Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅・北近江 木之本から長浜へ!

2006-09-27 21:48:57 | Weblog
≪輪旅・北近江 木之本から長浜へ!≫

 先ずは長浜城豊公園から琵琶湖の湖岸を北上する。9月も末になると夏の暑さはどこへやら、長袖の上着が欲しいほどの心地よい気温である。湖岸道路の歩道上を琵琶湖の湖面を間近に眺めながら快調に自転車を走らせる。

 1時間ほどで木之本駅に着く。ここで総勢13名が揃い、北近江歴史探訪サイクリングの始りとなる。

『賤ヶ岳古戦場』
 超レトロなスキー?リフトに乗って賤ヶ岳へ登る。リフトを降りると左手に奥琵琶湖の絶景が広がり、さらに頂上へ上がると右手に湖北の田園風景が、北方向には余呉湖の青い湖面を見下ろすことが出来た。
 賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変の翌年、1583年に近江国伊香郡の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。この闘いの功労者を七本槍といい、福島正則や加藤清正が活躍したとあった。

『木之本宿』
 北国街道、別名を北陸路ともいい、中山道鳥居本宿より分かれて越前、加賀、越中、越後へと至る旧街道である。その一つの宿が木之本宿で、地蔵院を中心に古い街並みが今も残っている。桑酒で有名な造り酒屋、日本の薬剤師1号という本陣薬局、滋賀銀行の古い建物などを見学した。山内一豊の妻がここの牛馬市で名馬を買ったという言い伝えがあるとか。

『渡岸寺』
 戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失したが、本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れたという。高さ1.95メートル、平安初期の一木造で、井上靖の「星と祭」や水上勉の「湖の琴」、土門拳の写真などにより、全国的に有名になったという。その優美な尊顔は一見の価値ありであった。

『小谷城』
 小谷城は近江国浅井郡にあった戦国時代の山城。日本五大山城の一つに数えられる。戦国大名・浅井長政の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で織田信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っているという。今回は時間に余裕がなく、麓の資料館のみの見学となった。

『国友鉄砲の里』
 戦国時代、大坂の堺とならぶ鉄砲の産地として栄え、鉄砲の里として知られるようになり、織田信長をはじめ多くの戦国武将の注文を受けていたと言われる。また、国友一貫斎は、連発式空気銃や距離測定機を作り、自作の天体望遠鏡で太陽の黒点を連続観察したことで有名だそうだ。実際に火縄銃を手に取ってみるとズシリと重く、その精巧な作りは見応えがあった。

『姉川古戦場』
 この合戦は1570年、浅井・朝倉軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人が、姉川を挟んで軍を敷き、徳川方の攻撃により戦いが始まった。 最初、浅井・朝倉軍が優勢で、織田方は、13段構えの陣を11段まで突破されるほどであったが、徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れはじめ、これに力を得た織田軍も総攻撃に転じ、浅井・朝倉軍は小谷城へ敗走することとなった。この戦いによる戦死者は両軍で2500人とみられ、この3倍におよぶ負傷者が出、姉川は血で真っ赤に染まったといわれている。今も残る血原、血川橋という地名が生々しい。

『石田の里』
 秀吉の忠実な家臣として活躍した石田三成は、近江の坂田郡石田村に生まれた。15歳のとき当時長浜を領していた秀吉に認められ、側近となる。この時の「三椀の才」の逸話は有名である。1590年には佐和山城を与えられ湖北を治めるまでになった。秀吉の死後、関ヶ原の合戦で西軍の大将として徳川家康に破れ、処刑されて一生を終えた。長浜城から直線で3キロ、そこで生まれ、激動の人生を過ごした三成に近づけたように感じた。

『黒壁』
 北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれている。古くから長浜の中心だったこの辻に、明治33年(1900)第百三十銀行長浜支店(6年後に明治銀行となる)が建てられ、壁が黒塗りだったことから「黒壁銀行」の愛称で親しまれた。
 黒壁スクエアーは大勢の観光客で賑わっていた。ほとんどの地方都市の繁華街は寂れて衰退してる現状からすれば、長浜の賑わいは驚異的である。そのサクセスストーリーは調べてみる価値がありそうだ。なぜか紫イモのお店が繁盛していた。

 ガシガシと走りまわる体育会系の走りも良いが、知的好奇心を満たす文化系の走りも面白い。特に歴史など事前に予備知識を得てから走ると中身の濃いサイクリングが楽しめるようだ。

東海道・由比宿から小田原宿へ!

2006-09-15 21:48:55 | Weblog
≪東海道・由比宿から小田原宿へ!≫

 JR穂積駅で一番列車となる5時20分発に乗り込む。土曜日とはいえ、通勤客と思える面々がそこそこ乗っている。こちらは遊び、朝から缶ビールをプシュと開けて呑気なものである。鈍行乗り継ぎで4時間、由比までの列車旅を楽しんだ。

『由比宿』
 6月に見付宿から由比宿を走ったため、今回は由比からのスタートとなる。見覚えのある駅前より走り始めるとサクラエビの看板がやたらと目に付く。「かき揚げ200円」の暖簾に釣られ、揚げ立てを一つだけ買ってみる。サクラエビは思ったより身があり、ホカホカ感とサクサク感が嬉しかった。これでビールがあれば・・・と走り始めから不謹慎な思いが頭の中をよぎる。

 ここは由井正雪の出生地とか、生家だという「正雪紺屋」を覗いて見た。案内書には、慶安4年(1651年)徳川幕府の政策への批判と浪人の救済を掲げ、由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし、駿府にて自害したとあった。

『蒲原宿』
 旧国道沿いに走り、茄子屋跡の角を左折して蒲原宿へと入っていった。道はカラー舗装がされ、本陣跡など説明板が多く設置されていたが、予備知識に乏しく、斜め読みをして先を急ぐ。

 宿場外れより北に向きを変え、坂を上って東名高速を越える。街道は富士川の氾濫を避けるように右岸の山裾を行くようになる。道が数度折れ曲がった先に岩渕の一里塚があった。榎木の大木を塚の上に繁らせた一対の一里塚は珍しい。その先の脇本陣にも寄ってみた。150年は経つという建物は解体修理などしておらず、当時のままの雰囲気が漂っていた。

 急な坂を下ると富士川に出くわす。当時は渡船で越え、上、中、下と三箇所の湊があったそうだ。川筋の変化や水量によって湊を変えたとのことであった。

『吉原宿』
 ここは製紙工場地帯のようで、赤い横島模様の煙突を多く見かける。宿場町として見るべきものはないようで、唯一「平家越の碑」というものがあった。
「伊豆で兵を挙げた源頼朝を討つために平清盛の命を受けた平維盛ら征東軍七萬騎は、治承4年(1180)10月16日富士川西岸の清見ヶ関に布陣、迎え撃つ頼朝勢は東岸に十萬騎を集めた。10月24日を決戦の日と決めたが、20日夜更け、甲斐から参戦した武田勢が敵陣の後方に回って攻めようとした。ところが富士川の葦原に眠っていた水鳥の大群が物音に驚いて一斉に飛び立った。羽音を敵の襲来と誤認した平家の大軍は我先と逃げ出し陣中は大混乱、源氏の軍勢は戦わずに勝利を収めた。」
と説明板にあった。

 数本の松並木の下に「左富士の碑」があった。当たり前に考えれば東海道を江戸から来れば富士山は右手に見えるはずである。ここは道が大きく北へ向きを変えるために富士山が左に見えるという訳である。当時の旅人はそんな些細なことにも驚いたようであるが、生憎と今日は雲に覆われて富士山は望めなかった。

『原宿』
 更に道は田子の浦の海岸線に沿って(実際は建物のために海は見えないが)原宿を通りすぎ、沼津へと向かう。街道と駿河湾の間は風と波で打ち寄せられた砂浜の丘となっていて、千本松原の地名のごとく松林が延々と続いていた。

『沼津宿』
 狩野川に架かる永代橋の手前で街道は左に折れ、大手町へと入っていった。沼津城址の碑を見て広場に上がって見るが、石垣一つ無い寂しい城跡であった。宿場の痕跡もほとんど無く、宿場外れの八幡神社境内に残る源頼朝と義経の対面石なるものを見学した。腹違いとはいえ、この兄弟の辿った運命は悲運そのものである。兄の恨みを買い、平泉の藤原氏を頼って逃走するドラマは日本人が好むストーリーのようである。

『三島宿』
 三島は伊豆の国府があったところであるが、現在でもその位置は特定されていないという。「伊豆国分寺七重塔跡」の碑だけが名残りである。も一つのビューポイントは三島大社、祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろ ぬしのみこと)で、伊豆一宮、総社でもあるという。瓦葺き流れ造の本殿破風付き入母屋造りの拝殿と弊殿は国の重要文化財でもある。

 繁華街を抜け、県道が右へカーブしてゆくところより東海道は川を渡って愛宕坂へと入ってゆく。道幅は狭まり、坂の上は石畳になっていた。更に街道は国道1号線と交わったり離れたりしながら緩やかに高度を上げてゆく。箱根越えに入ったようだ。

 錦田の一里塚を過ぎ、箱根路の碑を見送って更に坂を上ってゆく。塚原新田、市ノ山新田、三ツ谷新田、笹原新田、山中新田という地名が続くが、多分、標高が高いために開拓が遅れ、新しく開墾された場所と思われる。新田とはいえ水利の悪い火山灰土壌のためにほとんどが畑であった。

 街道は緩やかながら真っ直ぐに箱根峠へ向かっていた。臼転坂、大時雨坂、小時雨坂、こわめし坂、上長坂、小枯木坂、大枯木坂、石原坂、甲石坂とうんざりするくらい坂の連続である。その幾つかは石畳が再現されていて、最初のうちは真面目に旧街道を辿っていたが、細いタイヤでは歯が立たず、自転車を押す派目となる。忠実な旧道のトレースは諦め、国道1号を走ることにした。

 この日の気温は35度、だんだん身体が重くなり、最後は脚が痙攣するようにまでなってしまった。時間は否応無しに過ぎ、ほうほうの体で箱根峠(864m)に辿りつく。時計は5時を回り、霧の立ち込める峠は薄暗くなり掛けていた。芦ノ湖には帆船風の観光船が数艇、停泊しているのが見えた。

 今日のゴールとなる小田原は20数キロ先、急いで下りに入る。天下の険と謡われる東海道の最難所は今も変わらない。石畳の旧道を走るのには太いタイヤのMTBが良く、次回はリベンジで再度訪れて見たい。小田原駅に着いたのはすでに暗くなりかけた6時半過ぎであった。