Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅 古都散策ラン その4!(完結編)

2007-04-16 22:45:28 | Weblog
≪輪旅 古都散策ラン その4!(完結編≫

 前回、京都市内の北半分を自転車で回り、あまり訪れることのない名所に触れる面白さを知った。

 今回は南半分、鳥羽の淀城、長岡天満宮、長岡京と訪れ、前回の最終訪問地となった西芳寺へ。その後、桂離宮、東寺へと横断して塩小路橋。その後は大和街道を南下して伏見稲荷大社、伏見桃山へと。

 名神高速を京都南インターで降り、桂川の河川敷となる久我橋東詰公園にクルマを停める。さすがに、この辺りまで来ると京都の雑踏とはほど遠く、菜の花が一面に咲く長閑な田舎風景が広がっていた。

 先ずは鴨川左岸に付けられたサイクリングロードを南下する。時よりジョギングやウオーキングの人達に出会うくらいで、快適に自転車を走らせる。

 道は桂川に出合い、更に南西へと向かって走った。納所まで下り、最初の訪問地となる淀城跡を訪れる。立派な石垣と堀が残り、土手の上の桜が満開であった。

 淀城といえば信長の妹、お市の方と浅井長政の間に生まれた長女が茶々で、のちに淀殿と呼ばれるようになる。この時の淀城は少し離れた場所にあったとも。

 この淀城の少し南で桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる。そのすぐ南の山上に岩清水八幡宮がある。

 宮前橋を西に渡って長岡京市へと向かう。八角の交差点を右折して北上する。やがて長岡天満宮へと至る。ここはいにしえの時、菅原道真と在原業平が訪れた場所とか。天満宮といえば学問の神様。手遅れ?ではあるが、お参りをすませる。

 西国街道を北に進み、長岡京跡へと向かう。かつての日本の首都は現在の向日(むこう)市にあった。なんでもない住宅街の一角に大極殿の礎石が発掘された。784年、当時の奈良(平城京)は仏教系寺院が大きな影響力を持ち、また貴族から天皇家への圧力も大きかったという。それを嫌った桓武天皇は山城国の長岡へ遷都を実施したという。

 しかし、いろんなゴタゴタが続き、わずか10年で再び平安京へ遷都が行われた。つまり、ゴタゴタが無ければ、この長岡京が今の京都の中心地であったということである。

 更に西国街道を北上し、二股より左の道へ入る。前回の中止地点である西芳寺の近くまで走り、そこよりは右折して桂離宮へと向かう。

 桂離宮。それは修学院離宮と同じ皇居の別邸で、回遊式庭園と数奇屋造りの書院が有名だそうだ。見学には宮内庁への事前予約が必要である。

 桂川を渡り、更に東へ向かうと東寺へと至る。平安京の時代、都への南の門として朱雀大路の南端に羅城門があり、その両サイドに東寺と西寺が建立された。

 東寺は世界遺産となっている。その南東隅に建つ五重塔は55mあり、日本で一番の高さを誇るという。南大門、金堂、講堂、食堂と立派な建造物は見応えがあった。

 九条通りを東進し、東福寺駅のところより師団街道を北上して塩小路橋へと向かう。三十三間堂の近くより大和街道を南下して東福寺、伏見稲荷大社と通り過ぎる。道は狭く、一方通行の車と対面となるため、怖い思いを何度もする。

 伏見桃山駅の前よりアーケード街へ入るが、平日にもかかわらず凄い人手に出くわす。お祭りでもと思うが、岐阜の田舎と比較するほうが無理かもしれない。河童のキャラクターで知られた黄桜酒造へ立ち寄って冷酒を一杯だけ頂く。

 月桂冠の大倉酒造、濠川に浮かぶ屋形舟(三十石舟?/高瀬舟?)、坂本龍馬の定宿で幕末の舞台ともなった寺田屋と回る。伏見の一帯は京都の穴場的観光スポットでもあるようだ。

 今日の予定コースを全て走り終え、岐阜への帰路に付いた。観光都市として有名すぎる京都。しかし、その全容を知る人は少ないのでは。今回、二回に分けて京都市の外周を自転車で走り、その片鱗に触れることが出来たように思う。古都としての歴史の厚みは重く、何度も通わないとその魅力を知ることが出来ないように感じた。

輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その4

2007-04-02 22:44:25 | Weblog
≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その4≫

 藤堂高虎陣跡と京極高知陣跡は関ヶ原中学の構内にあった。

藤堂高虎。近江国浅井郡に生まれた高虎は、最初、浅井長政に仕える。その後、主君を次々に替え、最後は秀吉、家康と8名の戦国武将に仕えた。風見鶏、世渡り上手・・・変わり身の達人であったことは間違いがない。

 また、高虎は城造りの名人で、伊賀上野城、宇和島城など、12の城の縄張りにかかわったという。

 京極高知。その祖先は近江源氏の佐々木氏であり、のちに六角氏(近江観音寺城城主)京極氏へと分かれる。戦国時代の下克上により、京極氏は浅井長政の家臣となるが、浅井家の没落後は藩主に復帰し、江戸時代から明治維新まで大名家を維持した。近江柏原の清滝寺には歴代の京極氏の墓がある。

 次ぎに訪れたのが大谷吉継の墓所。西の首塚、不破の関跡、壬申の乱にまつわる史跡などを回り、中山の集落よりJR東海道線を潜るレンガ造りのトンネルを抜け、その先より遊歩道を上って行く。墓所は小高い丘の上にあった。吉継が関ヶ原に参戦したのは三成との友情出演か。

 藤古川のダムを越え、植林帯の林道を進んだところが宇喜多秀家陣跡。天満神社の境内に立派な碑が建っていた。西軍の敗戦後、秀家は伊吹山中を敗走し、今の揖斐川町白樫の農家に42日間かくまわれたという。

 小西行長陣跡は開戦地碑の近くにあった。行長も敗戦後は伊吹山中に逃走するが、春日辺りで落武者狩りに合い、捉えられて京都で斬首された。

 島津義弘陣跡は薄暗い林の中にあった。今も美濃と薩摩との交流があるという。義弘といえば西軍劣勢の中での敵陣突破。後方に逃げるのは武士としての恥じ、意表を突いて敵中を抜け、上石津から五僧を越えて薩摩に逃げ帰ったという。

 最後の訪問地が笹尾山。西軍の実質的な大将(実際の総大将は毛利輝元)であった石田三成の陣跡でもある。その頂上に立てば関ヶ原の地は一望の元であった。西軍の採った布陣は完璧で、素人が見ても有利な体制であったが、合戦時に本気で戦う西軍は、三成、義弘、行長、秀家、吉継ぐらいで、あとは状況を見ながらという傍観者であった。有名な小早川秀秋の寝返りが東軍勝利の切っ掛けになったとはいえ、西軍の多くは本気で豊臣家のために戦おうという思いは無かったように思えてならない。

 秀吉の死後、誰が後継者になるかは誰の目にも明らかであったのでは。人望、実力ともに最強であった徳川家康であることは。