目となった。

 幾つもの瀬をやり過ごしたころ、前方を行くMさんの艇が横になって船底を見せていた。一瞬、何が起きたのかなと思ったころ、Mさんが浮き上がって来て艇を岸に寄せ始めた。同行の三人は傍観するだけで何も出来ない状態。岸の上で水を抜き、再び川下りに入ったのは5分後位であっただろうか。

 天竜橋を潜れば、そこが時又港である。今日のゴールでもあり、艇を岸に付けた時は正直ほっとした。「50歳を過ぎたオッサンのやることではないな!」と反省しつつも、ダイナミックな川下りに満足し、「来年も恒例で天竜へ来ましょう」と懲りないオッサンでもあったようだ。

 今日のクルマ回収はタクシーで。車中、今日下った川を眺めながら、ああでもない、こうでもないと4人の会話が弾んだことは言うまでもない。


東海道・宮宿から吉田宿へ!その2

2006-08-21 23:15:30 | Weblog
≪東海道・宮宿から吉田宿へ!その2≫

 岡崎宿といえば徳川家康公、五街道を制定した本人でもある。松平郷、駿府城、久能山東照宮と訪れ、いろいろ考える機会があった。やはり三英傑の中では一番であり、その後の江戸(徳川)幕府の繁栄をみても実力は明かである。その手の分析は凄い方が多くお出でのようなので止めておくが、私が感じるのは現代でも多くの部分で徳川時代が生き残っているように思う。仏教でいう檀家制度だとか町内会の運営一つも当時のままのような気がする。

 東海道は岡崎城を避けるように北へ迂回している。二十七曲りと言われるように街道は複雑に折れ曲がっていた。これが用心深い家康の指示なのかどうかは知らないが。康生通はその名残りなのだろうか。

 筋違橋跡を渡り、岡崎インターの入口を過ぎて大平一里塚へ至る。塚は一つであるが当時の雰囲気が残っていて、いい感じであった。街道は美合の街中を通り過ぎて更に南東へ向かっていた。

 次の宿は藤川、かなり地元でも保存に力を入れているようで、いろんな案内板が数多く建っていた。無人で無料の資料館へ入り、休憩がてら当時の資料に見入った。その後、あまりの暑さに東棒鼻跡のベンチで昼寝を楽しむことになる。

 本宿を過ぎ、家康ゆかりの法蔵寺を右に見て更に先へ進む。今まで岡崎方向に流れていた川が無くなり、街道沿いの川は豊橋へと向きを変えていた。ということはここが峠、峠とは気が付かないような地形を過ぎると道は下りに入った。ペダルを漕がなくて済むのがあり難い。

 赤坂は大きな宿であったようで、旅籠跡や高札場跡の碑が建ていた。家並みが途切れる辺りより松並木が現れ、御油宿へと入っていった。夏祭りなのか、手筒花火を載せた神輿が道の横に置かれ、行灯を飾ったりする地域の人々が生き生きと準備に動いていた。

 豊川の氾濫原であり、当時は肥沃な水田地帯だったと思われる地形に真っ直ぐ続く道を辿り、高橋というありふれた名前の橋を渡る。やがて豊川の堤防に沿うようになると吉田宿は近い。今の市の名前の由来となった豊橋を渡って市街へと入って行く。

 当初は宮宿から見付宿まで走る予定であったが、余りの暑さにギブアップし、豊橋で打ち止めとした。あまり大きな声(書き込み?)では言えないが、昼間の時間帯はコンビニが出てくるたびに泡の出る麦ジュースを飲み、公園のベンチで昼寝をするという体たらくであった。大人の遊びはのんびりと・・・と言うよりはいいかげんな自転車旅であった。

東海道・宮宿から吉田宿へ!その1

2006-08-17 22:41:06 | Weblog
≪東海道・宮宿から吉田宿へ!・その1≫

 桑名宿より七里の渡しで宮宿へ着いた旅人が熱田神宮に参拝したことは十分に想像できる。長い船旅を無事に終えて陸へ上がれば信仰心のない者でも神様にお礼を言いたくなるのではと思える。大鳥居を潜って長い玉砂利の参道を行けば、その奥に本殿が現れる。

 JR熱田駅に降り立つと凄い蝉の鳴き声が聞こえてきた。岐阜の田舎でも聴いたことのない大合唱に圧倒されながら今回のスタート地点となる宮の湊跡へ向かう。当時は海に面していたであろう湊には移築された櫓と常夜灯が建ていた。運河の向こうを新幹線が猛スピードで通り過ぎて行った。

 東海道は大鳥居の前で右に折れ、裁断橋跡を通って呼続方面へと向かう。今では裏通りとなった旧街道は以外と走りやすく、所々に残る旧家の造りに見入りながら自転車を走らせる。

 道が突き当たったところに笠寺観音があった。歴史を感じさせるその建物は、古びてはいるが威厳がある。旅の安全をと寄ってみた。

 笠寺の一里塚はすぐであった。今も当時のままの塚が都会の真ん中に残っていることは驚異であった。多分、信仰的な意味合いで土地の方が触らなかったために現存しているようである。貴重な歴史遺跡をこれからも残してもらいたいものだ。

 鳴海宿に入る。宿の入口となる位置に小さな常夜灯が残っている以外、観るべきものは無かった。次の有松は宿場ではないが、「有松絞り」で有名になり、それを商う問屋の立派な建物が今も街道筋に多く残っている。時間があれば絞り会館に寄って、絞りの妙技を観たいものである。

 国道1号線を横切り、阿野の一里塚へ辿りつく。ここは珍しく両側に一里塚跡が残るが、塚は無くなっていた。その先の境橋で尾張国から三河国に入った。

 次の宿場は池鯉鮒宿。今では知立という字が当てられるが、なかなか味のある文字である。街中を抜ける東海道に面影は少ないが、世界的企業となったトヨタへの入り口であるせいか活気があった。

 国道を横切って来迎寺辺りへ入る頃より松並木が目立ち始める。道の両側にぎっしりと残る松の大木は迫力があり、街道の雰囲気も増してよいのだが、夏の強い陽射しをさえぎってくれるのが一番あり難い。冬は木枯らしを防いでくれるのであろう。

 宇頭茶屋まで来れば岡崎宿は近い。矢作橋を渡って八丁味噌の蔵を眺めて岡崎の町へ入っていった。